306 神に挑むアブラハム

聖書箇所[創世記22章1-19節]

実に不可解な言動そして行動です。老いた親に向かって彼の一人子を殺せと神は言われ、またその命令に親子ともども従う。いったいこれはどう理解したらいいのか。だれもが持つであろう疑問です。ある人たちは2,3,4節などにある「全焼のいけにえ」とは単に精神的な献身を意味するのだと言います。しかし原語のオラは「丸焼き」を意味するのであって、この解釈にはうなづくことができません。とすればイサクは殺すべく確かに捧げられねばならない。いったい神さまはアブラハムに何を望んでおられるのか。アブラハムに何を信ずべきと訴えておられるのか。この質問に答えましょう。

人は祝福されて生きるべきである

 食っちゃ一寝、食っちゃ一寝、しているのも生きているうちにはいるのでしょう。でもそれは犬や猫と同じ。私たち人間が生きるのは、いきいきと、目を輝かせて、期待に胸を膨らませて、「なんて、生きるってすばらしいんだ!」と思わず叫び、鼻歌が出てくるような状態……ではないでしょうか。生きるとは本来このようなものであるはずです。あなたはこれを日々経験していらっしゃいますか。生きることは祝福を受けることと同義です。
 三日目の朝、四人は地平線を見つめます。アブラハムは僕二人に聞きました。「何が見える?」。「何も……」。アブラハムは言います、「あなたがたはここにいなさい」。彼は思います。これは私とイサクとの間題だ。イサクはたった一つの質問しかしない(7,8節)。彼は父親を信頼しきっている。父親も同様。両者には最高の親密さ、愛情がある。「人が一人でいるのは良くない(生きることは不可能)」(創世記2:18)なら、このような人間関係は理想に違いない。これは私たち人閻に与えられる最高の祝福の一つに違いない。アブラハムはたきぎの上で縛られたイサクに刀で斬り付けようとするその時。「あなたの手をその子に下してはならない。その子に何もしてはならない」(12)という天使の声。これは神さまのお声。つまり「イサクは生きねばならぬ」という神の声。アブラハムとイサクの関係は父なる神と子なる神の関係。しかし神の声と同時にイサクは私たち人間を指すように変わる。イサクは神の前に死ぬべき存在ではなく、生きるべき存在。そうです。イサクはあなたです。では死ぬべきは?それはイエス・キリスト。どうかこのことをしっかりと信じてください。

 アメリカはカリフォルニアでの出来事。彼はある日、賭けトランプをしていて、負けがこんで思わず、拳銃で相手を打ってしまいました。友人たちが助命嘆願運動をして、特赦の対象になりました。持つべきものは友だち。知事は熱心なクリスチャンで、彼が真に悔い改めているのなら、特赦しようと思い、特別赦免状を用意しました。そして牧師の服装をして、その刑務所へ向かいました。知事が顔に微笑みをいっぱいにして面会しようとした途端、彼はこうどなりました。「出て行け!うるさい。牧師はもうたくさんだ!もう7人に会ったが、その話は聞き飽きた」。知事は丁寧に、『少しだけ私の話を聞いてくれませんか。私はあなたに良い知らせを持って来たのだから」と言いましたが、取りつく島がありません。所長が彼に、知事があなたを訪ねて来たそうだが、どうだった?」「えっ?知事?!ではあの牧師の服装をした人が知事だったか」「知事はあなたに特別赦免状を持って来られたそうだ。まさか追い払ったのでは・…・・」。彼はがっくりうなだれました。

 どんなにイエス様が私たちを愛してくださっておられるか。それゆえに代わりに死んでくださったのです。どうかあなたは生きてください。祝福をたくさん受け取って生きてください。

人はサタンに勝てる

 ある人たちは誤解をしています。世界は二つに分割されていて、それらは一方は神で、他方はサタンの陣営だ、と言うのです。このような考えは間違っています。すべては神の世界です。神によってこの世界は支配されています。サタンはせいぜい神の御手の中で動いているにすぎません。ただし恐れの心を持って見ていると、サタンの動きが大きく見え(錯覚です)、心が挫けそうになるのです。あるときは神が勝ち、他の時はサタンが勝つ、といったような二元論に惑わされてはいけません。私たちは神さまとともに歩む者として常に勝つことができます。さてアブラハムの試練は他のだれかのものと似ていないでしょうか。ヨブのものとは似ていないでしょうか。ヨブ記2章1節以下をお読み下さい。試練(創世記22:1)は神から、そして同一の苦しみは誘惑と位置付けられれば、サタンから来ます。これが聖書の教えることです。アブラハムに試練が臨んだとき、実はヨブの場合と同じ事前の話し合いが神とサタンとの間にあったと考えて良いでしょう。神がアブラハムを「なんと立派な信仰者だろうか」と自慢するのに対して、サタンは「彼は恵まれているから、信仰深くしていられるのだ」と。ではテストしてみようとこの試練はスタートしました。
 以下は言い伝えです。

