321 神の愛の力

聖書箇所 [ガラテヤ人への手紙6章14-15節]

 マザー・テレサの奉仕活動が映画化されていますが、多くの人がそれに感動しています。ノーベル賞を受けて彼女がカルカッタに戻った時に新聞記者が尋ねました。「あなたはなぜカルカッタに戻って来たのですか?」。彼女はこう答えました。「私は愛の配達人として戻って参りました」。彼女が日本を訪問した時、このように印象を話しています。「日本には物質的な餓えはない。でも愛の飢餓がある。人々は愛に飢えている」。そうです。私たちは愛に飢えています。それも本物の愛に。今回は本物の愛である、神の愛について考えましょう。神の愛は十字架からあなたに流れ込み、あなたの中で力が働いてあなたを新しくします。新しい創造です。どんな内容か、それを見て行きましょう。

魅力的な人格

 魅力的な人格を持った人はいわゆる人格者と呼ばれる人のことでしょう。それは主イエスさまのようなお方でしょう。人々の尊敬を集め、まるで蟻が砂糖に引き寄せられるように彼のもとに集められます。怒らず、温かい印象がいつも人々の心には残ります。なぜそうなのでしょう。彼の内側には愛が働いているからです。放蕩息子の話を思い出してください(ルカ15:1-32)。弟息子は財産を費い果たして戻って来ました。お父さんがまともに顔を上げられない彼をめざとく見つけ駆け寄り、抱き締め、何にも責めません。そればかりか大パーティーをしようと言うのです。なんという大きな愛でしょうか。対照的なのは兄息子です。みじめな姿を見て「ざまあみろ!自業自得だ!」と思っています。ここには二つのことが見られます。一つは失敗した者への思いやり。力不足の者への思いやり。もう一つは相手の利益を一番に考えること。私たちはどうでしょうか。仕えるとは愛であり、その中身はこのようなものです。私たちは罪人であり、つい、失敗者に対して「怠けている」とか、「やる気がない」とか言って責めるのではないでしょうか。あるいは自分の利益を第一に考えて、思い通りには動かない相手を腕力や権力や金力でねじ伏せようとするのではないでしょうか。でも真の愛は無理矢理に人を動かす必要はありません。どのようにしたら真の愛を受取る事ができるでしょうか。それは消極的に言えば、「私」を十字架に付けること。いかがでしょうか。「私の気持ちは……」とそればかり言うことはないでしょうか。そうではなくてそのような「私」を十字架に付けるのです。以上を積極的に表現すれば、「もし主イエスさまなら、この状況にはどのように対応なさるだろうか?」とイメージすることです。それには福音書をよく読んでください。福音書に登場する主イエスさまがあなたの中にしっかりと焼きつけられるようにしてください。私たちは見ているものに似て来ることを知らなければなりません。

真の友情

 友情と言えば、ダビデとヨナタンの友情を思い出しますね。サムエル第一18章1節以下をお読み下さい。
 サウル王の後継者であるヨナタンは王子の財産をダビデに惜し気もなく上げてしまいます(1-4)。そして二人は友情で固く結びつきます。ダビデは王のために国民のために、何よりも神さまのために一生懸命に働きます。でもサウル王はそのようには受け止めません。ねたみと怒りでダビデを殺害しようと考えます。ダビデはそのことに気がつきますが、実の父を疑うことになるヨナタンはにわかには信じられません。そこで彼は確かめようとします。その部分が20章20ー23節に記されています。こうしてサウルの悪い意図が確認されます。私たちはダビデのような経験をするのではないでしょうか。善かれと思ってしてあげたのに、頼まれたから一生懸命にしてあげたのに、誤解されてしまった。そればかりではありません。恩を仇で返された。あなたは心を深ーく傷つけられたのではありませんか。ダビデもそうでした。それにしても私たちは深く傷つけられるものです。気持ちが分かってもらえなかった。どうして?誤解から不信感が生まれ、孤独感に捕われます。このようなときにありがたいのが友情です。友情こそが心を癒します。「私たち人間は時間、空間、人間(ジンカン)の中で生きる」とは私の社会学の先生が教えてくださったせりふです。私たちは実際に人間の中でしか、人間に育って行くことはありません。それだけにどんな人間関係であるかは非常に重要です。友情とは愛です。主イエスさまにあなたの思いを気持ちを思いっきりぶつけてください。それを続けてみてください。すばらしいことが起きます。

