322 夜の二コデモ

聖書箇所 [ヨハネの福音書2章25節-3章15節]

 夜に対してはあなたはどのようなイメージをお持ちでしょうか。「まもなく朝がやって来る!」、これがいいんですよ。創世記のはじめをご覧ください。渾沌(カオス)があった時に、「光」が登場しました。渾沌(カオス)、それは真っ暗やみと理解してもいいでしょう。その後は「夕があり、朝があった」です。決して間違えないでください、「夕があり、夕があった」とは。ニコデモはユダヤの指導者で、ギリシア名です。当時は位の高いユダヤ人でもギリシア名を持っていました。さて、今回の聖書箇所におけるテーマは何でしょうか。それは2章25節と3章1節とをつなげて読めば理解できます。分かりやすくするために要約しましょう。
 イエスは、人のうちにあるものを知っておられた。一人の人がいた。3章1節の冒頭は、「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた……」と日本語ではなっていますが、ギリシア語では「一人の人がいた」です。つまり主イエスさまの当てておられる焦点は人の心の中です。ニコデモはちょうどそこにいた人です。心理学者によるとすべての人が劣等感を持っていると言います。しかもエリートになればなるほど先鋭化するとも言われます。ニコデモはどうでしょうか。彼はサンヘドリンと呼ばれるユダヤ教会の最高議会の議員です。全国からたった70人の選ばれた中に入った人です。オピニオンリーダーであったパリサイ派に属してもいました。彼はエリートであって、強い劣等感に悩んでいたことは明らかです。今回はどのようにしたら劣等感を克服できるか、その究極の方法を学びましょう。そしてあなたの中を心の深い部分から輝かせるようにしてください。

自分は人間である事を知れ

 どういうことでしょうか。「俺は猫ではない!」なんて答えが返って来そうです。もちろんそんな意味ではありません。人間は失敗をするものだということです。失敗をし、かつそれから学んで成長させられる、しかしやがては成功させることができると理解すべきであると言いたいのです。なぜ失敗するのか。それは人は神ではないからです。それ以外に、あるいはそれゆえに次の二つの理由も言えます。
 一つは力不足、知恵不足。私は仲間の牧師からなぜ、超教派活動(教会間や教派間を埋める働き)をしないのかと時々質問されます。実際の所、何もしていません。理由はただ一つ。私には時間的な余力もエネルギーの余りもないのです。私にとって優先順位一番は勝利教会であり、教会員です。彼らのためにさえ十分な時間を提供できていない状況では超教派活動まで到底手が回らないのです。それでもあえてしようとすれば私は失敗するでしょう。
 もう一つは罪の性質が私たちにはあるからです。以前新聞において見かけた記事の内容をご紹介しましょう。おばあちゃんの面倒を全くの赤の他人である一人のご婦人が見ていました。近所ではそれが評判になりました。なぜならその介護の様子がとてもすばらしかったからです。腰も低く、いつも笑顔を絶やさず、ほんとうに痒いところに手が届くっていう感じでした。まもなくおばあちゃんは亡くなり親戚一同が集まりました。みんなが集まった中で遺言状を開く事となりました、その席には彼女も呼ばれました。内容が読み上げられ、だれだれにいくら、というふうに続きました。そしてついに終わった時に、彼女が叫びました。「私には何にもないの?どうして!?たくさん残すっていってたのにーーッ!」。だれもがその変わり様に驚くばかりでした。
 これは極端な例かも知れません。でも私たちもこういうことは経験するのではないでしょうか。人に親切にしていた。でもついエゴが出、しかもばれてしまった。小さなことなのでしょう。でも恥ずかしさを隠す事はできません。こういう失敗は確かに私たちを傷つけますね。ここで重要な事を確認しましょう。私たち人間には常に失敗があるということを。失敗するものなのです。でもこれを前向きに理解する事です。善意と愛の神さまが私にレッスンをしてくださっていると。私が成長する為に。聖書を紐解きますと信仰の英雄が何人も登場します。アブラハム、ヤコブ、ダビデなどなど。彼らは同時に失敗の名手でもあります。記録に彼らの失敗が包み隠さず残されていることは、彼らにとっては恥ずかしいことのはずですから、同情したくなります。でも私たちにとっては慰め、励ましになるのではないでしょうか。神さまは立ち上がるように助けて下さるお方であると。そのときにはだれもがひとまわりもふたまわりも大きくなっているのです。いや、されているのです。どうか謙虚であってください。ぶつぶつ言わないで感謝してください。
 ある婦人が牧師にこう言いました。「私はほんとうに罪深いんです」。牧師はこう応じました。「そうですね。私はそのことには気付いていましたよ!」。すると彼女は突然怒りだしたのです。心の中とことばとが異なっていたのです。私たちも気を付けなければなりません。真に謙虚でありましょう。3節と4節の会話を観察するとニコデモは年輩者と考えられます。だてに年をとってはいない、と言えます。年とともに自分の真実の姿が見えて来ることはすばらしいことです。エリートとしてのプライドもあったはずです。でも彼は謙虚です。神さまからの愛のレッスンを受け入れる者は日々成長を果たし、劣等感を克服して行くのです。

