325  解放の福音

 ●聖書箇所 [ルカの福音書4章16ー30節]

 18節に福音という語が見えますが、これはギリシア語でユーアンゲリオン。ユーは良い、アンゲリオンは知らせ、従ってユーアンゲリオンとは良い知らせ、の意味です。主イエスさまは私たちにこの良い知らせを運んで来てくださいました。具体的にどんな良いものでしょうか。それは18節に表現されています。私たちはいろいろなものに捕われています。いかがでしょうか。この一週間、あなたの心は平安でしたか。「あの人なんか、とても許せない、赦せない!」 「どうしてあんなこと、してしまったのかなあー」などなど暗い思いになったことはなかったでしょうか。私たちにはこのようなものからの解放が必要です。主イエスさまはあなたのために、あなたをこのようなものから解放するために来てくださいました。その生涯の始めの記念碑的な場面からいくつかのことを今回は学びましょう。神さまのなさることに偶然はありません。

ナザレへ[16]

 ナザレへイエスさまがまず行かれたことの意味は何でしょうか。ご存知の通り、故郷です。学者によると5万人の町であったと言いますが、ほんとうにそんなに人口が多かったのかなあとは思いますが、ある程度の規模であったことは間違いがありません。この町の裏には子どもでも行かれる丘(29)があり、ここからはイスラエルの歴史が見えました。ギデオンの勝利、サウルの敗北、エリヤ(25,26)が偶像の預言者と激しい戦いをした、ヨナが逃げた地中海などの場所が一望できるのです。一つ一つは単なる事件ですが、全体を総合すると歴史になります。これは「人生、長い目で、全体的に考えて生きよ、すなわちビジョンを持って行きよ」のメッセージです。私たちが思い煩いやすい時、私たちは自らにビジョンがあるかないかをチェックしてみるのが良いでしょう。「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う……」。つい私たちは「ここにはない、向こうに幸せがある……」と思いやすいのです。そこで、ある人が山の向こうへ出かけたところ、おばあさんがこう言ったそうです。「確か、幸せっちゅうもんは山の向こうにあるそうな」。
 幸せはここにあります。こことはあなたが今いるところ。なぜ?イエスさまがあなたとともにおられるから。この主イエスさまはもちろんビジョンとともに来られ、ビジョンとともに生涯を全うされました。どうか主イエスさまを内に迎えていらっしゃるあなたは祈りによって、インスピレーションによって人生のビジョンをいただいてください。「私の人生、こう生きる!!」、「私の家庭はこのようなものに作って行く!!」、「私の職業人としての生き方はこうでありたい!!」などなど。こうして日常出会うさまざまな出来事に思い煩うことから避ける事ができます。解放されます。
 先日、私はあるホームセンターでビデオテープの収納箱を買いました。安くて私が求めていたものとぴったりであったからです。レジを通って、私は両腕に一メーター以上に積み重ねた箱を抱え、店のドアを出ました。すると風にあおられ駐車場のコンクリートの上に激しく倒されてプラスチック製の箱は壊れてしまいました。私は辛い思いになりました。「買ったばかりなのに……まだ使ってもいないのに……」。私はこのときどうしたと思いますか。私はすぐレジに戻って「風が倒したから、新しいものと交換してほしい」と言ったのです。レジの女性はちょっと驚いた様子で、それはできない旨、私に返事をしました。でも私は「風が倒したから、新しいものと交換してほしい」とくり返しました。そしてついに新しいものを手に入れました。きっと交換していなかったなら、私はこのことにしばらくは思い煩っていたことでしょう。私の中にあったのは私なりのビジョンです。勝利教会では神学校を運営しています。そこで学ぶ学生のための箱を買おうとしたのです。ビジョンは小さな問題を解決するにはとても有効です。

いつものとおり会堂へ[16]

 安息日に会堂へお出かけになるのは主イエスさまの習慣でした。なぜ?でしょうか。あなたは何の為に教会へお出かけになるのですか。きっとあなたの答えは万全です。天地の造り主であられる礼拝をするため。その通り! 100点。でもちょっと違った角度からの答えも可能です。それは、「私が新しくされるため」。いかがでしょうか、あなたの感想は。もちろん主イエスさまが新しくされる必要がないのは言うまでもありません。模範としてお出かけなさったのです。私たちは何かに縛られているし、それから逃げ出そうともがき、傷ついています。そうです。私たちは傷ついています。罪を犯し、そのことに悩み、併せてそれから生まれた傷に悩んでいるのです。
 ここで閑話休題。
 二人の男が煙突の穴から落ちました。一人は煤だらけ、もう一人はきれいでした。するとどちらが洗ったでしょうか?素直に考えれば、前者。クイズと考えれば、きっとあなたは後者が洗った、と答えるかも。そうです。当たりです。ではその理由は?汚い相手の顔を見て、思わず、きれいな人は自分の顔を洗ったのです。納得?ではもう一つ。
 もう一度、二人は煙突の穴から落ちました。今度はどちらが洗ったでしょうか。さあ、考えてください。答えは脚注。あなたは礼拝に出て顔は輝きますか。目は輝きますか。「はい」なら合格です。これからも祝福された礼拝をささげられることをお祈りしています。礼拝している間、聖霊さまがあなたを時々刻々働いておられることを信じてください。主イエスさまは父なる神さまとともにあなたに聖霊さまを送ってくださいました。今あなたの中に聖霊さまが生きておられます。聖霊さまこそがあなたを真に、すなわち内側から変えて行きます。あなたはこのような期待とともにいつもいつも礼拝の中で新しく変えられます。