 ところがいざスタートして見ると、サタンの意に反して、神の厳しい要求にも素直に従うではありませんか。彼は作戦を練り直しました。直接話しかけました。「アブラハム、どこへ行く?」「ちょっとお祈りに」「お祈りにどうして刀なんか必要なのか?」「捧げものをするときに必要なんだ」「私は知っているよ、イサクを捧げるんだろう。でももしそんなことをしたら、せっかく100歳で得た子を失うよ。それでもいいのか?それに殺人罪だ!」「私は神の命令ならどんなことにも従う」。サタンはがっかりしました。でもここで最後の手を出して来ました。何だと思いますか。ウルトラCです。それは真実を告げること。サタンは言いました。「アブラハム、実は今回の事は私と神とで仕組んだんだ。イサクを殺そうとする時に、ストップ!という声が神からある。そして事前に用意しておいた雄羊が捧げられるんだ」。

 さあ、アブラハムの反応はいかに。彼も人間、こんな話をばらされて穏やかではいられなかったでしょう。ちょっとあなたも考えてみてください。真実はあくまでも真実、良いものです。こんなことは全くの常識。しかしこの真実を人間が用いるときに間題が発生します。なぜなら私たち人間にはうちに罪を持っているから。「ほんとうのことを言うと・…・・」、という言い方がありますね。動機は何でしょうか。真実をそのときに告げる動機です。話し手は真実なんだからと自分を言い聞かすことができるのでしょう。でも相手を傷つけようとする動機は隠れてはいないでしょうか。もしあれば、サタンのすることと同じです。私たちはこのようなやり方を避けるべきです。サタンの道を行くべきではありません。どのようにしたらいいでしょうか。アブラハムが結局動揺しなかったのは神の自分への愛をしっかりと信じていたからです。あなたも信じてください。
 仲の良い夫婦がいました。夫は妻の作る料理はいつもおいしいと感心していました。気がついていたことはいつもどんな料理にも決まって同じ調味料を振り掛けることでした。彼はあれはどんなものなんだろうかと興味を持っていました。彼女が言うには『母親から譲られた」。あるとき彼女は体調を崩して一日入院しました。彼は普段からの好奇心に勝てなくて、ついにその調味料のふたを開けて覗いてしまいました。何が入っていたでしょう。小さな紙片に「あなたが作るどんな料理にも愛を振りかけなさい!」と書いてありました。上からあなたの頭に降って来るものは雪だけではありません。雨だけでもありません。神の愛が降って来ています。

人は神に挑むべきである

 アブラハムってどんな人。周囲が偶像だらけ、でも一人毅然とした態度をとり、偶像礼拝を破壊する勇者。小部隊を率いて、大きな戦いに勝つ有能な隊長。しかし彼の霊的な力には圧倒されます。創世記18章20節から33節までをお読みください。神に挑むアブラハム、こんな言い方がぴったりではありませんか。神と議論をするアブラハム。神と正義について言論を戦わせるアブラハム。当然イサクを捧げるにあたっても同様のことがあったでしょう。紙上再生。「神さま、私を祝福すると約束されましたね」「そうだ、約束した」「イサクを通じて私の子孫は増え広がると約束されましたね」『その通りだ。私はうそをつかない」「では今、ここでイサクを殺しても大丈夫なんですね!」「その通りだ。私は殺しなさいと言った」『では、殺しますよ。いいですか。本当に殺しますよ」「いや、待った。やっぱり殺してはいかん!!」あなたはアブラハムのいい意味でのしつこさに学びませんか。そうであってこそ夢は叶うのです。あなたには夢がお有りでしょう。どうかアブラハムのように「私を必ず祝福してください!私は神さまの善意とお力とを疑っていないのですから。いいですか。私はあなたを信じて進みますよ。必ず祝福して下さいよ!」そのために一つの助言は決して失敗を恐れないこと。一つや二つの失敗でくよくよしないこと。失敗したっていいじゃあーありませんか。神さまの大きな広い心を忘れないことです。

 非常に有名な科学者が新聞記者の「博士のすばらしい創造力の源泉はどこにあるのですか?」という質間にこう答えました。
私が二歳のときの経験です。冷蔵庫を開けて小さな手で大きなミルクビンを取り出そうとしていました。しかし小さな私の手をすり抜けて台所の床一面がミルクだらけにしてしまったのです。文字通り、ミルクの海でした。気がついた母は叱ったり、お説教したりはしなかったのです。こう言いました。「あらー、はでにやってくれたわね。でも、こんな光景滅多にお目にかかれないわ。ミルクの海なんて!どお、このミルクの海でしばらく遊ぶ?」案際に、私はミルクの海で遊びました。しばらくして母は言いました。「あのね、こんな風に汚しちゃつたときにはね、お掃除をするもんなのし。スポンジとタオルとモップがあるけれど、あなた、どれを使う?」私はスポンジを選び、ミルクを吸い込ませてはバケツに移しました。母も手伝ってくれました。掃除が給わると、母が言いました。「さっきはね、小さな手で大きなビンをびんを運ぶ実験に失敗したってことよ。さあ、庭に行ってどのくらいの大きさのビンなら運べるか、実験してみましょう」

 何とすばらしい教えでしょうか。彼はこの時以来、失敗を恐れなくなったそうです。世界のすべての親が、このように子どもたちと接することができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。でも覚えてください。あなたの神さまはこの母親以上のお方ですよ。失敗を恐れず、とにかくあなたが良いと思えることに挑戦してみてください。失敗は十字架のイエス・キリストの上です。