332 神の国に生きる
●聖書箇所 [マルコの福音書1章14、15節〕
なぜ礼拝をするのですか、あるいはなぜ教会に出かけるのですか、と私が問うときっと種々の答えが返って来ると思います。そして想像するにどの答えも正しいと思います。その正しい答えの中にこのようなものがあるだろうとも推察します。それは「新しくなりたい」。そうです。私たちには「新しくなりたい」という変身願望がありますね。過ぎた一週間、まるで煤がいっぱいにつまったトンネルの中を抜けて来たようなものです。ふと自分を見ると真っ黒。それを見てさらにあなたは傷付く、そういうことではないでしょうか。ならば「新しくされたい」と思うのは当然です。今回のテーマはそのようなあなたにぴったり。神の国について学びましょう。というのは「あなたが新しくなれる」のは神の国においてなのですから。
権威
権威に対してあなたはどのような印象を持っておられますか。それは何?それはその社会に所属する者たちに平和と安全とを保証する働きをします。とてもありがたいものです。たとえばあなたの家に強盗が近付いたとしましょう。彼はふと目をやるとおまわりさんが付近を歩いているのに気付きます。慌てて、彼は退散。これが権威の威力です。おまわりさんはまだ警棒を抜いてはいませんし、拳銃を抜いても、もちろんいません。でも権威の後ろには権力が控えています。権力のない権威は存在しません。もしあっても本物ではありません。こうしてみるとなんとありがたい!ただし権威と聞くと抵抗感を覚える人が少なくないのは事実です。それには理由があります。過去において嫌な思い出があるか、親からそのように印象づけられたかのどちらかです。最近では権威の所在地、すなわち警察や裁判所において不祥事が発生しているので、印象が悪くなっていると言ってもいいでしょう。しかし本来は権威は良いものであって、私たちが平和で安全に暮らす為には絶対不可欠のものです。人間の行使する権威には間違いがあり、悪意も存在しますが、神の国においてはそれがまったくありえません。神の国における権威は天の父なる神にあるからです。そして彼の権威が回復するところ、祝福がいっぱいあります。
「お前は、ほんとうは私の子ではないんだよ。お父さんが道楽のすえ、ある女の人に生ませた子で、生後間もなく、私が引き取って育てたんだよ。」
父の死後、母から初めて聞かされた私の出生の秘密でした。
□変わらぬ父
父は二重人格者の最たる者でした。昼間は謹厳実直な紳士、ところが夜になると酒と女に遊び狂う道楽三昧の男に変貌してしまうのです。常に複数の女がおり、そこに泊まることもあれば家に連れて来ることもありました。帰宅すれば酒のため乱暴を働かない日はなく、母の体には生傷が絶えませんでした。黒檀の棒で脳天を強打され、血を吹き出しながら転げ回ったこともあります。母と私は毎晩身支度を整えて仮眠し、父が帰宅するや家を飛び出して安全な場所に落ちのびるという、まるで空襲時のような生活を送りました。野宿したこともあります。まことに悪夢のような時代でした。こうした日々が長く続き、父に対する憎悪はまだ小学生であった私の心に殺意まで抱かせるようになっていました。母もまた三度自殺を試みました。
□変わらぬ父 変わった私
中学生になり、私は強い内省期を迎えました。自分をどう処理してよいのかわからず、すべてのことに虚無的になっていきました。古本屋で買い求めた聖書を貧るように読み、哲学書にはない大きな感動を昧わったのです。聖書は私の心に新鮮ないのちの風を吹き入れてくれました。しかし、私自身の内的変化にもかかわらず、父の行動はまったく改まりません。私は自分の無力感に押し潰されそうになりました。父に対する憎しみと殺意は依然として心の奥に潜み、一方ではそれを捨てさらねぱという思いが戦い、私はそのはざまにあって気が変になりそうでした。聖書に救いを求めながらも、聖書を生ける神の言藁として受け入れるには至っていなかったのです。そんな時、ある婦人との出会いから教会に行き、説教者の直接的な語りかけによって、人生が一八○度転換しました。「兄弟、あなたは今から主イエスのものです。心の重荷は除かれ『電信柱に花が咲き、焼いた魚が泳ぎ出す』ような新しい人生が始まります。」それがその通りになったのです。その日以来、自分でも不思議なほど心が安定し、父に対する憎しみは日毎に失せ、父の救いを願う心が湧き起こってきたのです。まさに闇から解放、人生の夜明けでした。