聖書を開いて[17]

 この段落には当時のユダヤ人の会堂の生活の様子がいきいきと描かれています。キリスト教会の運営の仕方はこの伝統の上にあります。会堂管理者がいて、説教者を招聘しました。会堂の中には瓶が置いてあってその中には聖書が巻き物として入れてありました。取扱う専門の係りの者がいて、聖書の朗読には特別の敬意が払われました。主イエスさまが開かれたのはイザヤ書の一部でした。さて聖書とは何でしょうか。あなたの人生と何のかかわりがあるのでしょうか。聖書は解説書です。世界と人間に関する完璧な最終的な取扱い説明書です。最近テレビのリモコンを購入しました。二ケ所のボタンを押して3秒間待つと赤いランプが点滅し、所定の番号を押すと設定完了。実に簡単でした。簡単ですが、説明書がなかったら、難しい。これは本当でしょう。あなたの人生にも適切な解説書が用意されています。それが聖書。どうか聖書を信じて読んで下さい。聞いてください。個人的に示されます。ちなみに私が受取っている二つの聖句を紹介しましょう。

 ヨシュア記1章7節
  ただ強く、雄々しくあって、……それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。

 ピリピ人への手紙2章13節
 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

 私はこれらのみことばにいつも励まされ、何か事を起こす時には勇気が与えられます。

人々に話し始められた[21]

 主イエスさまはおすわりになったのですが、これは話を始めるときの合図でした。説教は特殊な能力です。単なるテクニックではありません。霊的なものが欠く事のできないものとして存在します。主イエスさまにはこれがありました。主イエスさまの生き方は賜物を中心にするというものでした。あなたの賜物は何ですか。賜物を中心に人生を生きる時に自信と安心と満足感とがあります。

 北海道の日高地方、浦河町は牧場の緑が美しい日本一のサラブレッドの産地として知られる。この町のキリスト教会に、作業所やグル一プホームを運営しメンバー50人が共に生きる「浦河べてるの家」はある。6月の年次総会は「べてる」の年に一度のお祭りだ。メンバーのほか、地域の人など180人が集まり、今年は地元のホテルのホールで開かれた。……続いて呼び物の「幻覚・妄想大会」。その年の際立った妄想や幻覚をユーモアたっぷりに紹介し、当事者を表彰していく。「今年のグランプリは--」……大和孝司さん(41)が壇上に上がった。川村敏明精神科部長が表彰状を読み上げる。「あなたは、昨年のクリスマスイブの夜に、二階から宇宙船に飛び乗ろうとして、転落、両足首を骨折。病院まではってたどりつさました。もし、再びUFOににお乗りの際は、主治医である私も誘っていただき、一緒に宇宙のかなたに飛び立とうではありませんか」 メンバーや見学の看護学生、地域の協力者が集まった会場で笑いがはじけた。……大和さんは「世の中に貢献して表彰されるならいいけど、こんなことでは」と言いながらも、表彰状を大切そうに抱えていた。……症状も個性の一部として付き合っていくことで、人間同士の関係が生まれると思うのです」と説明する。……メンバーたちは妄想や幻覚、幻聴などの症状にまつわる様々なエピソードを残す。そのマイナスをユーモア精神で個性として受け止め、年に1度、地域の人も含めてみんなで共有し笑い、お互いを確かめ合おうというのだ。表彰が終わると、メンバーが自作の歌をバンド演奏で披露した。「精神病院へようこそ」「幻聴の歌」:……。あるがままの自分を人にも見せ、お互いに受け止め合おうとする「べてる」の人々。……ソーシャルワーカーの向谷地生良さんは「幻聴も実在の人の声として扱い、いい関係を持つようにすると、内容が好意的なものに変わってくることがあります。」と説明する。……川村部長も同じような対応を取ることがある。猿が出てきて、悪口を言うと訴える患者がいた。「それなら、バナナをあげたらどうだ」。その後、猿はあまり出なくなった。(読売新聞1998.9.13)

 私たちは自分自身を否定的に評価することが多いのではないでしょう。そして周囲の人々も同様かも。もっと肯定的に自分を評価しませんか。主イエスさまはご自分のいのちをお捨てになりました。ここには神さまのあなたへのほほえみが見えませんか。あなたもあなた自身に微笑んでみてはいかがでしょうか。まず自分に微笑んでみましょう。

 ほほえみ これは一円ももとではかからない しかし、驚くほどのものを人の与える
 ほほえみ それは人に与えてもいっこうに減りはしない しかし、もらった人をかぎりなく豊かにする
 ほほえみ それは人生のあらゆる問題に対して神が与えられる妙薬である しかし、
 このほほえみは金で買う事も人から借りる事も盗み取ることもできない(ロバート・リー)

 まずあなたはあなたに向けて微笑んでみませんか。これが解放の福音です。

脚注。煙突の穴から二人とも落ちて汚れないはずがないではありませんか。