338 ピリポ・ナタナエル・シモン

聖書箇所 [ヨハネの福音書1章43−51節]

 題名でお分かりのように今回はイエスさまの弟子、12弟子について取り上げます。12部族にも使われる12という数字は完全数です。それはそれ自体で完結性がある、すなわち立派な一つの世界、の意味です。したがってたとえ一人と言えども欠けてはいけないのです。異なる一人一人が重要なのです。私は信仰のあかしを聞くのが楽しみです。「へえ一あなたはそんなふうにして信仰に入ったんですか−」と感嘆させられることがたびたびです。それも異なる個性のためです。信仰を持つ主体は個人個人の持つ性格です。ペテロやヨハネなどは有名で、何度も話を聞いていらっしやるでしょう。そこで、今回はあまり有名でない人たちを取り上げました。

合理性追求型・ピリポ

 彼は漁師と思われます。名前の意味は「馬を愛する人」です。なぜこのような名前なのかは分かりません。分かることの一つはアンデレと彼だけがギリシア名を持っていることです。それはイエスさまの伝道戦略においては異邦人へのチャンネルという意味があったのです。あなたはどんな特技をお持ちですか。どんな性格をお持ちですか。あなたでなければ近付けない人がいます。神さまはあなたに期待しておられます。
 さて、彼は弟子仲間であるペテロからこういう話を間きました。「おれ、この前、水の上を歩いたんだ」。さあ、ピリポの反応は?もう想像できますね。「まさか、人間が水の上を歩けるか!」と、こんな調子でしょうか。合理主義者はこう答えるに違いありません。でもイエスさまはこういうピリポをかわいがられました。
 ヨハネの福音書6章1節以下をお読みください。5000人の給食の話が登場しています。男だけの人数ですから、女性や子どもたちの数を入れれば、少なくとも1万人はいたでしょうね。彼らにどうしたら食料を提供できるか、これがピリポヘのテストでした。早速ピリポの優秀なコンピューターが動きだしました。結論は200デナリ(一日分の給料で現在なら1万円?1デナリで小麦のパン[直径23センチ、厚味3. 5センチのものが12枚、大麦では36枚買えたそうです])あったとしても、不可能!。こういう場合に登場するのがアンデレです。彼の提案は、ピリポの合理主義によればさらに不可能を予測させるものです。『大麦のパン5つと小さい魚2匹」ですから。しかし結果はどうであったでしょうか。1 1 − 1 3節で私たちはそれを知ります。彼はとても恥ずかしい思いをしました。「信仰の世界をちっとも知らないな」と思い知りました。でも彼は変えられました。彼にはヒエラポリスで殉教したという言い伝えがあります。殉教者には熱い心があります。彼は裸にされ、くるびしとももをさし抜かれ、逆さに釘付けられました。そんな中でも彼は冷静さを失わず、自分の生涯の罪を悔い改め、かつ次のようなことを言い残しました。「私を麻布で埋葬しないでほしい。イエスさまに対して畏れ多い。パピルスで包んでほしい」。心は熱く燃え、最後まで頭は冷静でした。あなたがもしピリポのように合理主義者であるなら、イエスさまによる同じ訓練を受けることができます。ヨハネの福音書14章8−11節をお読みください。ピリポは父(なる神)を知ることができないと訴えています。イエスさまのお答えは目の前にいる私を見て、分かる、というものでした。目の前の存在を信じることによって分かるものなのです。今、あなたの前にみことばがあります。何か感じる(直感)ものがあったら、信じて見てください。信仰とは「ポーンと跳ぶ」ことです。合理性の岸から。ケーキは「砂糖が5グラム入っていると計量できた」から、「おいしい!」と分かることはできません。食べてみて、はじめて分かります。「食べる」ことは、「ポーンと跳ぶ」ことであり、「信じる」ことです。

真理追求型・ナタナエル

 この性格の特徴は疑い深いことです。なかなか信じることができません。「はたして本物だろうか?!」とつい疑うのです。でも真理をそして理想を強く求めているのです。この型の代表であるナタナエルはイエスさまと劇的な出会いをしました。ヨハネの福音書1章43−51節をお読みください。ピリポが「メシアに会った」とあかしをした時、彼の反応はどのようなものであったでしょうか。疑いです。「まさか、ナザレから」。彼は聖書をよ−く研究していました。ですから彼の疑う根拠は正しいものでした。もちろんこの場合の聖書は旧約聖書です。一方イエスさまの反応は?「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」(47)。最高のほめことばです。さしづめ、「彼こそほんもののクリスチャンだ」に等しいものです。ナタナエルはトロマイの子(バル)、ナタナエルと呼ぱれます。ナタナエルとは「神のプレゼント」。親の苦労が報われた瞬間でした。ところでこのようなイエスさまの発言はあなたの信仰観を揺るがさないでしょうか。疑いを持つこと、すなわち不信仰は良くない、と教育されて来ているはずですから。イエスさまはパリサイ人を批判なさったことをあなたはよくご存知です。何が問題だったのでしょうか。彼らが話す内容は正しいものでした。でも何か重要なものが欠けています。愛です。そうです。彼らには愛が欠けていました。だからみことばをもって人々を裁いていました。それは違反です。倫理違反です。人を裁くことができるのは神さまお一人です。ところで話すことと生活態度との間にギャップがあるのは罪人である私たちには当然のことです。私たちは聖書を信じています。まるまる信じています。ただし、注意して聞いてください。理念としてまるまる信じているのです。現実には信じられない部分がその中には含まれています。信じようとは思ってはいますが、実際には信じられません。この、信じられない部分が生活の中に現れます。パリサイ人は口では信じていると言いつつも、実際は信じていない部分を持ちながら、まるで信じているかのように見せていました。これは偽りです。ナタナエルは正直に「信じられない」と言いました。ここにイエスさまの評価が下されました。私たちは信じることができないことを理由に自分を、また人を裁いてはいけません。信じることができない事実は裁きの対象ではなくて哀れみの対象です。裁けば救われる、という道はありません。十字架のあがないの対象には不信仰も含まれていることを知るべきです。イエスさまを信じるということはこういうことも含まれています。別の方法があるなどとと勘違いしてはいけません。
 