■父の告白−しかし父は、私の教会通いを知ると烈火のごとく怒りました。酒を飲んでナタを振り上げ襲いかかってきたことも、聖書を焼き打ちにしたこともありました。……月日がたつにつれ酒を飲むことはめっきり減り、母をもいたわるようになっていったのてす。想像もつかない変わりようでした。そして私の結婚式の日、挨拶に立った父はこう言ったのです。「皆さん、私は長い問息子の信仰に反対し、迫害し、主を拒んできましたが、今日から私もクリスチャンになるため、新しく進んでまいります。」主なる神は生きておられます。喫煙・飲酒・女性関係を断ち切るために、父は相当苦しんだようですが、徹底的に悔い改め、完全にささげきりました。母も同時にクリスチャンとなり、呪われていると思われた我が家に、神の祝福の日がやってきたのです。「主イエスを信じなさい。そうすれ−ぱあなたもあなたの家族も救われます。」(「呪いの家が祝福の家に」峯野瀧弘日本基督教団淀橋教会牧師・『ハーベストタイム』1986』2.1)
父なる神という権威を受け入れるときにすぱらしいことが起きます。さてそのお方を私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。それは主イエスさまを見ることによって(ヨハネ12 : 44、45)。主イエスさまのご自分のいのちを捨てる、これはあなたを愛する父なる神の愛でした。父なる神はこうして正義を貫かれました。正義がないと社会は破壊されます。でも正義だけがあっても愛がないと冷たい、いのちのない社会です。真の権威には正義と愛の両方があります。
謙遜
神の国においてもっとも価値ある徳は何でしょうか。それは謙遜。ところで神の国を破壊する敵はどこにいるのでしょうか。私たち人間の中にあります。それは高慢。高慢な人は物事に成功しません。そのためにいらいらし、怒りが内部に蓄積されます。飽和点に達すると爆発します。きっかけとともに。どうかきっかけと原因とを混同しないでください。きっかけは風船を針で刺すようなものです。針で刺しても膨れていなければ爆発はしません。爆発すると周囲の人々は迷惑を被ります。ますます人々は彼から離れます。これがまたストレスになります。このストレスは自分に向かい、次には再び周囲の人々に向けられます。こうして高慢の悪循環は終わる事がありません。さて謙遜な人は最高の祝福を受けます。最高の祝福って何?あなたに質問します。それを考えていただいている間にもう―つの質問。その祝福は入れ物に入れられてあなたのもとに神さまから届けられます。その入れ物って何?答えを言いましょう。入れ物とは人格であり、人間です (ローマ10 : 1 3-1 7)。もし入れ物が信用されていたら、中身も信用されます。この場合、福音を中身と考えてみましょうか。福音が大切なものであると私たちが信じるているなら、私たちは自らの人格を磨かなければなりません。そうでないと、人々からは福音を正しい良いものとは受け入れてはもらえません。
さて先の質問の答えですが、それは「私はあなたを必要としています」というメッセージです。謙遜な人には多くの人が近寄って来ます。その一人一人がこのメッセージを謙遜な人に向けて発します。なんとうれしいことでしょう。謙遜な人は、したがっていつも幸せです。ある人たちは「私に相談に来てくれる人がいない」と嘆きます。なぜ悲しいのかお分かりでしょう。このメッセージを受取ることがないからです。謙遜はすぱらしい徳です。もしあなたがクリスチャンを自称なさるなら、あなたの目標は主イエスさまのご人格であるのでしょう。主イエスさまのような自分になることでしょう。では彼の特徴は?それは人々に仕えること(マルコ10 : 43-44)。私たちは仕えてほしいでしょうか。きっとこれは本心。でも仕えることは非常に楽しいものです。人々にサービスをしてみましょう。気持ち良くしていただきましょう。多くの人が「私はあなたを必要としています」というメッセージをあなたに届けてくれます。あなたはいつもいつも至福の時を過ごすでしょう。
赦(許)すことと、赦(許)されること
