310 あなたをより魅力的にすることば
聖書箇所[各段落ごとに表示]
時々メディアに登場するアンケートに『もしあなたが選ぶとしたらどの宗教が好きですか?」というものがあります。答えは「キリスト教!」、一番人気です。それだけ魅力的に映るということでしょうか。ちなみに『では信じますか?」と聞くと「それは、ちょっと……」と続くのですが。いろいろなしがらみがあるのでしょう。そのような中でもう一歩踏み込んでみようかなあというあなたに敬意を表して今回のメッセージを送ります。あなたがさらに魅力的になるためのことばです。聖書からの紹介です。
従順[マタイの福音書16章12節]
こういう会話に聞き覚えがあるでしょうか。「お一い、お茶!」「お茶は歩いては来ませんよ!」。決して男尊女卑でお話しているわけではありません。お互いに素直でありたいものですね。『うれしい、ありがとう!」というふうに素直に言いたいものです。どうでしょうか、従順と言うのはこのようなイメージでとらえていただければと表現してみました。ギリシア語ではアコルーセオーと言いますが、古典ギリシア語では兵士が上官に、あるいは奴隷が主人に命令されて従う時に使用することばです。しかし新約聖書では常にキリストとワンセットで使用されています。つまりこのことばには革命が起きたのです。キリストに従うとは自由意志に基づくものであり、自分の心の中に喜びを持ちつつなされることです。当然拒否する自由もあります。対称的な例を見てみましょう。
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(マルコ1:17-18)
イエスは、彼に言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。(マタイ19:21-22)
前者は従順であり、後者は不従順、ともに自由意志です。前者は尊敬や信頼の気持ちがそのように決断させました。美しさがありますね。ここで思い出すのがナポレオンのことば。
「私が聖書を読み驚いたのは、人の集まり方である。アレキサンダー、シーザー、そして私などは強制的にそうさせる、しかしキリストは違う。自由な服従である」
主イエスさまと私たちの間には一種の恋愛関係がありますね。「有楽町で会いましょう」(ちょっと古いでしょうか)と恋人から言われて、「そこまで行くのに一日がかりだ!いったいいくらお金がかかると思ってる!?」なんていう応答は、恋をしていない証拠です。ほんとうの愛の関係では従順になれるものです。あなたは主イエスさまに従順になりたいですか。
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(アコルーセオー)。(マタイ16:24)
従順である者にはどんな祝福があるでしょうか。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
私は20才の時に従う決断をしました。そうして今日はっきり言えることはこの約束は本当だったということ。あなたはいかがですか。従ってみませんか。十字架の上の主イエスさまを見上げてみてください。あなたにほほえみかけていらっしゃるそのお顔が見えませんか。あなたは主イエスさまに愛されています。愛こそがあなたに従順になる勇気を与えます。
模範[ピリピ人への手紙3章17節]
このことばに訳せるギリシア語の単語はいくつもあります。ひとつはトユポス。これは手本とも訳せます。クリスチャンにとっての手本はイエス・キリスト。一つの具体的なものはその謙遜さ。二つの内容があります。一つは仕えること。
それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。(ヨハネ13:14-15)
私はこの精神を実践しようと、ひとつのやり方を日常的に採用しています。教会堂にはいったらすぐにスリッパを並べること、小さなゴミを拾う事。謙遜になる事へのイエスさまのお約束はあなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。(同17)ほんとうに私の人生は祝福いっぱいです。もう一つは人への尊敬。
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と恩いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:3-8)
私たちには人への先入観があったり、好き嫌いがあったりして実際のところ行うのは難しいのではないでしょうか。このみことばの精神からするとすべての人への尊敬求められていると言えます。ではたとえば自分の子どもへの尊敬を親は持っているでしょうか。おしめを取り替え、いたずらであった時代が鮮明に記憶に残っている親には子どもを尊敬する気持ちは意志的に努めなければできない事かも知れませんね。
