317 愛する悲しみ

聖書箇所 [ホセア1章1ー2章7節]

 私は今から30数年前に初めてこの書物からメッセージを聞き、大変感動した事をいまでも鮮明に覚えています。少しでもその感動をお伝えできればと思います。ホセア書は、神に選ばれた預言者ホセアが妻を愛する話です。すると明るい話かなあと思うかも知れませんが、悲しい話なのです。題して、愛する悲しみ。でも、でもです。希望に終わるのです。あなたは愛することに興味をお持ちですね。私には分かります。ですからきっと参考になるでしょう。

ゴメルを娶った

 これは愛する対象としては非常に難しい相手を愛する対象として選んだという意味です。「えー、あの人!?あの人を愛するの!?それ……そればっかりは……」。このようについ口から出てしまうような相手があなたにはいますか。ホセアの相手は、1章2、3節をご覧下さい。名前はゴメル。神殿娼婦であったと一説には言われます。当時の神殿には売春婦がいました。信じられないかも知れませんが、事実です。もっとも聖なる場所であるはずの神殿にいました。他には不倫の罪によリ離婚された女性とも言われます。いずれかでしょう。いずれにしても普通の男性の普通の結婚相手とは言えません。でも彼は結婚しました。愛することにしました。もう一つの困難は周囲の目でしょう。どうして!?何があったの!?「神の預言者がなぜあんな女と?!」。好奇の目にさらされ、自分もときに葛藤に悩み、そんな日々が彼には続いていたことでしょう。結婚生活は一緒に住むことなのですから、彼女の一挙手一投足が気になり、心が不安定になる事もしばしばであったでしょう。でもとにかく彼はこのような彼女を愛する事に決めたし、そのようにしていました。

不倫を働いた彼女を赦した

 恩を仇で返された。しかしりっぱに愛で報いたと言ったらいいでしょうか。結婚して、まもなく彼ら夫婦には子どもが生まれました。しばらく平穏な生活がそこにはありました。しかし、やっぱりと言ったらいうべきでしょうか。彼女は不倫を働きました。彼の心の内はどうであったでしょう。非常に心穏やかに、かつ気持ち良く彼女を赦すことができたのでしょうか。「済んだことだ!」と一言。過去の事として、まるで何ごともなかったかのように水に流すことができたのでしょうか。目の前には不倫の子どもがいるのです。人間の心はコンピューターとは違います。どういう意味かと言いますと、そんなに簡単に忘れたりはできないのです。いつまでもいつまでもこだわっています。中には忘れまいと努力している人さえいます。

 プラトーとジョーンは、次のような実験を行った。ある人物のプロフィールを読ませるのだが、そこには「良い点が三つ、悪い点が一つ」書かれていたのである。単純に考えると、良い点が三つもあるのだから、その人物は好かれると思うであろう。ところが、これが違うのだ。人々は、悪い点のほうに注意を向け、その人物を嫌いになってしまうのである。同じような実験結果は、クーパートたちによってもえられている。どうやら、人間は否定的な情報に注意を向けやすいことは確かなようだ。一方クンダという心理学者は、われわれの判断は期待や欲求によって影響されているために、われれれには期待や欲求に適合する事実ばかりを集めようとする傾向があると指摘している。たとえば、「Aさんは優秀」という期待を持っていると、どうしてもAさんが成功した過去の事例ばかりが頭に浮かび、ちょっとしたミスは見過ごされるわけである。逆に「Bさんは無能」という思い込みを持っていると、Bさんが風邪をひいて元気がないときさえ、「あいつは怠惰だ。休んでばかりいる」と見てしまうのだ。(『心理戦の勝者』)

 つまり、人の心はくせを持っていて、そう簡単には切り替えが出来ません。さて、その子の名前はロ・ルハマ。「もう愛さない」の意味です。ヘブル人は子どもが生まれる頃に経験した印象深いできごとを記念してそれにちなんだ名前を子どもにつけました。したがってこの名前は「ゴメル!私はもう君を愛せない!」と叫んだことを意味しています。でもきっとゴメルはあやまったのでしょう。三年間何ごともなかったようでした(乳離れまでの時間をこれとして1:8)、この二人には。でも、ようだった、のであって、実は再び不倫の罪を犯しました。生まれた子どもの名はロ・アミ。「もう私の民ではない」。これは先と同じように理解すれば、「もう離婚だ!」と叫んだことを意味します。彼の心の中で、忍耐したこの三年間はいったい何だったのかという思いが行ったり来たりしたことでしょう。でも結局彼は赦すのです。

引き裂かれた、傷ついた心のままでなお愛し続けた

 1章10と11節を見ると「あなたは私の民ではない、しかし私の国民だ」とあります。これは「君はもう私の妻ではない、いややっぱり私の妻だ!やりなおそう!私はもう一度君を愛するよー」とホセアは呼び掛けているのです。ではゴメルはついに彼の気持ちを理解したでしょうか。いいえ、いいえ。ちっとも。2章5節をご覧下さい。彼女は「恋人の方がいいわあー」と言っています。さしづめ、パンとはささにしきか、こしひかり。水も水道水ではなくてミネラルウオーター。羊毛はミンクの毛皮。麻は何でしょうか。要するに「私の恋人はいつも最高級の食事に連れて行ってくれるし、ブランド品も買ってくれるし、なんーにもいうことなし!」と言っています。ちっとも彼の気持ちが分かっていません。なんと空しいこと。あなたはいかがですか?他の人の気持ちが分かりますか、と聞くのは失礼かも。ではどの程度?

