337 エデンの園からの追放、その後

聖書箇所 [創世記4章1 −1 6節]

 最初の人アダムは神に似せて作られました。ですから「あの人は神さまのような人だ!」と通常言われるような、人格的にもすばらしい人でした。心は輝き、愛に溢れ、非常に魅力的な人でした。でも罪を犯してからすっかり変わってしまいました。私たちは今どのような輝きを持っているのでしょうか。本来の輝きを取り戻さなければなりません。アダムはエデンの園から追放されました。それは神さまの愛のわざでした。神さまとの親しい交わりに飢え乾きを感じるようにさせるためでした。親しい交わりこそ人としての輝きの源であるからです。どのように私たちは本来の人としての輝きを取り戻すことができるでしょうか。

 正しく行う[7節]

 カインは正しく行わなかったのです。ここではどんな事件が起きているのでしょうか。人類最初の兄弟の物語です。弟アベルのささげものは神さまに喜ぱれましたが、兄カインのものはそうではありませんでした。兄は弟を殺しました。その行為に先行してことぱがあります。9節の、彼のことぱはなんと攻撃的でしょうか。とげがあります。そして彼は不幸です。不幸な人はなぜ不幸なのでしょうか。それは不幸なことぱを使うから。ことぱには生産能力があります。「光あれ!」ということぱと同時に光は存在を始めました(創世記1:3、4)。不幸なことぱは不幸を製造し、再生産します。フランスの哲学者パスカルは『パンセ』の中でこう言いました。「正しく行うには正しく思考すること」。思考はことぱによってなされるのですから、ことぱとの付き合い方が正しい行いを招くと言えるでしょう。私たちは多くの場合、人を傷つけないようにことぱを使いましょうと学んでいます。馬のくつわや船の舵に例えられます。ヤコブの手紙3章ではそう教えています。ここではことばの受け取り方について学びましょう。多くの方がことぱによって傷つけられパニックに陥るからです。1)罪人の社会ではあなたを傷つけることぱは常に飛び交っている、という前提を忘れないようにしましょう。「私を傷つけるようなことぱを私に投げないで!」と念じても、叫んでも、ことぱが飛んでこないということはありません。罪人が作る社会の現実を認識しなければなりません。罪人の社会には不幸な人がたくさんいるのです。不幸な人は不幸なことばを話します。すなわち人を平気で傷つけることぱを発します。それは本能的なもので他の人格を傷つけていやそうとする行為です。物にあたっても効果的ではありません。物を破壊され、お金を浪費されるからでもありますが、人格を傷つけることによってしか自分の心をいやすことはできないと人は知っているからです。そこで愛の神さまはイエスさまを、傷つけられても構わないお方として私たちの前に用意してくださいました。イザヤ書53章をぜひお読み下さい。この驚くべきニュースを知った人たちはもはや他者を傷つけないのですが、知らない人は相変わらず正しくないことを行い続けます。もしあなたが信仰を正しくお持ちになるなら、恵まれます。恵まれれば妬まれます。カインは妬んだのです。あなたも妬まれます。母親のエバはアベルの未来を予見して命名したのでしょう。アベルとは「空虚」の意味です。2)どうかあなたを傷つける人を哀れんでください。可哀相な人なのです。自らの不幸を持て余しているのです。そしてあなたはあなたに与えられた、ねたまれたことの根拠、すなわち良いものが与えられていることに感謝してください。3)あなたを傷つける相手と距離を置いてください。パウロはたとえ夫婦であっても距離を置く場合があることを教えています(|コリント7:5)。しかし残念なことに具体的な距離まで教えてくれていないので、心理学上の数字を書いておきましょう。1メートル20センチです。ただし2メートル10センチ以上は離れないこと。この距離を維持するように心がけましょう。1メートル20センチはあなたを傷つけることぱという弾丸の射程距離外ですし、2メートル10センチを越えると、友人ではなくなります(アメリカの文化人類学者エドワード・T・ホールによる『社会距離』の説明から)。

