305 どのように生きるか

聖書箇所[創世記2-5章]

 スペースシャトル「ディスカバリー」に乗り込んで、二回目の宇宙飛行に出た向井千秋さんとテレビ電話で交信した夫の向井万起男氏が、記者会見して語った言葉は新鮮だった。万起男氏は慶鷹大学医学部の助教授で、自身も宇由飛行士になる夢を描いたことがある。そのためには大学を去り、訓練に身を投じなければならない。迷ってあきらめた万起男氏に対して、千秋さんは敢然と突き進む。以来、万起男氏は『宇宙飛行士の亭主」として生きることを心に誓う。そのいきさつは「君について行こう」という著書に詳しいが、会見は夫婦の新しいあり方を映し出して好感を与えた。(『女房は掛け値なしに絶好調』読売新聞1998年12月28日号)

 この記事を読んで、なるほどこんな生き方もあるんだなあと私は感心しました。一方でこのような記事も目にしました。

 ドイツのベルリン近郊で、カーナビゲーションに頼ってクリスマスのドライブに出かけたカップルが、車ごと川に転落する出来事があった。幸い二人にけがはなかったが、このカーナビが「川まで来たらフェリーを利用すべし」との情報を搭載していなかったのが原因。カップルは当然、橋があるものと思い込んで、暗闇の中、川の中に突き進んでしまった。川から二時閻かけて車を引き上げた警官は「ハイテクを信用し過ぎるのも考えものだ」と一言。(『カーナビ信じ運転、川に突き進み暗転』日本経済新聞1998年12月28日)

 私たちの人生、生きるために何に基礎を置いたらいいのだろうかと間わせるような出来事ですね。聖書こそ信頼に足るものです。聖書に聞きましょう。

女性として

 答え=創造主と協力して命を生み出す。

 3章20節では女性がエバと呼ばれています。ヘブル語ではハバと言いますが、その意味は「生かす者」、「命を与える者」です。イギリスの国民的英雄であり、小説家であるチャールズ・ディケンズは自著『デイヴィッド・カッパーフィールド』で理想的な女性の条件を述べています。天使のようであり、人間的であることの二つです。天使のよう、とは仕える心を言い、後者はやさしさ、暖かさ、子どものような純真さなどを指しています。さすがにキリスト教文化の国の産物だなあーと思わされる、聖書的な見解です。もし人がこのような二つのものにより包まれるとしたら、どんな思いになるかは想像することは難しくありません。家族や教会がいつもこのような雰囲気を持ち、その中に私たちがいるとき、なんと幸せでしょうか。新しい命に生き返るような感じがするではありませんか。このようなことを起こすのが女性の任務です。どうか内面的なものを磨いてください。御霊の実を自らに養ってください。女性であるあなたは愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制を身につけてください(ガラテヤ5:22,23)。

男性として

 答え=魅力的な理念を掲げて、周囲の人々に夢と希望を与えてください。

 3章20節と2章19節では男性が命名しています。名には理念が含まれています。
 あなたはアレックス・ヘイリーのか『ルーツ』をご存じでしょう。アフリカ・マンディンガ族の青年クンタ・キンテは、奴隷としてアメリカに連れて来られる。奴隷生活の苛酷さがどんなものであるかを作品は私たちに教えてくれます。こんなシーンがありました。クンタのオーナーが、彼にトビーと名付ける。でもクンタはそれを拒否します。怒り狂ったオーナーは彼を納屋の天井から逆さ吊りにし、牧童頭にムチ打たせる。それでも彼は妥協しない。「お前の名は?」、手を休めた牧童頭が尋ねる。「ク・ン・タ……キ・ン・テ」、苦しみに喘ぎあながらもこう彼は答える。何度聞かれても。さらに激しくなるムチ打ち。見かねた老いた奴隷フイドラーはオーナーに直談判します。「ご主人様、お願いです、トビーを助けてやってください。お願いします。あのままでは死んでしまいます」。オーナーは答『私はな、今聖書を読んどるんだ。大切な時間なんだ。そんな黒人奴隷ごときに時間をさけるわけがないだろう」。仕方なく納屋に戻ったフィドラーは逆さ吊りで血だらけになったクンタの耳もとにささやく、「クンタ、ここで死んではいけない。トビーになったってお前はお前、クンタだ。トビーと言いなさい」。牧童頭がまた尋ねる、「お前の名は?」。顔を苦しみにゆがめながらしぼり出すような声で彼はつぶやく、「オレの名は・・・…トビー」。そう言うさま、彼は気絶する。アフリカ人マンディンガ族の勇士としての誇り、両親から受けた愛情と期待、少年時代の懐かしい思い出など、すべては両親が命名したクンタ・キンテという名前にこめられていました。対して「トビー」は英語、しかも白人世界のものです。クンタは自らの誇りにおいてこれを拒否した。お前はだれなのか?お前はどこに立っている?お前はこらからどこへ行くのか。
 これは、人間が自分に向けて放つ根本的な問いではないでしょうか。ヘブル語で名をシエムと言いますが、「そこに立つ」が含意されています。理念のない人は自分の立っている場所が、立つべき場所が、これから行くべき場所が分からない。従っていつもふらふらしていなければならない。しかし理念を、しかも魅力的な理念を持つ者は自分にも他者にも希望を与えるのです。ではどのようにして魅力的な理念を持つことができるようになるでしょうか。2章18節をお読みください。助け手とはどちらかと言えば弱い立場を意味するでしょう。弱い人との交わりを通して魅力的な理念は得られます。父なる神さまもあがないとなってくださったイエス・キリストも私たち人間の弱さを体験して哀れんでくださいました。
 スリランカのシャーマニズム研究家である人類学者上田紀行はスリランカ人の間で言われていることをこう紹介しています。『孤独な人には悪魔がつく。お互いにあたたかいまなざしで見つめあっているときには悪魔は来ない」。確かに孤独でいるとき、私たちは精神的にも心理的にも、霊的にもバランスを崩しやすいものです。人は一人では生きることのできないものです。交わりが必要です。一人の時、私たちには思いやりも生まれにくい。なぜなら思いやる相手がいないのだから。交わりを大切に、その中から男性は魅力的な理念を得てください。そして周囲の人々に夢と希望を与えてください。