品物を入れるもの、あるいは包むものによって、消費者の嗜好が自由に変わる傾向を、非合理的性向というが、これを、色彩研究家ルイス・チェスキンは、つぎのような実験でたしかめている。彼の色彩研究所で、新洗剤の包装デザインのテストをするために、一般の主婦たちに、三種類の洗剤の箱を与え、数週間つづけて使用させた。デリケートな布地の洗たくには、どれが、いちばん適しているかを答えてもらうためである。被験者の主婦たちは、この三種類の洗剤が異った性質のものと思い込んでいたが、じつは、箱だけがちがっていて、中味は、まったく同じものだった。箱の色だけが、それぞれ、完全な黄色、青、黄色を散らした青と違っていた。結果はどうなつたか。主婦たちは、黄色い箱の洗剤は、強すぎて布地を痛める危険があると回答した。また、青い箱は、仕上がりがきたないと不平を言う主婦が、ほとんどだった。もっとも好評だったのは、第三番目の箱で、これは色彩研究所が、理想的な色彩バラソスだと考えたものである。この箱の洗剤について、主婦たちは、口々に、「すぱらしい洗い上がりです。」と批評したのである。(多湖輝『心理トリック』ダイソー)
先入観やレッテルによって私たちの心は自由ではありません。ゆえに無意識のうちに悪い例を模範にしてしまっています。良い手本を模範にすること。これが大切です。イエスさまこそ最高の手本です。と言っても理想が高すぎても困ります。まずは身近にいるすばらしい人から学んだらいいでしょう。神さまがあなたの近くに置いてくださいましたから。蛇足ながらすべての完壁な人は主イエスさまを除いてはいませんので、この部分はこの人からあの部分はあの人から、というのが現実的でしょう。神さまの配剤を信じましょう。お手本がたくさん周囲には与えられているはずです。最期におもしろい話を一つ。
ひとりの帽子売りの商人が町から町へとセールスの旅をしていました。あるときたいへん疲れて、大きな木にのぽり、帽子をかぶり、いねむりを始めました。すやすやと気持ち過ごし、目をさましたとたんびっくり。たくさんの帽子を入れた箱を木の下に置いておいたのですが、もはや箱の中には何にもありません。周囲を見回した彼はまたびっくり。猿が帽子をかぶり枝から枝へと飛び回っているではありませんか。返せ一返せ一と叫びますが、何の効果もありません。ついに怒った彼は自分の帽子を地面に投げ捨てました。するとこれをみていた猿も地面に投げ捨てました。良くも悪くも私たちはまねをしているのです。良いものを真似ようではありませんか。
留まること[ヨハネの福音書15章4節]
留まるとはギリシア語でメノーです。お母さんと子どもの会話『これをしなさい!」『はいツ!」。これがイメージ的にとらえてのメノーです。なぜ留まる?それは養分をいただくため。肌にしても何にしても養分、栄養、エネルギーなどの供給を断たれると魅カ的でなくなります。逆に言えば、留まれば実を結びます。
わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。校がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。(15章4→5節]
どのような実を結ぶ?まず大きな喜び。喜びがなければ私たちの人生は空しいものです。信仰は喜びから始まります。私たちはパスカルを知っています。あの有名な『パスカルの原理』のパスカルです。彼の有名な回心のあかしを紹介しましょう。
恩寵の年1654年11月23日月曜日、夜10時半より12時半。火。アブラハム、イサクの神、ヤコブの神。哲学者及び科学者の神にあらず。確信、確信、感情、歓喜、平安、イエス・キリストの神。……喜び、喜び、喜び、喜びの涙。永遠の喜び……。彼はある種の経験をします……(『パスカルのメモリアル』)
あなたはいつも喜んでいますか。あなたの中に真の喜びが生まれ、躍動します、イエスにあって。イエスに留まることによって。
息子が大学進学のために都会に出ます。それが父親には心配でした。こまごまと注意を与え、一冊の聖書を手渡しながら言いました。「辛いとき、困ったときにはこれを読みなさい」。やがて町に出た彼は、案の定というか、都会のはなやかさに生活が崩されて行きます。学費は遊輿費に消え、父親に困っている。至急金を送ってほしい」と手紙を書いた。父からの返事はただ「聖書を読みなさい」。腹を立てた彼は家財道具を売り、かつ友だちから借金しました。それでも足りなくて二度目の手紙を父親に出しました。「聖書を読みなさい」。父親の返事は以前と変わらなかった。ついに行き詰まった彼は、都会に出てからまだ一度も開いたことのなかったほこりだらけの聖書をしぶしぶ手にとった。そのとき、彼は息子は自分の眼を疑った。多額の小切手がそこにははさんであったから。このような話をしたのはただ一つの理由からです。みことばに親しんでほしい、ただそれだけ。みことばに親しむことはイエス・キリストに留まること。その感化を受けてあなたは変わります。ことばはそれを発する人格の中身を反映していますから。主イエスさまの内にあるすべての魅力があなたのものになります。