316 主の山に登ろう
聖書箇所 [ルカの福音書6章12節]
福音書を読んでいるとイエスさまが山に登る場面に出会います。今回の題名は「主の山に登ろう」です。どういう意味でしょうか。主の視点からがあなた自身や物事を見るようにしましょう、です。すると何が起きるのでしょうか。高慢から救われます。6章12節から読み進めて行きますと、山からお降りになりますが、有名な文言に出会います。「貧しい者は幸いです」(20)。貧しい者とは内側にある高慢を捨てて貧しくなった者のことを指します。
するとどんな恵みが?それは神の国のオーナーになれます。すばらしいではありませんか。神の国にはどんなものがあるのでしょうか。それを順に見て行きましょう。
愛されている確信
愛されている確信くらいありがたいものはありません。幸せはこれによって保証されるですから。マタイの福音書17章1ー8節をお読み下さい。有名な山上の変貌の記事です。ペテロが慌てふためき、とんちんかんな応答をしていますね。なぜだと思いますか。大きな理由の一つは、彼には自分が愛されていることの確信が弱いか、あるいは少ないかのどちらかです。自分が愛されていることの確信が弱いと、「あーでもない、こーでもない」というふうに、さまざまな出来事に振り回されやすく非常に疲れやすいのです。自分が愛されている確信はどんな恵みをあなたに与えるでしょうか。心の傷や人生の傷を癒してくれます。あなたにはありますか。辛かった時の記憶が、悲しかった時の記憶が。とても重要な、そしてすでに日本語になった印象的なことばをここで紹介しましょう。
ルカの福音書10章34節のある「傷」です。これはギリシア語でトラウマと言います。このトラウマにオリーブ油(聖霊)、ぶどう酒(イエスの血)を注ぎ、包帯(義の衣)を巻いたのはサマリヤ人(ユダヤ人から排斥された、という意味から彼はイエスを指す)でした。つまりあなたの傷を癒してくださるのはイエス・キリストです。あなたを愛してくださるのはイエス・キリストです。しかし少なくない人々が「私は寂しい!」と叫びます。このように言う人々は99匹の羊です。ルカの福音書15章7節をご覧下さい。99匹はいなくなった一匹の羊を追い掛けています。その間99匹は「私は寂しい!」と叫んでいます。だれか特定の人間に愛される以前に、イエス・キリストに愛される経験をしてください。これは他でもない、主の山において可能です。あなたは「私は主に愛されている!」と確信できます。
祈りの霊
ルカの福音書6章12節から読み進めて行きますと、癒しのわざがイエスさまによってなされていることが分かります。主イエスさまは祈るために山に登られました。山において祈りの霊に満たされました。あなたはよく祈っておられますか。どうかたくさん、そして熱心に祈ってください。祈りには大きな力があります。祈りの霊をいただいて、あなたは大きなことをすることができます。ところでときどき「最近私は祈れない」、「祈っても空しい」という声を聞きます。これでは困りますね。少し祈りについて学びましょう。祈りと言いますと、すぐに「下さい!下さい!」というおねだりを連想するのではないでしょうか。確かにお願いをすることは正しいお祈りではあります。でもそれがお祈りのすべてではありません。もう一つ重要なものがあります。それは従順。あなたは神さまを信じておられますか。信じておられるでしょう。では信じることの意味はどのようなものでしょうか。信じるとは善意を信頼する事です。「神さまは私に良い事をしてくださる」という信頼です。するとあまりおねだリしなくてもいいのでは。万葉集にこういう旋頭歌があります。
「白珠は人に知られず、知らずともよし、知らずとも我れ知れば、知らずともよし」。
白珠は作者自身。こういうことを言っています。「私にはいろいろな才能があるのに、なかなか人はそれに気がつかないなあー。でもいいや自分が知っていれば」。こうして私たちは昔から自分・自我にこだわって来た事が分かります。主イエスさまのたとえ話に「お父さん、私の相続分をはやめにください」と言って、家を出て行った弟息子の話があります。何か事情があって自分の取り分が減りでもしたら大変、と考えたのでしょう。自分、自分、自分、です。この自分、自分、自分から私たちはなかなか逃げることができません。たとえクリスチャンになってもです。
パウロはどうだったでしょうか。あるとき、アテネにやって来ました。当時はローマの時代、でも文化はギリシアが幅をきかせていました。彼はソクラテスも語った由緒あるアレオパゴスで福音を語りました。使徒の働き17章16節以下をお読み下さい。すばらしい彼の説教を知る事ができます。当時最高の教育を受けた者にふさわしく、高度の弁論術を駆使して力の限り語りました。その結果どのようなことが起きたでしょうか。32節の反応が彼を打ち砕きました。二種類の反応です。一つは「非科学的だ!」。そしてもう一つは「良い話だが、そのうち機会があったら叉聞いてみたい」と言いつつ、否定。今の日本で受ける反応と全く同じではありませんか。昔も今もどの世界でも福音に対する反応は同じなのです。彼の受けた挫折感は、しかし、かなりひどいものでした。「私は弱く、恐れおののいていました」(Tコリント2:3)。でもこれが彼には良かった。彼は回心しました。