人として

 答え:自分を生きる

 創世記には女性の創造に関する箇所が三つあります。1章27節では人には男性と女性がいる、2章20-24節では男性の中から女性が生まれた、5章1-2節では人間=男性十女性、とそれぞれ教えているようです。ニュアンスとしては総合的にこのように教えていると見ていいでしょう。男性の中に女性がいる、女性の中に男性がいる。これらをそれぞれアニマ、アニムスと名付けたのはスイス人心理学者ユングでした。彼は愛情の深い母親に育てられましたが、彼女の夫は牧師でした。彼は小さいときから聖書からいろいろと学んでいたのでしょう。さて、このことはどんなメッセージを私たちに放っているのでしょうか。一人の人間の中においてさえ異質なものがある、それを上手に統合せよ、でしょう。そしてそれを他の人との間でも実行しなければならないのです。すなわち私たちは互いに違いを認めなければなりません。「私とあなたとは違います。私はあなたではないし、あなたは私ではありませんという理解を進めなければなりません。この真理を理解するとき私たちはとっても生きやすくなります。これが自分を生きることです。私たちはとかく自分をではなく、他者を生きようとします。あの人のように・…・・ならなくっちゃー、と焦ります。どうしてあの人のように生きなくてはいけないのでしょうか。私はなぜ私であってはいけないのでしょうか。あなたが物事を受け止めた、あの人も同じように受け止めなければならない、となぜ考えるのでしょうか。どうか神さまがあなたに与えてくださった賜物や才能を生活の中心に据えてください。そこに神さまのあなたへのご計画が見えるはずです。他の人には他の種類の賜物や才能を与えておられます。あなたが与えられた賜物や才能を生活の中心に据えて生きるとき、あなたは自分を生きています。

 数年前、私はある地方自治体で福祉関係の仕事をしていた。私の役目は生活保護を受けている人たちに、誰でも自活できることをわからせることだった。彼らは、お金がないことよりもやる気を失っていることが問題なのだ。それに気付いてもらうために……毎週金曜日に集まって、三時間のグループ討論を行うことにした。……第一回目の会合で、私はまず出席者全員と握手してこう言った。みなさんはもちろん夢をもっているでしょう?どんな夢か話してくれませんか?」すると部屋にいた全貫があきれたような顔つきで私を見たが、そのうち口々に言い出した。「夢だって!?そんなもの持ち合わせちゃあいませんよ」そこで、今度は言い方を変えてたずねてみた。「じゃあ、みんなで子どもの頃を思い出してみましょう。ほら、やりたかったことがあるでしょう?」やがて一人の女性の一人が口を開いた。「夢なんてどうせ、夢に過ぎないさ。夢が何になるっていうんだい。家に帰るとねずみが子どもをかじっているんだよ」「それはひどいわ。そんな状態では、ねずみと子どものことしか考えられなくなるのも無理はないわね。じゃあ、どうしたらいいか、みんなで一緒に考えてみましょう。と私が言うと、その女性はまた言った。「そうさね。新しい網戸のついたドアがあったらいいなって思うよ。うちの網戸には穴があいてるからね」そこで私は出席者全員に向かって尋ねた。『この中に網戸の修理ができる人はいますか?」すると一人の男性が名乗りをあげた「俺、昔は網戸とかいろいろなものを修理できる仕事をしてたんだ。腰を痛めちゃってから長いことやってないけど、もう一度やってみようかな」張り替え用の網の費用は自治体が支払ってくれることを説明し、修理を頼んだ。「やってみましょう」とその男性は引き受けた。翌週の金曜日、いつもの時間にまた全員が集まった。私はさっそく例の女性にたずねた。『どうだった?網戸は直った?」『ええ」と彼女は答えた。「これでみんなにも夢が持てるってことがわかってもらえたと思うのよ」その女性はかすかにほほえんだ。次に修理をした男性に聞いた。「立派に仕事を仕上げた気分はどう?」『いやあ、不思議ですね。何となく気分がよくなって来ましたよ」こんなささいなことが糸口となり、グループ全体に前向きの姿勢が見えて来た。そして、夢は見るだけでなく、実現することができるのだと考えるようになった。ある女性は自分の夢は秘書になることだと言った。そこで私は、グループ全体の意識を一つの方向に向けるための例のとっておきの手を使ってこう言った。「いい夢ね。それを実現させるのに、どんな障害ががあるの?」「六人の子どもを見てくれる人がいないから、でかけられないんです」「それではみんなで相談してみましょう。この中に誰か、彼女の子ども週に一、二回見てあげられる人はいないかしら?」「もし誰かが引き受けてくれれば、彼女は学校に行って、秘書になる勉強ができるんだけれど」。私が呼び掛けると、一人の女性が答えた。うちにも子どもがいるから、あと六人、増えても同じだと思う。私がやってみるよ」「それじや、さっそくやってみましょう」やがて、この秘書を夢見る女性は、子どもを預けて学校に通い始めた。こうして、全貫がそれぞれの夢を実現させていった。網戸を修理した男性は、後に便利屋さんになった。子どもの世話を申し出た女性は、その道で働き始めた。(『心のチキンスープ』1)

 自分を生きるとき、私たちはもっとも解放されます。