331 なぜ顔を伏せているのか

 ●聖書箇所 [創世記4章]

 あるアメリカの大学の先生がノーベル賞を受賞した。それは学校の名声を大変高めることになったので、総長は有頂天になり、「君、多くの大学から講演に呼ぱれるだろうから、当分、私の運転手付きの車を自由に使いたまえ」と言ってくれた。ノーベル賞を取りたてのころは、その先生もうれしくて、得意満面、総長の車を使い、次々と大学を講演して回った。ノーベル賞は毎年、ノーベルの命日、十二月十日に与えられることになっており、その時の受賞記念講演をそのまま招待された学校ですれぱよいわけである。くだんの先生、同じことを7,8回しゃべるとさすがにちょっと飽きが出て来た。一方、運転手の方は先生の講演中手持ちぶさたで、いつも一番後ろの席でじっと聞いている。門前の小僧ではないが、もう全都丸暗記するまでになっていた。さて、そうなった時、運転手が切り出した。「今日は先生もお疲れのご様子、私が代わってやりましょう」。先生の方もその気になり、「お前とオレとは容姿がそんなに変わらない。それでは―つ頼むか」ということになった。こうしてノーベル賞の先生は運転手にふんして後ろに座り、運転手先生の講演が始まったが、どうしてどうして、彼は観光ガイドをやった経験もあり、話は堂に入ったもの、声も本物の先生よりずっと通りがよい。講演が終わると大かっさいとなった。それで終わればよかったが、アメリカ人は質問したがるくせがある。前列の利口そうな男が質問をはじめた。しかし、運転手先生、質問を静かに聞き終わると、少しも慌てず、「うん、君はいい質問をするけれど、どうもやさしいことを難しく考えているんじゃないかね。そういうことは既にわれわれの仲間では論議され尽くし、自分の運転手すら知っている。一番後ろの席にいる彼に答えさせよう」

……ところで、この反対の場合は世間には案外多いのではないであろうか。例えば、政界、財界のトップがお抱えのスピーチ・ライターの原稿通りに講演したとするならば……(江崎玲於奈『読売新聞』)

 代理を演じるのでも上の二者は印象が正反対に違いますね。先のものはほほえましく、後のものは、たとえばわが総理大臣が下を向いて官僚の作文を読んでいる姿を思い出させますが、見ている方はがっかり、でしょうか。違いは何に基づくのでしょうか。それは、上位の者との出会いか、下位の者との出会いかによるのでしょう。私たちはできるだけ上位の者との出会いを経験するべきです。私たちは成長できますから。引き上げてもらうことができますから。「なぜ顔を伏せているのか」(4:6)は神さまから私たちへの挑戦状です。こういう表現はただ事ではありませんね。でも下向きで生きることは神さまの子どもである私たちには相応しくありません。胸を張って堂々と、これがいいのです。出会いとは、もちろん天地の造り主である神さまとのことについて話しています。今回はどのような時にこのお方と出会う事ができるかを学ぴましょう。

ささげる時

 ささげるとはどういったことを意味するのでしまうか。それは神さまに自分を使っていただくこと。「どうか、この私をお使いください!」と差し出すことです。人類最初の夫婦アダムとエバに生まれた兄弟カインとアベル。二人はそれぞれささげものをしました。しかしアベルのものは受け入れられましたが、カインはそうではありませんでした。その差は何だったのでしょうか。それは心。目に見えない心はそのしるし、すなわちシンボルによって見分けがつきます。私たちがささげる時間と金銭と賜物はそれです。神さまのために、神さまに向けてどのように時間を、お金を、賜物を使っているか、これで見分けがつきます。ル力の福音書21章1−4節にやもめの話があります。ささげることによって、主イエスさまからとてもほめられています。当時レプタは50円程度でしょうか。今の時代と違って女性が社会で金銭収入を得ることは極めて難しいことでした。そのような中でのことです。