祈りにも回心が必要です。回心させられなければならなかったのは明らかです。彼には野心があったからです。福音を彼は語りました。それは完全に正しい主張です。でも正しいことを語りながら悪い動機が隠されている場合があります。あなたもそのような人に出会ったことがあるのではないでしょうか。正しいことを言っている、でもなぜか納得できない。あなたはその人の中に隠されている悪い、別の動機を見抜いています。パウロはここで砕かれました。神さまは私たちに良い事をしてくださる方だから、従順であればいいのです。従順の祈りをしましょう。「神さまのおこころに任せます!」と言いましょう。このときあなたの中に祈りの霊が注がれ、あなたの祈りはとても満足できるものになります。主の山においてあなたはそれをすることができます。主の山であなたは主に会い、あなたの自我を差し出し、十字架につけるのです。
試練に勝つ力
マタイの福音書4章1節からしばらく読み進めて行きましょう。荒野の誘惑の場面です。8節では主イエスさまが山に登られたことが分かります。この誘惑でも勝利なさいましたが、印象的です。さて厳しい試練を通り、それに打ち勝った人の人格はすばらしいものがあります。にじみ出て来るものはそばにいる人を圧倒します。そういう人の中でも主イエスさまはダントツです。彼のことばを聞きましょう。
「私はいのちのパンです」(ヨハネ6:48)、
「私は世の光です」(ヨハネ8:12)、
「私は羊の門です」(ヨハネ10:7)、
「私は良い牧者です」(ヨハネ10:11)。
「私はよみがえりです、いのちです」(ヨハネ11:25)、
「私が道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)など。
どれ一つとっても重みのある、私たちを慰め、励まし、勇気を与えるものではありませんか。いったい他のだれがこのようなことを言うことができるのでしょうか。もしあなたが試練に悩む時、主イエスさまからおことばをいただくことができるとしたらなんとすばらしいことでしょう。
あるご婦人が財布を落としてしまいました。2、3万円の現金が入っていたのですが、それはあきらめるにしてもクレジットカードが2枚(A社とB社のもの)入っていましたのでとても心配でした。さっそくA社に連絡したのですが、とても事務的な対応であまり良い印象は受けませんでした。B社では電話を受けた人が開口一番こう言いました。「ご安心ください!」。これでとても気持ちが落ち着いたと彼女は話しました。私はこの話を聞いて思いました。教会で電話を受ける時、まず、「ご安心ください!」と言うべきではないかと。「ご安心ください!」は実は主イエスさまのせりふです。
その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20:19) イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(同21)
八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。(同26)
ところで試練は2方面からやって来ます。一つは外から。道を歩いているとき、後ろから車にぶつけられることがあります。こういうときには次のみことばを使いましょう。
あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。(Tコリント10:13)
もう一つ。内から来るもの。肉の思いから私たちが自ら招いてしまうものです。ペテロはそれを経験しました。その場面を見ましょう。
シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」……彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。(ルカ22:31-62)
なんとみじめな肉の思い一杯のペテロでしょうか。でもなお彼には希望がありました。主イエスさまが彼のために祈っていてくださったのです。あなたも肉の思いのゆえに失敗をするかも知れません。でも絶望する必要はありません。あなたが祈れなくても、友人があなたのために祈る事を忘れていたとしても安心です。主イエスさまがあなたのために祈っていてくださるのですから。主イエスさまはあなたを責めないで許し受け入れてくださるお方です。
どうかおことばをくり返しくり返し聞いてください。あなたの中に試練に勝たせる力が沸き上がって来ます。みことばは主の山にあります。主の山に登るあなたに祝福がありますように。