330 労働の復権

 ●聖書箇所 [アモス7章14、15節]

 私が伝道者・牧師になると決断したのは22歳の時でした。右も左も分からず、適切な助言をしてくれる人もいませんでした。未知の世界への孤独な旅立ちでした。でも不思議にも、神さまの守りと導きですが、なんとか今日までやって来ることができました。ところで私のこのような決断は通常「献身」と表現されます。私はまもなく違和感を感じるようになりました。何に感じたかと言いますと、最高の献身とは伝道者・牧師になることだ、という理解です。すると伝道者・牧師にならない者は二級、あるいは二流のクリスチャンとなります。これには私はうなずけませんでした。私はただ神さまの導きの場にいるだけ、そこを進むだけの意識でした。でも多くのクリスチャンは違った理解をしていました。今回は労働の復権と題して、労働の正しい意味を聖書から学ぴましょう。

労働は善である

 神さまがこの世界を創造なさった直後、それをご覧になって「とても良い」(創世記1 :31)と満足なさいました。ご覧になった対象には当然物質が含まれています。私たちの肉体も物質であって、これは従って、善です。そして肉体をもって働くという労働も善です。そのことを示唆するように肉体労働の現場で、アモスにみことぱが与えられました (14、15)。パウロも天幕作りの仕事を持ちつつ、伝道に励みました(使徒18 : 1-3)。主イエスさまも大工職人でしたし、技術者でした。さて労働が善であるとして、その現場ではどのような良いことがあるのでしょうか。

 一つは聖さの戦い。

 職場には不正があるのではないでしょうか。「そういうことをして、……それは良くないことだ!」なんていう思いをしたことがあるのではないでしょうか。私は20代、ステレオメーカーで働いていました。カーステレオを製造するメーカーに勤めていました。通産省が輸出大号令をかけていたときで、数多く生産し、アメリカに輸出することは会社の至上命令でした。しかし会社の内部では大量生産することを最優先に、不良品まで船積みしていました。さすがに私も不正の意識にかられましたが、どうすることもできません。せめて自分のできる範囲で修理しようと努力をした記憶があります。私たちが不正に対して悩むのは、心が聖くされたからです。ちょうど黒い布の上にお醤油をこぽしても分かりにくいように、心が汚れていれば、汚れたことを目にしても葛藤は起きにくいのです。私たちは主イエスさまを信じるときに十字架の恵みで聖められました。ゆえに不正や汚れには激しく反応するのです。こうして私たちは聖さを自らのうちに養って行くのです。なんとありがたいことでしょうか。 
 もう―つは単純労働に関するものを取り上げてみましょうか。

 「お茶汲みなんてつまらない!」という声を耳にします。私は営業をしていたことがあります。雨がふっても、雪が降っても、暑くても寒くても、何があってもお客さまのためには出かけなければなりません。しかし出かけた先で、意地悪としか思えない仕打ちにあうことは数知れず。でもいつもにこにこ(していなくてはいけません)。正直、心は傷付き、くたくたになって会社に戻ります。そこに温かいお茶の一杯。救われる気がしたことは数知れず。愛を心に感じた人は幸せな気分にさせられるものです。
 私たちは考え方一つでどのようなことも生産的、積極的、前向きなものとして取り入れることができます。化粧品のセールスパースンがいます。女性ならお分かりでしょう。ちょっとお化粧を変えただけで気分が変わり、セルフイメージが高まります。セルフイメージの高い人は他の人に優しく接します。つまり化粧品のセールスパースンは世の中を明るくしています。いずれも神さまのみこころであることはお分かりでしょう。あなたの仕事も同様で善であり、いろいろな良いことがあるはずです。

労働は実を結ぶものである。

 これは当然でしょう。蒔けば刈り取りがある。もう一つ当然なことは蒔いた者に刈り取りの権利があること。その実を楽しむ権利があるということ。ところで実とは、給料、お金ですね。これがいい!ですね。だれもがお金は好きです。そして自分が働いて得たのだから、そのお金は自由に使えます。これもほんとう。ここが実は注目したいところです。お金は使うためにあります。たとえ貯金をしてもそれもやがては使います。どのように使うか、これがその人の人生観を表現しています。「おれが稼いだ金をおれのために全部使って何が悪い!」という人はそういう種類の人生観を持って生きています。社会への連帯感や感謝の気持ちが全くない人と言ってもいいでしょう。ところで労働は肉体をもってするものですが、この肉体のは限界があります。たとえば気に入った二つの会社があったとしても通常はどちらかを選ばなければなりません。両方を選ぶ事はできません。これは結婚と同じです。両方から引っ張られるという葛藤は給料との関連でこのように起きます。おいしいケーキが目の前にあります。さておいしいからと言っていくつ食べてもいいというわけではないでしょう。自分の給料で食べるのだからだれにも文句は言わせない、それも一理あります。でもそんなに無思慮な食生活をしてもいいのでしょうか。おいしいものを食べる、これは自分を楽しませることであり、自分を愛すること、でもどんなことでもやりすぎはいけませんねえ。自制心が求められます。コレステロールがたまってはいけません。つまり私たちはお金を自分を楽しませる範囲に押さえるために、自制心とともに使うように求められています。テストされています。これは御霊の実の訓練ではないでしょうか。