 彼女の心がこの行為に現れています。神さまは私たちがささげる時、その心をご覧になります。そしてそれが感謝の心からである時、神さまの心と波長がぴったりと合います。これが出会いと言うものです。私はクリスチャンになってまもなく何かが足りないと感じるようになりました。少しずつ分かって来ました。ささげることに欠けていたのです。ついに私は決心しました。とたんに胸につっかえていたものがとれました。私は牧師になる決意をした瞬間でした。ただしここで誤解をしないでください。牧師になるとか、伝道者になるとかがささげることイコールではありません。たった一つの例でしかありません。ささげ方は百人百様。主婦として、会社員として、スポーツ選手として、人にはそれぞれ違ったささげ方があります。私の場合は牧師であっただけです。私はいままでにない平安を経験しました。ではどうしたらこのような決心ができるのでしょうか。それは自分が神さまに造られたことを認めることです。洗濯機は汚れ物を洗濯するために、冷蔵庫は食品などを冷凍し、冷蔵するために造られました。少しばかり空間があるからといって本を入れても適切な使い方とは言えないでしょう。もし口がきけたら、きっと冷蔵庫も洗濯機もこう言うでしょう。「私をそんなふうに使わないで下さい。本来私が造られた目的に従って使ってください。そうでないと私は力を十分に発揮できません」。使う目的は製作者が決めるものです。あなたの生きる目的は天地の造り主、そしてあなたを造られたお方がお決めになっています。実存哲学者マルチン・プーバーはこう言っています「あなたの前にあなたはいない。あなたの後にもあなたはいない」。そうです。世界にあなたという存在はたった一つ。かけがえのないあなたはあなたらしく、すなわち他の人と違った生き方が期待されています。神さまがあなたをそのように造ってくださいました。このことが分かる時、あなたは神さまと出会っています。

愛の交わりをする時                                 

 人は愛しあうように造られています。したがって愛の中にいるときに真の安定感があります。                                         

  結婚すると、女性は不美人になる(?)一九六五年ごろだったと思うが、私は心理学の研究をされているある経営者の方から……三つの質問をいただいたことがある。「独身時代は、女性は非常にきれいです。ところが、結婚すると、一般に急速にきれいでなくなる人が多いのは、どうしてでしょうか?」「定年を迎えたとたん、ガツクリして老けこむ人が多いですね。また、年をとってから奥さんを先に亡くした男牲は、急速にやつれますね。統計によると、奥さんの後を追うようにして亡くなる人も多い。どうしてでしょうか?」……人は新しい経験を積み、新しい知識を得、それらから知恵を作り出している段階、……では若々しく、きれいで、しかもいきいきしているものである。「生きがい」や「やる気」が、人を若々しくきれいにするのはそのためだし、これらをなくすと、一挙に老化するのも同様の理由によるのである。」したがって、結婚しても、ワイフをきれいにするには、「生きがい」とか「やる気」を与えて、彼女がたえず、新しい経験、知識に挑戦したくなるようにすればよい。一般に主婦の座に安住すると、知識とか経験とか知恵への挑戦の機会が減り、年齢的な老化を知性面で、カパーしきれないから、きれいでなくなるのである。……老化を抑え、きれいさ、美しさ、若さ、活力などの維持のためには、どうしても上手に知恵の向上に挑戦しなけれぱならないようである。(『包み込みの発想』船井幸雄)

 なかなか含蓄に富んだ文章ではありませんか。もっとも「上手に知恵の向上に挑戦し」やすい状況とは何でしょうか。それは愛しあう時。恋などはその典型です。どうしたらもっと愛せるか、愛されるか、一生懸命に知恵を絞るのが私たちですね。ちょうど反対の事が4章では起きています。カインは弟アベルを殺しました。なぜ? ねたみです。ねたみは恐ろしいものです。それは相手を抹殺する性質を持っているから。史上初の殺人がなされました。愛の反対、それはねたみといってもいいでしょう。カインの心にはもはや平安がありません。職場にいても家庭にいても、どこにいても平安はありません。神さまの遠くにいる時、私たちはこうなのです。反対に愛の交わりの中にいる時、私たちは神さまを経験できます。神は愛だから。ではどうしたら私たちは愛することができるのでしょうか。それは愛を、しかも本物の愛を経験する事。
 
 私は以前会社で営業をしていましたが、同僚の男女二人が私の頭越しに喧嘩をするのです。それもしょっちゅう。特に女性の方が彼を批判するのです。ある時、彼とお得意さん廻りをしていました。車の中で彼は彼女といつも仕事中に喧嘩になって困るとこぽしました。「ほんとうにそうだ……」などと心の中でうなづきながら、私は閃きを覚えました。そして彼に言いました。「彼女に20000円のフランス料理を奢りなさい!」。彼は驚いて、「奢ってもいいけれど、2000円でどう?」と聞きます。私は即座に「2000円じゃあ一、ダメ!」。彼は私の助言を受け入れて、まもなくゴールイン。彼女は愛の証拠を求めていたのです。愛の証拠を求めて、相手を攻撃する、こういうことが人間の心理として現実に存在します。ところであなたは主イエスさまが十字架であなたの身代わりに死なれたことをどうお考えでしょうか。私は愛されていると受け止めておられますか。いかがでしょうか。あなたは主イエスさまに確かに愛されています。このことだけを伝えておきましょう。愛された者は愛することができます。

