298 信仰生活、陰の主役
聖書箇所[マタイの福音書15章1-20節]
私たちは教会に出かけます。信仰生活をします。何故なんでしょうか。何がその動機なのでしょうか。意外に自分でも気付いていないその動機―しかも実に強力なものなので主役と言ってもいいものです。そこで題を陰の主役としましたーに迫りましょう。そして表に出てもらいましょう。さらに充実した信仰生活と教会生活へと導かれて行くと確信します。
人を愛したい[1-3]
私たちの心の中には本来人を愛したい思いがあります。出会う人々を、家族でも友人でも私たちは愛そうとしています。ただなかなかスムーズに事が運ばないきらいがあり、とまどいを覚えます。私たちの多くの悩みはこれに起因します。2節ではパリサイ人と律法学者たちがイエスさまの弟子たちに難くせをつけています。ここにはどんな心理があるのでしょうか。どんな文章も同様ですが、文脈がそれを理解するための有力な鍵です。読んでみると、直前にはイエスさまが近付いて来る人々をすべて癒された、という出来事があることが分かります(14:35-36)イエスさまは人を愛されました。それはだれもがそれと分かる出来事でした。このことに彼らは大変いらつきました。それは、ねたみ。彼らは本来(正しく)聖書(をする)研究家であって、神さまのお考えを人々に伝える聖なる務めを任され、それを通して、「人を愛する」はずでした。でも人々はだんだん彼らから遠離っていくのが彼らには分かっていました。一方でイエスさまの人気は上がる一方。ねたみとは、学者によれば「傷つけられた自尊心jであり、「不安定感と劣等感を基礎にした否定的な感情の状態」です。つまり、「私はだめな人間!」という意識に捕らわれている状態です。このようなときに人は二種類の対応をとります。一つは周囲をあるいは相手を攻撃すること。これには直接的なものと間接的なものの両方があります。前者は面と向って口で悪口や皮肉を言ったり、時には暴力に訴えたりするものです。後者は悪いうわさを振りまいたりするものです。もう一つの対応は自分を磨こうとするものです、彼らはどちらを選択したでしょうか。もちろんあなたにはお分かりです。前者でした。ただしイエスさまには隙がないので、欠点だらけの弟子たちをねらい撃ちにしました。弟子たちには、子どもへの対応(19章13-15節)や自分をコントロールすること(20章20-23節)などなど種々聞題がありました。そしてちょうど彼らにとって臭合のいいことに、食事前の手洗いをしなかった場面を見つけました。これはインフルエンザヘの予防ではなく、宗教的な儀式です。バークレイはこのように紹介しています。
『食事の前の洗いのために、水がめには常に水を入れておかなければならなかった。この水を使う場合の最小の量は、……卵の穀に入るだけの水量の一倍半であった。この水をまず両手にかけ、指先を上に向けて、水を手にそって流して、手首から下に落とさなければならなかった。これは、汚れた手に触れた水がけがれるので、もし、もう一度水が指の方に流れれば指が再び汚れてしまうからであった。つぎには指先を下にして反対の方向から水をかけ、最後に片手ずつ、反対の手のこぶしでこすって溝くした。非常に厳格なユダヤ人は、これを食事の前ばかりでなく、食事の間も科理が変わるごとにこれを行った』。
このような規定を作り 強制した彼らの人々への思いとはいったい何であったのでしょうか。もはや愛はないと言ってもいいのではないでしょうか。人間には自分を向けられているものが愛なのか、そうではないのかを判断する能力が備えられています。人々の心は彼らから離れ、イエスさまへと向かって行きました。しかしオピニオンリーダーを自認する彼らには耐え難い屈辱でした。彼らが冷静でいられなかったのは、人々からの好意を受け取ることがもはやできない状況にあったからです。ここに私たちへのヒントがあります。私たちは神さまからの好意を受け取ることができます。すると私たちはリラックスできます。これが人を愛する余裕を産むのです。よく言われることですが、異牲から好かれる三条件というものがあります。容姿、人柄、そして経済力。しかし最新の研究によれば、人から好かれるために一番重要なのはリラックスしていることだそうです。どうかあなたもリラックスしてください。最近音楽療法が注目されています。便秘に効くのはモーツアルトの『メヌエット』やシュトラウスの『ウイーンの森の物語』、気持ちを静めるのにはモーツアルト『レクイエム・弦楽四童奏〔不協和音〕』など。でも決定的なリラックスは神さまから好意を充分に受け取ればそうできます。その好意は二つで構成されています。一つは許し。もう一つは赦し。前者は「私はあなたをありのまま受け入れますよ」であり、後者は『失敗したんですか、そうですか、でももう一度試みてごらんなさい』というメッセージです。十字架のあがないが担保です。