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5:22、23)

 この御霊の実はギリシア語では単数です。従って実が9つあるわけではありません。実には9つの面があるのです。しかもギリシア語には興味深い特徴があります。最初に登場するものが第一位、最後が第二位。つまり「あの人には愛はあるけれど、自制心がない」という人はいません。自制心がないのは愛がないのです。特に結婚していれば、自分が自分だけの存在ではないことを常時思わされます。自分を愛することは身近な人をすなわち隣人を愛することでもあります。そしてそれには自制心が必要になります。お金を使うたびに私たちは御霊の実を自らの中に養っています。なんとありがたいことなのでしょう。聖書の助言はこうです。 

 あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地にはいって行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、あなたの神、主が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。……そのとき、任務についている祭司のもとに行って、「私は、主が私たちに与えると先祖たちに誓われた地にはいりました。きょう、あなたの神、主に報告いたします。……今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」あなたは、あなたの神、主の前にそれを供え、あなたの神、主の前に礼拝しなければならない。あなたの神、主が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、あなたは、レビ人およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい。第三年目の十分の−を納める年に、あなたの収穫の十分の一を全部納め終わり、これをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えて、彼らがあなたの町囲みのうちで食べて満ち足りたとき、あなたは、あなたの神、主の前で言わなければならない。「私は聖なるささげ物を、家から取り出し、あなたが私に下された命令のとおり、それをレビ人、在留異国人、みなしご、やもめに与えました。私はあなたの命令にそむかず、また忘れもしませんでした。……(申命記26 : 1-15)

 どうかあなたの給料の初穂をささげてください。そのときあなたの中に神さまの力と秩序とが備えられます。その力が御霊の実をあなたの中に豊かに育てます。

労働は礼拝である
 
ヘプル語では労働をアポダーと言いますが、この語は礼拝とも訳せます。礼拝は日曜日、労働は週日。こういうふうに分けるのを二元論と言います。プラトンの霊肉二元論は有名です。霊魂は善、肉体は悪、というものです。ナチの親衛隊は日曜礼拝の後にユダヤ人を引っ立て、約600万人を殺しました。礼拝とそれ以外の時間や場所とを分離すると、このようなことが起き得ます。もしあなたがクリスチャンだとして、日曜日と他の日との間に生き方に差はあるでしょうか。他の日には信仰と無関係で生きるということはないでしょうか。伝道の最強の武器は「新しく変えられたあなた」です。職場で一一参考までに言い添えますが、専業主婦の場合はどうなのかと質問されますが、聖書的にも民法上も収入は夫婦で足して、全体を2で割るのです。それぞれが自分の稼ぎ分です一一あなたが元気で明るく輝いて働いているとき、あなたは最高のあかしをしています。それは人々に無意識のうちに礼拝をさせていると言ってもいいでしょう。あなたは職場で、今どのように過ごすことが多いでしょうか。どうか日曜礼拝にお出かけ下さい。神の家族に囲まれて、ともに神さまの霊を受け、新しい力に満たされる経験をしてください。私たちは罪の世界に生活しています。ゆえに傷つけられ、失望感に取り付かれます。日曜礼拝はそういうときのあなたにいやしと慰めと希望を新たに与えてくれます。みことぱが下るのです。今労働を生業としているあなたに愛の神さまはアモスに対してなさったと同じように、あなたにもなさいます。最近読んだ本を紹介しましょう。
 三谷康人といってカネボウの会長で、会社人生では三回も降格された人です。『逆転人生』(いのちのことぱ社)という題名です。この中にこのような文章を見つけました。(94ページ)

 主はその民に力を与え、平安をもってその民を祝福されるであろう。(旧約聖書・詩篇二九篇−一節)

 45年の鐘紡生活の中で、3回の降格と左遷を経験した。キリスト教の信仰を持ち始めてからの経験である。たいていのビジネスマンは、一回でも降格、左遷させられたら大変なことである。やけ酒を飲み、上司や会社の悪口を言う。白分の人生の将来に失望落胆し、精神的に大きなストレスがかかる。そうかといって、実力がないので、他社への転出もできず、暗いあきらめの人生を歩むことになる。しかし、不思議なことに、3回の降格と左遷に会っても、心は平安であった。人生に失望することも、会社や上司に不満を持つこともなかった。他の人たちから見れば、「三谷さんは大変だろうな」と同情される。ある人は、「三谷君は冷飯ばかり食っているな」と思ったそうだ。ところが、当の本人はクリスチャンとして、白分の人生、仕事もすべて神にささげ、ゆだね切っていたために、どのような道を通されても不満はなかった。むしろ、平安の中にあって、主に導かれている喜びすらあったのは事実だ。 
         
 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、私たちは知っている。(ローマ8:28)

 あなたにも神さまはみことぱを随時与えてくださって、力強い労働ができること、祝福された労働ができることを祈ります。