心を大切にする[5節]

 カインとアベルとの間に何があったのでしょうか。3節と4節とを比較してみると分かります。ささげる姿勢に大きな違いがあります。原文ではアベルは「自分を」ささげたのです。カインは形式的でした。ここにささげかたの本質があぶり出されています。カインが怒った(6)のは真実を見抜かれたからです。人はそうするものです。彼の心の中は穏やかではありませんでした。心一ことぱ一行為、関係があります。彼は心の中の憎しみをことばにし、行動にしました。彼はアベルを殺しました(8)。いじめは人を抹殺する恐ろしさを持っています。心がいやされる必要があります。そうして穏やかなものにする必要があります。聖霊の風に吹かれたらいいのです。でもなぜか、人はこれを避けます。なぜなのでしょうか。3章8節をご覧下さい。神さまとともに心地よい風は常に吹きます。でも逃げています。あなたは逃げますか。それとも逃げませんか。どうか心の痛みを恐れないで下さい。傷口を隠さないで下さい。ぱんそうこうはかえって傷口を大きくするものです。バンドエイドは通気性がありますので直りが速い。この原理です。隠す人は攻撃的な性格を保ち、その種の生活を続けます。攻撃の対象は自分であったり、近くの人であったりしますが、そのようにしていても決していやされはしません。聖霊さまの風を受けて癒される人は心が穏やかになり、したがってことぱもやさしくなり、行いもあたたかいものになります。

未来を見る[5節]

 6節をお読み下さい。なぜ顔を伏せているのでしょうか。顔を伏せるのは、相手の目を見ることができないのは、気まずい関係を証明しています。それは過去に捕らわれているとも表現できます。多くの人が過去にしたこと、過去にあったことに心とことぱと行動とが縛られています。新しい発想ができません。あたらしい歩みができません。4章7節では3つのことが言われています。1)罪は戸口であなたを待っている。2)罪はあなたに恋をしている。3)あなたは罪をコントロールすることができる。 39は希望です。神さまは、そして聖書は常に希望を語ります。つまり過去にではなく、未来に生きること。7節の「受け入れられる」は「顔を上げることができる」とも、訳せますが、「赦される」とも訳せます。過去の罪をイエスさまのあがないのわざのゆえに赦していただいて、私たちは未来に生きるべきです。夢を、そして目標を持って生きるべきです。どうかねたみや憎しみなどの個々の罪を悔い改めるのみならず、過去に捕らわれていた生き方を悔い改めてください。あなたはあなたの生活に本来の輝きを取り戻すことができるでしょう。最後にヤーウエをこよなく愛した人の詩を紹介しましょう。

                   青   春      サムエル・ウルマン
    青春とは人生のある時期ではなく、心の持ち方を言う
    薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな創造力、炎える情熱をさす
    青春とは人生の深い泉の清新さをいう
    青春とは臆病さを退ける勇気 
    安きにつく気持ちを振り捨てる冒険心を意味する
    時には、二〇歳の青春より六〇歳の人に青春がある
    年を重ねただけで人は老いない。
    理想を失うとき初めて老いる
    歳月は皮膚にしわを増すが、
    熱情を失えば心はしぽむ
    苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い 
    精神は芥になる
    六〇歳であろうと、一六歳であろうと人の胸には、
    脅威に魅かれる心、
    幼な子のような未知への探究心、
    人生への興味の歓喜がある。
    君にも我にも見えざる駅逓が心にある人から
    神から、美・希望・喜び・勇気・力の霊感を受ける限り
    君は若い霊感が絶え、
    精紳が皮肉の雪に覆われ、
    悲嘆の凍りに閉ざされる時、
    二〇歳であろうと人は老いる。
    頭を高く上げ希望の波を捕らえる限り、
    八〇歳であろうと人は青春にして己む