神を愛したい[4-9]
私たちの心の中には本来神を愛したい思いがあります。しかしこれもなかなかスムーズに事が運ばないきらいがあり、とまどいを覚えます。神さまと私たち人間の聞に置かれた物や金銭などが、本来は神さまを愛するためのチャンスにきっかけになるはずのもの、それがかえってさまたげとなっています。4-9節にはコルバンのことが出て来ています。マルコの福音書7章11節に並行記事があります。捧げものの意味です。イエスさまは彼らへ反論をお始めになります。それが3-6節です。「ではあなたがたは律法を真に守っているのですか?」と。イエスさまのおっしゃりたいことはこうです。「あなたがたは親を敬うべきことを知り乍ら、神さまにコルバンした」と言っては、その義務から逃れている。これはごまかしではないか」神さまは本来私たち人間に地上のすべてのものへの管理権を預けてくださいました、創世記1章28節でそれを確認することができます。これは神さまが人を愛していることのあかしであり、一方この責任を正しく果たすことは人が神さまを愛していることのあかしでした。でもアダムが罪を犯し、これが正常に機能しなくなってしまいました。陰の主役の存在を私たちに気づきにくくさせています。ではどのよう誤って機能しているのか。それは、人が自らを神とし、管理を任されているものへ究極的な所有権を主張することでした。「おれのものだ!」という叫びがそこには聞こえてきます。男性は立場上、命令を下し、女性は裏から操るという違いはあるものの、対象を自分の思い通りに動かそうとする思いは現実的なものです。では私たちが神さまを愛する力を回復するにはどうしたらいいでしょうか。それにはささげることです。それこそ神さまの所有権を承認することのあかしであり、そのことにより、神さまを愛したいという本来の欲求が取り戻せます。時間、金銭、タレントを神さまのために使ってみてください。
自分を愛したい[10-20]
私たちの心の中には本来自分を愛したい思いがあります。自分を大切にしたい思いがあります。しかしこれもなかなかスムーズに事が運ばないきらいがあり、とまどいを覚えます。ついエゴイズムと勘違いしてしまいます。またある種の人たちはキリスト教的ではないと誤解しています。自分を愛する思いとは成長欲求です。成長はいのちの属性です。命あるところ成長はあります。なければいけないのです。もっともっと上手になりたい、高く評価されたいなどなど、なんとすばらしい思いでしょうか。ところで生まれ乍らの私たちの心の中には何があるのでしょうか。10-12節を読んでみましょう。悪いものは決して外から入ってくるのではない、というご託宣。そうです。現実のこととして、私たちの心の中は大変汚れています。周囲が悪いとつい思いがちですが、それは間違っています。ときどき私たちはこのことに自分自身で気が付くのではないでしょうか。このままではいけないと思い、反省しようとし、また悔い改めもしようとします。時には他者から指摘されることもあります。そのようなときには大体このような反応をします。このようなとは、12節に見えるパリサイ人たちの反応です、人は事実を指摘されたときには怒るものです。こうして事実は証明されます。人はいかにして聖められるものでしょうか。人の力では決して聖められるものではありません。真の聖めは聖霊さまによります。十字架のあがないを受け入れ、聖霊さまを歓迎しましょう。神さまは初めに人をお造りになったときに、ふっと息を吹き掛けられました。それで生きるものとなったのです。でも今、私たちは真に生きているのでしょうか。聖霊さまに触れていただいて、私たちは私たちの霊を再び活性化させなければいけません。こうして私たちは自分を大切にすることができます。
今回、私たちは自分でも気付かずにいる、信仰生活の主役を学びました。実は私たちは自分をもっともっと高めようとしていたのです。あなたは神さまに造られました。ゆえにあなたは神の子として神から大切にされています。ノートルダム清心学園理事長渡辺和子は先日の講演(2005.7.10)でこう話しました。「人は大切にされないと、他人を大切にできない」。十字架はあなたが神によって大切にされていることのなによりのあかしです。
大切な大切なあなたの人生に祝福を祈ります。