 スイスの精神科医P・トウルニエのことば、「何にでも成功する恵まれた人々ははなはだしく人間理解に欠けることを知る」という指摘は、……普遍性を持って迎えられてよいように思われる(久米あつみ訳『生の冒険』)。

 今日、世界の数十か国に”ラルシュ共同体”というすぐれた共同体を実現させた……1960年代に……パリ郊外に……カトリック信者バニエが始めた……バニエは”健常者”と言われる人々こそ「共に生活することの実にむずかしい人たち」であることに気づく。その心の中には「誰かを抑圧せずにはいられない欲求、誰かを攻撃し、身代わりの小羊とせずにはいられない欲望」が絶えずうずまいていて、「仲良く暮らすより、すぐに派閥を作って争い始め……ついには戦争を引き起こ」しさえする(『小さき者からの光』18、93頁)。ところが……自分を隠すすべを持たない人々には逆に私たちをいやす力が与えられている、とバニエは言う。障害を抱えた……アマンドは誰かの腕に抱かれると目を輝かし、身体全部を震わせて「大好きだよ!」と語りかける。あるとき、ここに数名のカトリック司祭がやってくる。分刻みで時間に追われているに違いない人々である。その中の一人に、バニエがアマンドを紹介したところ、彼は容易にアマンドのもとを立ち去ろうとしない。すっかりアマンドの魅力に魅了されてしまったのである。この障害児は、この神父に本当の心の交わりを回復させ、人間性を取り戻させていた。アマンドは「心の内に秘められたエネルギーを引き出し……人にいのちを与えることができる」のである(以上、同書80ー89頁)
……また西アフリカのラルシュ共同体に、ケリムという少年がいた。生まれるとすぐに母親を亡くし、養護施設で育ち、三歳のとき不幸にも脳膜炎を患ったために、話すことも歩くこともできない重度の障害を負った。そのうえ残念なことに、食事を与える以外は放置してしまったのである。ケリムはラルシュに迎えられ、十二年を経過する。施設の人々は彼を恐れて、四年の間、ケリムの仕事は、共同体で飼っているロバに餌をやることだけであるが、彼には一つの特殊な能力がある。それは、人聞関係の摩擦をすぐに敏感に感じ取り、争いがあると、そのわずかな乱れでもすぐわかるという能力である。人々が互いに交わらず、互いに愛し合っていないときにそれを敏感に感じ取ってしまうのである。この共同体のリーダーは、「アシスタント同士の気持ちがしっくりしないとき、また、アシスタントの間に争いがあるとき、また、何か人間関係に壁や隔たりか生じたとき、ケリムは決まって自分の頭をたたき始めます……」と言う。(以上、同書、89ー93頁)

 私たちにもこのように他者の気持ちがもっと分かるとすればなんとすばらしいことでしょう。でもゴメルはホセアの気持ちをまったく理解しません。なんと悲しいことでしょう。

 さて、いよいよ話を終わりにしなければなりませんが、どうしてここまでホセアはゴメルを愛するのでしょうか。ここまで。普通に考えられるのは彼の神の人としての成長欲求でしょう。これは試練なのだ、神による訓練なのだと彼は理解しています。ところでホセアは神御自身です。とすると成長欲求は無関係です。とするとこの書物のもう一方の主役は?それはゴメル。ではゴメルはだれ?いっこうに自我が砕かれない罪人である私たち自身です。私たちは愛するときに、愛することをしているときに、いつのまにか、「愛してやっている。助けてやっている!」という思い、高慢な思い、罪がもたげて来ます。

 分析心理学の創始者C・G・ユングが、...あるクリスチャン女性に次のような内容の手紙を書き送ったということを読んだことがある。「あなたがたクリスチャンには、非常に美しいものがあります。あなたがたは飢えている人、渇いている人を見るとき、そこにイエス・キリストを見ていますね。路上の裸の人に衣服を着せるときも、その人にキリストを見ています。牢獄の囚人を訪ねたり、入院中の病院を見舞うときも、キリストを見ているでしょう;。……しかし、私が理解に苦しむのは、あなたがたが自分の内にある貧しさを見ようとしないことです。あなたがた自身の心の破れの中に、イエスがおられることを見ないことです。なぜ外側にばかりイエスを見、自分の内側に見ようとしないのですか。あなたの中の、弱さや破れ、そのすべてにイエスがおられるのに、どうして見えないのでしょうか。(ジャン・バニエ著、長沢道子訳,『小さき者からの光』あめんどう、109ー111頁より)

 彼は「あなたがたは愛しているというが、一段自分を高い位置に置いているのではないか」と言っているのです。クリスチャンとしては心の痛む話です。でもここのところが大切です。愛する者だけがこれを経験することができることなのです。愛することをする者だけがこの種の悲しみを経験します。そしてこの悲しみが十字架を重いものとします。十字架がよーく分かります。そして聖霊さまのお声を心の中に聞きます。「もう一度愛して見なさい」。こうして私たちは新たに勇気を得てさらにレベルの高い愛に挑戦できるのです。悲しみは希望に変えられるのです。愛するあなたは悲しみに出会いはしますが、希望に変えられます。あなたの愛する人生に祝福を祈ります。