我に返る時

 私たちは時々、神さまによってハッとさせられる時があるのです。「そうか、そういうことか……」。するとそこに突然祈りが生まれます(4:26)。前橋の少年鑑別所の今村洋子さんがこう話しておられます。

 「少年たちは送られて来ると、すぐに『世間に迷惑をかけた。親に心配させていけなかった』と言う。でもそう言っているうちは何も彼らの中に変化は起きていない。真に彼らに変化が、すなわち内面に変化が起き始めた時、それはすぐに分かります。それは彼らがこのように言うからです。『こんなことをしていたら、俺はだめになる』

 これは神さまによる干渉の瞬間と言ってもいいでしょう。私たちは罪の文化のまっただ中で生きています。小さな男の子がお父さんに向かってこう言いました。「お父さん、女って、ぱかなんだよね!」。そういう歌があるからです。

 よせばいいのに(三浦弘作詞.作曲 田辺靖雄・敏いとうとハッピー&ブルー 三浦弘とハニー・ロマン 歌)

 女に生まれて 来たけれど 女の幸福まだ遠い 

せつかくつかんだ 愛なのに 私の外に いい愛人いたなんて 

どうにもならない愛だと解っていても 

お嫁にゆきたい あなたと暮らしたい 

馬鹿ネ 馬鹿ネ よせばいいのに

ダメな ダメな 本当にダメな いつまでたつてもダメなわたしネ

 ……馬鹿ネ 馬鹿ネ よせばいいのに 

 ダメな ダメな 本当にダメな いつまでたつても ダメなわたしネ

 ……馬鹿ネ 馬鹿ネ よせばいいのに ダメな ダメな 

 本当にダメな いつまでたつても ダメなわたしネ

 いったい何回、ダメと馬鹿が登場するのでしょう。中年男が自分の都合のいいように作詞したのです。このような手合いの歌がたくさんあります。カラオケなどでこの種のものを歌うべきではありません。神さまに造られた立派な作品としての人間をけなしてはいけません(ただしメロディーについては問題ありません)。

 レメクの歌は殺人の歌です(4:23、24)。ユバルは官能の曲を奏で(4:21)、トバルカインは武器を作ります(4:22)。今も昔も罪の文化の本質は変わりません。

 スウェーデンの二大輸出品は何であるかご存じでしょうか。宣教師と武器です。愛と憎しみを同時に輸出しています。これが私たちの生活している現場の現実です。だからハッと我に返る時が必要です。神さまの前に素直になる時、私たちはだれでも神さまと出会う事ができます。                                                

 「私にはキャロルというニ一歳になる娘がいます。八年前、交通事故で左足切断の瀕死の重傷を負い、七ヶ月入院、七回も手術しました。あるとき、彼女は私に言った。『神さまは私に一本の足を残して下さった。それは困っている人を助けてあげられるように、一本足でもすぱらしい人間であることを教えられるようにということでしょう』と「彼女はソフトボールのスタープレーヤーでした。米国最高の選手になる夢を持っていました。それが、左足義足で、もう望めなくなった。しかし、ソフトボールをつづけるという。私が『走ることができないではないか』と聞くと、『……ホームランを打てば走る必要はないでしょ』と答えました(大拍手)。強い手、腕を持つための訓練を始め、ついにホームランバッターになった。「私たち家族が船旅に出たとき、十代の彼女は、船客の余興会の舞台に立って言いました。『皆さんは私の足についてヒソヒソ話をしておられましたが、私は皆さんに話さねばなりません。入院中に、父の親友のジョン・ウエインから一枚の写真をもらいました。十字架にかかるキリストの写真で、この……イエスは私の最大の友だちとなりました。……私はいい姿で歩く事はできません。しかし、人生で大切なことはどう歩いているかでなくて、だれと歩いているかなのだと思います』(ロバート・シューラー『朝日新聞1986』)

  私たちは神さまの前で謙虚になるとき、すぱらしいインスピレーションが与えられます。この種の出会いこそがあなたを祝福します。どうかこのチャンスを活かして毎日を元気に過ごしてください