神の国では重要なテーマです(マタイ5 : 21-26、6:12)。漢字が二種類ありますので、混同しないでください。あなたは最近誰かに辛い目に遇わされたでしょうか。深く傷つけられたのでしょう。でも赦してください。ここで一つ確認したいことがあります。私たちは常に自分は、あるいは自分だけが被害者だと思うものであるということ。しかしこれはおかしなことです。世界に被害者ばっかり。加害者はどこにいるのでしょうか。同じ数だけいなければ不思議な事です。そうです。私たちは被害者でありつつ、加害者です。赦すと同時に赦してもらわなければなりません。また許すことも大切です。これは相手をありのまま受け入れることです。私はきれいなお花を見るとうれしくなります。あなたはいかがですか。でもうれしくなるにしてもあなたと私とではその仕方が違います、きっと。私はきれいな色合いを見て、「これをパソコンで出すのは難しいかなあ−」と考えたりするのです。あなたはどのような反応をなさるでしょうか。人それぞれです。これは個性というものです。個性を互いに受け入れること。これが許すことであり、許されることです。ただし難しい!「これが正しいことです!」と言われて、「はいッ!そのようにします!」とすぐに実行できたら人生苦労はありません。実に難しいテーマです。何がそうさせているのでしょか。それは自分の中に隠れた怒りがあるからです。あなたは今日怒っていませんか。
20代前半の女性が手首を切って自殺未遂を起こしたということで病院に運び込まれました。彼女の手首には何度も切った後が残されています。なぜ彼女はこういうことをくり返すのでしょうか。彼女の生い立ちに原因があります。彼女は親から愛されて来ませんでした。それが辛くて、少しずつ精神の不満が溜まり、これが風船が膨れるということですが、飽和点に達すると手首を衝動的に切るのです。お医者さんに「なぜこんなことをするの!?」と叱られて安心するのです、「私は生きていていいんだ」と。彼女の中に自分への怒りがあります。「こんな自分、いやだあ−。だれからも歓迎されない自分、いやだあ−」。あなたは自分に好意を持っていますか。もし持っていないのならどうしたらいい?主イエスさまがいらっしゃいます。あなたを受け入れてくださいます。他の人格に、特に重要な関わりのある相手から、たとえば親から受け入れられて私たちははじめて自分を受け入れる事ができます。その親の親から派遣された主イエスさまがあなたを受け入れてくださいます。どうかこの経験をしてください。すなおな気持ちで主イエスさまの前に自分をさらけだすのです。このことに関して参考となる話をしましょう。
モモの特別な能カー映画『ネバーエンデイングストーリー」の原作者として有名なドイツの作家ミヒャェル・エンデが、一九七三年に出版した童話に『モモ」という作品がある。この長編童話はドイツでべストセラーとなり、子どもだけでなく大人たちの支持も受け、その後三十ケ国以上の国で翻訳され、エンデに世界的な名声を授けることになった。物語の中心は、円形劇場あとに住みついた少女モモが、時間泥棒である灰色の紳士たちから……「人間の時間」を取り戻すいう筋だ。この物語が、そして少女モモが、多くの人に感動を与えた陰の要因は、モモの特殊な”能力”にある。その”能力”とは、「相手の話を間く」能力であった。もちろん聴覚があれば「聞く能力」は持っているはずだから、聞く事が特殊な”能力”というのは納得しがたい。しかし「ほんとうに聞くことのできる人はめったにいないものです」と、エンデは『モモ』の中で書いているている。モモの、話を聞く能力が特殊なのは、癒しを与える聞き方ができるという点にあるのだ。ビジネスマンF氏さんの苦しい胸の内を”聞く”ことができなかったSさんに対して、ドイツ人の神父さんの胸の内を、彼の犬はちゃんと聞くことができた。犬に神父さんの言葉が理解できたわけではないし、慰めの言葉を言えようはずもないのに、少年時代の神父さんは癒されたのだ。いや、逆に犬は、何も言葉がしゃべれずに、ただひたすら少年に注目したことで、少年自身が癒しのメッセージを獲得したのだ。モモが持っていたのは誰の言葉でも”聞く”ことができ、誰にでも癒しを与える能力だった。『モモ』の中でエンデは、次のように語っている。くモモに話を聞いてもらっていると、……彼女はただじっとすわって、注意ぶかく間いているだけです。その大きな黒い目は、あいてをじっと見つめています。するとあいてには、じぶんのどこにそんなものがひそんでいたのかとおどろくような考えが、すっとうかびあがってくるのです。ドストエフスキーは『カラマーゾフの兄弟』の中で、あらゆる人を惹きつけてやまないアリョーシャという人物を描いている。アリョーシャはひらすら周りに集まる人々に慈しみのまなざしを注ぎ、全身を傾けて相手に聞き入る。相手が自分の考えや気持ちを口にのせることができるまで控えめに待ち、相手の不安や怖れの渦巻く気持ちにぴたりと寄り添い、見守り、相手が出口にたどりつき、一人で歩み出すまで、全身を耳にして、ついていくのである。(鈴木秀子『愛と癒しのコミュニオン』文芸新書)