 ある人が、「一つ良いことをすると天国へ通じる梯子に一段加えてもらえる」と知り、一生懸命に良い事をしました。どんどん階段は増え、そのうち周りが雲だらけの所に到着しました。彼はそろそろ天国に着いた頃だと思い、梯子を降りました。そうした所、地獄へまっ逆さまに落ちて行きました。

 決してイエスさま以外に救いの道があるわけではありません。さて、続けましょう。私たちは正直であるべきです。私たちはナタナエルから何を学ぶことができるでしょうか。それは、戦うデボーション。1章48節にある「いちじくの木」。彼にはここが似合っていました。当時の家の構造はほとんど一間(ひとま)です。人々は一人になりたいとき、お祈りをしたい時、いちじくの木の下に行きました。いちじくの木は高さが5−6メートル、枝の直径が7−8メートル。デボーションにはもってこいの場所でした。彼はここで神さまと戦う祈りをしました。信じるようになれるように戦っていたのです。イエスさまが彼をイスラエルとお呼びになった、その、イスラエルは「神と戦う」意味です。神と戦ったヤコブに与えられた名前でした。あなたも正直であってください。信じられないのであれば、信じられないことを正直に認めてください。そしてほんとうに信じるべきであるなら一信じることは祝福を招くことを保証します一信じられる者になれるように一生懸命に祈るべきです。

猪突猛進型・シモン

 シモンを代表にして学びたいのですが、彼については何も分かっておりません。ルカの福音書6章15節に出てくる冠だけがヒントです。それは熱心党員。当時のユダヤにはいくつかの派がありました。パリサイ派、サドカイ派、エッセネ派(バプテスマのヨハネが所属していたと言われております)です。最後に熱心党が登場しました。熱心党は民族主義者です。ユダヤを植民地にしていたローマヘの敵対心を隠すことはありませんでした。彼らはシカリの集団へと発展しました。シカリとは暗殺団です。テロリストです。長服に短刀を忍ぱせて、民族の敵を襲いました。イスカリオテのユダももしかしたら熱心党員であったかも知れません。イスカリオテという呼び名が似ています。バルヨナ・シモンと呼ぱれたペテロも関係があるかも知れません。バルヨナとはアラム語でテロリストと関係があると思われるからです。さきに5000人の給食の学びをしましたが、ヨハネの福音書6章15節を見ますと、当時多くの人が政治的(あるいは軍事的)メシアを求めていたことが分かります。イエスさまの弟子団に、少なくない数の熱心党員が加わろうとしたことは想像に難くありません。このような背景を持つシモンが変えられました。敵をも愛する者に。なぜそのように言えるのでしょうか。イエスさまの弟子団にはマタイがいたことを思い出してください。取税人です。ローマの犬です。シカリの暗殺の対象者であったはずです。このように非常に難しい関係にある彼らが一つになれたのはいったい何が理由であったのでしょうか。シモンはイエスさまの態度によって変えられたのです。シモンは地上の国を追求していましたが、イエスさまはそうではありませんでした。イエスさまは人々を真実に愛し、それは普通の人には真似のできないレベルのものでした。十字架はそれを証明しています。私たちも地上の物事へのこだわりを捨てて、天上にあるものを目指そうとするとき、どんな人とも良好な関係を持つことができるようになります。私たちは相性の善し悪しを無関係とする生き方ができるのです。つまりシモンは従来のエネルギーの向きを変えただけです。相変わらず熱血漢であり、猪突猛進型なのです。さて、あなたはこの三つの型を学ばれてどのようにお考えでしょうか。この型は、わたしかしら。あるかたはどれにも私はあてはまらない、とお考えかも知れません。どちらでも構いません。どのような性格の型であったとしても誇りを持って生きてください。 

 ヨハネの福音書15章16節のおことばでこのメッセージを閉じましょう。

 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選(び、あなたがたを任命した)んだのです。

 神さまの豊かな祝福があなたにありますように。