 私は以前会社に勤めていましたが、同僚の一人がお見合いをして結婚しました。しばらくして彼は御仲人さんに苦情を言いに行きました。なぜかと言いますと、彼女の学歴が事実とは違っていて、一ランク上に書かれていたからです。しばらく御仲人さんは聞いていて、おもむろに彼の履歴書を取り出して来て見せました。驚きました。彼の学歴も一つ上に書いてあったからです。もう彼は何も言えなくなってしまいました。幸いにも、この夫婦は仲が良く、後で笑い話になったと言います。もしあなたが主イエスさまにあなたの思いをぶつけるなら、主イエスさまはいつまでも黙ってあなたの言い分を聞いていてくださるでしょう。でもだんだんあなたは自分の中にある罪や自分のいたらなさに気が付くようになるでしょう。そしてそういうあなたを責めもせずに、温かく受け止めてくださる主イエスさまに自分への愛を感じるでしょう。主イエスさまが私を受け入れてくださっている、ならば自分を受け入れようかと。というのは、ここが大切なところなんですが、自分を受け入れていない人は、他者を受け入れる事ができず、友情を育てることが難しいのです。ルカの福音書7章36節以降に罪深い女の話があります。彼女のしたことは実に目立つ事です。高価なものを費っていますね。これこそは、しかし、愛、なのです。愛しあっている恋人たちは遠くまでデートに出かけることに文句を言いません。お金を費うことにも頓着しません。愛しているから。彼女は主イエスさまを確かに愛しています。彼女は自分を受け入れてくれたことに感動していますそれまで自分も他の人たちも受け入れる事のなかった自分を。対照的なのは、シモンです。文句を言っています。続きを読んで下さい。彼は自分を受け入れていません。だからどうしても他の人のあら探しをしてしまいます。他の人の欠点が目について、目について仕方がないのです。逆に言えば、他の人の欠点が目について、目について仕方がないのは、自分を受け入れることができないからです。これは不幸ですね。いつもいらいら。参考になるのが、神さまを証人にすること(Tサムエル20:23)。それは主イエスさまをお仲人さんにすること。どうぞ試みてください。あなたは多くの人を受け入れるようになり、彼らをかけがえのない友人として獲得するでしょう。彼らはあなたが悩む時に力強い助けとなるでしょう。あなたが心に痛みを覚えるとき、それを癒してくれるでしょう。

作り出す喜び

 [心臓の働きの驚き]
 心臓はこぶしほどの大きさの臓器ですが、人間の生死を決定する重要な臓器です。人問の血管は毛細血管まで合わせると、実に九万キロから十万キロメートル。地球を二廻りするほどの長さです。心臓はその血管の中へ、血液を人間が生きている間送り続けます。一日に十万回も拍動して!信じられますか。もしその血管が詰まり、……。心臓が一日に送る血液の量は約八トン。牛乳パック(1リットル)に換算して約八千本分。タンクローリーにはいっているガソリン一台分です。私たちが寝ているときも、いついかなるときにも働き続け、八十年、九十年、さらには百年以上も働き続けます。[一個の受精卵の中に]しかもです。さらに驚くことは、心臓だけではなく、六十兆個にも及ぶ細胞が各臓器を形成し、さらに全体を統一して人間にする全プログラムが、0、1ミリメートルの一個の受精卵に組み込まれているです。O・2ミリといえば、細いボールペンの先でちょんと点を打った、その一点の大きさです。その中に、全部のプログラムを組み込むということを考えただけで、もう気が遠くなります。ただ驚くばかりです。ある計算によると、受精卵が持っている記憶量は、人間が造り出した最大の記憶量のICの約六億倍と言われています。コンピューターは記憶しているだけで、自ら構造物を造り出す能力は持っていません。一個の受精卵は、人間全体を造り出す力を持っているのです。これはもう、全知、全能者でなければ不可能です。詩篇の記者は、一三九篇で、この創造主のみわざをほめたたえて、「私は感謝します。あなたは私に奇しいことをなさって恐ろしいほどです」と言っています。また「あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに」と。全能者のプログラムがあって、それによって、母の胎内で組み立てられて産まれて来たことを歌っています。(『人体の不思議発見』掘越暢治)