自分はオリジナルである事を知れ

 劣等感に悩む人ってどんな人でしょうか?アイデンティティーが確立していない人、というふうに通常は理解されます。では確立すればいいのでしょうか。次の文章を参考にお読み下さい。

  「アイデンティティとは、アメリカの自我心理学者・エリクソンが提唱した概念で、一言で表せば「自分が自分であることの感覚」ということになります。「自分が自分である」ことなどとくに概念化しなくてもあたりまえじゃないか、という人もいるでしょうが、その「私は私じゃん」的な、言葉にできないけれども当然の前提の方は、精神病理学者・ブランケンブルクが後に「自明性」と呼んだものに近いかもしれません。……さらにエリクソンは、真のアイデンティティは社会的にも是認され、本人にとっても肯定的な自己像でなくてはならない、と言っています。だからいくら当人が「これがほんとうのオレだ」と思っても、その自己像がギャンブル狂いの女たらしというものであれば、それは周囲の人にも喜ばれないし、自分自身の自信や誇りにもつながりません。エリクソンによると、こういうものはアイデンティティにはならないのです。私は、このあたりがエリクソンの理論の最大の特徴だと考えています。だれもかれもが「ほんとうの私」を探しだしたりしたら世の中メチャクチャになりそうですが、いまの日本がこれに近い)、エリクソンが考える「ほんとうの私」は、けっしてひとり暴走しはじめるようなものではないのです。世間にも自分にも喜ばれる、社会の発展に寄与できる、それが「ほんとうの私」。そうでない自分になったって、結局は自分が傷つくだけなのだから仕方ないでしょう。だから、意義ある自分になるためには、自分のほんとうの欲望から目を背け、夢をあきらめることもときには必要なのです。……」と、精神科医である香山リカは述べた後で、「エリクソンのアイデンティティ理論が主張する『ほんとうの私』は、実は少しも”ほんとう”なんかじゃない!」とも言っています。(『自分を愛するということ』講談社現代新書)

 前者も後者もともに滑り止めがありませんね。前者が単にわがままと欲望の垂れ流しになるし、後者は芝居がかっています。一生懸命に良い子を演じる姿が痛々しく映ります。幸いなのは神さまを信じる世界には滑り止めがあります。それはこういうことです。善意と愛の神さまは「私をこのよう(○○)に造ってくださった。これが私です」という意識です。分かりやすく、○○の中にチューリップを入れましょうか。ゆりを入れましょうか。チューリップとゆりは互いを比較して劣等感に陥ったりするでしょうか。象とウサギが互いを比較して劣等感に陥ったりするでしょうか。それぞれオリジナルです。どのようにしたら自分のオリジナリティーを知ることができるでしょうか。二段階で確認しましょう。
 はじめに長所あるいはできることをリストアップしましょう。たとえば私は車の運転ができます。さて、反論があるでしょう。なあーんだ、平凡なことじゃあーないか。そうです。平凡な事なんです。平凡な事をどのように組み合わせるか、これがあなたのやりがいの部分です。イエスさまは人。人なら日本には1億2千万人もいます。大工だった。大工さんも私たちの周囲にたくさんいますね。十字架、これも決してユニークなものではありませんよ。歴史を見れば簡単に分かります。多くの人が十字架刑で死んでいます。でもこれらを組み合わせることによってイエスさまのオリジナリティーは生まれます。罪のない一人の人が十字架であがないとなって死なれた。世界で唯一のオリジナルなイエスさまの誕生です。あなたはあなたに与えられている長所をどのように組み合わせますか。楽しみですねえ。そういうことを考えている時、私たちの劣等感はいったいどこへ消えて行ってしまうのでしょうか。