  「人間ってすごい!」って思います。しかし人間を人間にしているのは肉体部分ではありません。中身です。それは霊。それは「神のかたち」を持っています。この「神のかたち」こそが私たちを人間らしくさせています。その働きは、作り出す働きです。「光りあれ!」と働けば、光が出来る。これです。私たちには「神のかたち」がありますから、いつも何かを作り出したい思いにかられます。さて、何を一番作り出したいと私たちは考えているのでしょうか。それは、新しい自分です。自分を新しくしたいのです。私たちの人生にはそのためのきっかけが溢れています。神の愛の証拠です。二人の青年が冬山で遭難しそうになりました。彼は衰弱し切った友人を助けたい一心で、一生懸命に疲れを押してマッサージしました。そのおかげで彼自身の身体があたたかくなり、救助隊の到着が間に合いました。文字通り与える者は受ける。愛する者は真の友人を得ます。新しい創造は、このように日常生活にそのきっかけを持っています。しかし実際にはなかなか私たちは古い自分から抜け出す事ができません。あなたは象がどのように調教されるかご存じですか。はじめ、子象のときに、地中深く打たれた太い杭に、これまたがっちりした重い鎖に足を繋がれます。子象はさかんに離れようと暴れますが、どんなに足掻いても無理です。しばらくして静かになった子象は細いひもで細い杭に繋がれます。でももうその時は子象は逃げようとはしません。マックスウエル・マルツは、人間はその意識の6割は過去を見つめていると言います。私たちは過去に生きているのでしょうか。なぜ?ある種の心地よさがあるからです。これをデッド(死)・ゾーンと言いますが、コンフォート(気持ち良い)・ゾーンとも言います。なぜかと言いますと、心地よい世界だから。伊勢海老の話をしましょう。伊勢海老がコンフォタブル・ゾーンに入ります。というよりほおり込まれます。コンフォート・ゾーンですから、気持ちが良い水温です。でも外からは少しずつ火をかけられ、ゆっくりとゆで上がります。だからデッド(死)・ゾーンです。いつのまにか死んで行きます。あなたは過去によってしっかりと縛られてはいませんか。そうです。私たちは縛られやすい!でも神は愛。あなたを脱皮させる手伝いをしてくださいます。それが試練。試練のとき、それはあなたが新しくされるチャンス!。

 『魚と人間の習性』という興味深い本を書いたのは向先生。そのタイトルよりもっと興味深かったのは向先生の経歴。向先生によると、魚は、汚れた魚と清い魚に二分されます。向先生は、かつての自分の姿を、汚れた魚にたとえて説明されました。大学時代の生活は、「立てばパチンコ、すわればマージャン、歩く姿は質屋通い」であったといいます。当時二八才になり、大学生活五年目を迎えた向青年は、肉体的な苦痛と、精神的な絶望感を味わっていました。痔瘻、胃けいれんは慢性化していました。学生運動にのめりこんで、精神生活が疲弊し、絶望と欝症状のために、死に場を探し回るような毎日でした。しかも、幼い頃からの盗癖が直らず、アルバイト先の帳簿をごまかして、二〇数万円のお金を盗むことまでしてしまったのです。それが発覚したとき、両親が田舎から呼び出され、責任を追及されました。小さな旅館の二階の部屋で、やつれ果てて涙する父親の顔をみたとき、向青年は、「こんな年になっても両親を苦しめている自分は、なんと弱い哀れな存在か。……神は向青年の切実な願いを聞いておられました。彼の叔父さんと叔母さんがクリスチャンたったのです。その夜二人に導かれて、向青年は教会に行きました。そこで……「このような私ですが、受け入れてください。信じます。」と手を挙げながら前に進み出たのです。心の壁に、ヘドロのようにへぱりついていた黒い罪のシミが消えていき、神の愛の光が輝き始めました。主イエスの、「あなたの罪は赦された。安心しなさい。あなたは自由になったのです。」という御声が聞こえてくるようでした。これが向青年の生まれ変わりの体験です。人の生き方が変えられる、これほどの奇跡があるでしょうか。現在、向先牛は、「立てぱ説教、座れば祈り、歩く姿は伝道者」という生活をしておられます。(『ハーベストタイム1996.9.1』)