自分は神の子である事を知れ

 亀の子ではありません。神の子です。神の子の特権は天上で輝き、地上でも輝くものです。ある人々は誤解して天国の楽しみを期待してひたすら地上では苦しみを忍ぶというのです。少なくとも私はそういう信仰を持っていません。さて、神の子の地上の人生は失われた神のかたちを取り戻す人生です。失われた神のかたちが失われていることの証拠が劣等感の存在です。劣等感がどのように形成されるのか概観しましょう。一度の失敗によってできるのではありません。時間をかけて、いわゆる熟成するのです。たとえば、甘やかし。親が子どもが空腹になる前に食事を用意するとかです。やがて自分が困ったときにどのように対処したらいいのかが分からなくなり、パニックに陥ります。これが劣等感に結びつきます。あるいは親から子への期待のかけ過ぎ。これは親の劣等感に関係しています。自分の果たせなかった夢を子に果たしてもらいたいと思いますが、子どもには辛いものです。自分にはできない、という意識が劣等感を形成して行きます。屈辱感も関係します。子を自分の持ち物どと勘違いしている親は平気で人前で子どもをけなします。すると子どもは自分は劣った人間であると思うようになります。対処の仕方はどのようなものがあるでしょうか。欲望を追求する方法があります。その間、臭い物にふたができます。つまり忘れていられます。自殺と言う手もあります。自殺のまねをする人もいます。「私、ダメなんです」と言います。人の同情をひくというやり方もあります。「私にはできない!、私は辛い!」と常に言っています。攻撃をする手は一般的です。人のあら探しです。異性を転々とする手もあります。以上簡単に説明しましたが、私たちはこのようなことを知って人を裁かないようにしなければなりません。人間、だれしもが以上のような面を持っているからです。互いに思いやり、同情の気持ちを持つことです。さて、「三つ子の魂百までも」という言い伝えがあります。三才までに劣等感も形成されます。ところがなんと修正期間があります。第一次が3ー6才、第二次が6ー12才。ゆえに私は若いお母さんにあまり神経質にならずに育児をしなさいと助言します。しかしこのような修正にも神のかたちの修繕に関しては限界があります。それを超えるのが「新しく生まれる」(3)ことです。これを経験すると毎日が輝いて来ます。時間があっという間に過ぎて行きます。
 ジャネの法則をご存じでしょうか。10才と60才の人の主観的時間は前者が後者よりも数倍長いというのです(客観的時間:世界どこへ行っても1時間は1時間、すなわち60分です)。ですから子どもはじっとしているのが不得意です。45分の授業も実は3時間なのです。何を言いたいかといいますと、充実している時間はあっという間に過ぎます。私のあかしですが、最近とみに、日曜日と日曜日の間隔が短く感じられるのです。あっという間に次の日曜日が来てしまいます。あなたの1週間は長いですか。短いですか。何か夢中になっている時は食事も忘れます。そんな輝いた時間を人生を過ごしたいですね。新しく生まれてください。それは
 上から、すなわちみことばに常に聞くこと。これが究極的な劣等感解決法です。私たちは横から生まれやすいのです。どういうことかと言いますと、周囲の人のことばを無批判に受け入れてしまうのです。これは大変危険な事です。否定的なことば、汚いこおtば、中傷することばなどなどが私たちの耳に入って来ますが、全く無防備に受け入れてはいけません。あなたを傷つけるだけです。これが横から生まれること。あるいは下から生まれること。上と下、どちらが良いか、もちろんあなたにはお分かりです。