339 私を祝福してください
●聖書箇所 [1歴代誌4章9、10節、創世記32章26節]
神さまの前に私たちはどのような態度であったらいいのでしょうか。これを、もしみなさんに質問しますと、多くの答えが帰って来るでしょう。安心してください。どの答えもきっと正しいのです。今回学びたいのは何か、と言いますと、それは、正直、です。へんにかっこつけたりしてはいけません。芝居をしても、取り繕ってもいけません。ただ正直であるべきです。そうするあなたを神さまは愛してくださいます。そして正直なあなたが正直に訴えることの中身は何でしょうか。今回学びたいのは、正直であった二人、正直に訴えてそれを勝ち取った二人です。その正直な訴えとは 「私を祝福してください」です。
ヤベツ [|歴代誌4章9、10節]
彼もついてはわずかな情報しかありません。たった一つといってもいいでしょうか。分かっていることは、成人して後、非常に祝福されたことです。さてイスラエル人は子どもが生まれて名前をつける時に、親の持つ気持ちや思いを込めました。私の息子は献(ケン)と言いますが、親である私自身の不足を顧み、息子に期待を込めて付けました。ごくごくありふれた親の命名の方法ですね。娘はゆりか。ゆりはイエスさま、かは香り。イエスさまの香りを放ってほしいと願いを込めました。自分のことは棚に上げて。
さてヤベツは。何か悲しいことがあったのでしょう。「悲しむ」と名付けました。それにしても「悲しむ」君、とはなんという名前でしょう。そう呼ぱれるたびに彼の心理はどのようなものであったでしょう。想像するに、悲しみに満ちていたのでしょう。子は親を選べないのですから、これは悲劇としか言えません。きっと何かの理由で領地がお母さんの代で減ったのでしょう。イスラエル人の世界では長寿や子だくさんと並んで、領地の広さは大きな祝福とみなされました。それを何かの理由で減らしてしまったのです。このあたりに悲しみの理由がありそうです。でも彼はこのような運命に負けてはいません。「私を祝福してください」と叫びます。一筋の光が差しています。最近(2000.12.1)テレビのレポート番組を見ました。アフリカのザンビアという国をレポートしていました。なんと国民の四人に一人がエイズにかかっているのです。しかも働き盛りの30代と40代に多いのです。こうして多くの孤児たちは産まれて来ます。それもエイズに感染されながら。そんな子どもの腕は細く、弾力を失ったゴムの様でした。枯れ木のように渇いていました。テレビの前で私の胸は痛み、辛くなりました。子どもはこの運命を背負って生きて行かなければならないのです。子どもは運命を選べません。悲しみの心の中で、私は一筋の光を見ました。神さまの愛の御手を見ました。それはシスターたちが両腕に子どもたちを抱えながら、「まもなくこの子どもたちは天に召されます。そのわずかな間が私たちの愛するチャンスなのです」。
どんな場合にも希望はある、そのようなメッセージに聞こえました。そうです。そうなんです。どんなに苦しいときにも、どんなに悲しいときにも、どんなに行き詰まっているように見えても、道はある、脱出はできる、解決はできるのです。そしてそう信じるのが信仰なのです。
北米に名説教者と呼ばれたダットローという名の牧師がいました。彼は十代のはじめまで荒れた生活をしていました。お母さんがいなかったせいであることは明らかでした。お父さんが16歳の誕生日に「もう、お前は子どもではないのだから、お母さんのことについて話そう」と事情を話してくれました。「お母さんはとてもきれいな、信仰の篤い女性だった。でもたった一つ。体が弱かった。お前を身ごもったときに、お医者さんから母親のいのちか、子どもの命かどちらかを選びなさいと言われた。私たち夫婦は国中の病院を回り、なんとか母子ともに助かるすべを探し求めた。でもついに有効な手立ては見つからず、ついに決断のときは来た。私は聞いた。自分の命を選ぶか、子どもの命を選ぶか。すると即座に『子ども』という答えが返って来た。こうしてお前は産まれて来たんだよ」。これを聞いた彼は大声を上げて泣き崩れました。「ぼくの命を助けるために死んでくれた−−−!」。
このとき以来、彼は十字架の意味を真に理解するようになりました。名説教家はこうして生まれました。苦しみの中から希望の光は放たれるのです。私たちはこれを信じなければならないのです。これが信仰であるから。
女優の長岡輝子さんは三人姉妹の一人として育ちました。通信簿の季節になるとお父さんの部屋に呼ぱれます。ある時三人が揃って部屋に入って行きました。お父さんの前には大中小のプレゼントが置かれてありました。お父さんは一番成績の良かった子に一番小さいのを渡しました。一番成績の悪かった子には一番大きいのを渡しました。お父さんはこう言いました。「成績が良かったら、その喜びがもうすでにプレゼントなのだ」。私たちはがんばる者に祝福を下さると考えて、つい「がんぱらなくっちや−」とがんぱるのではないでしょうか。がんばる者にではなく、信じる者に祝福はいただけるのです。どんな場合にも祝福を私たちは信じなければなりません。
ヤコブ [創世記32章26節]
ヤコブはヤベツと違って名門です。名門の第三代当主です。いわぱ殿様ですね。彼の生き方は、というとたとえば創世記27章で分かるように兄エサウから長子の権利をだまし取るとか、悪いイメージばっかりが付きまといます。その後苦難が伴いますが、ついには実業家としてと言ってもいいでしょうか、大成功を収めます。創世記32章10節を見て下さい。裸一貫から大金持ちになったことが分かります。ただし前半は彼の謙遜さではなくて、かえって高慢さを現しています。その証拠に22−30節で彼の自我が砕かれる場面が登場します。このときまだ砕かれてはいませんでした。さて、彼は多くの財産を持ち、幸せだったでしょうか。そうではありませんでした。彼はいつもいらいら。欲求不満です。ストレスを抱えています。どんなものなのでしょうか。それは人々から尊敬されていない、というものです。彼はそのことを自分で認識しています。だからいらいらが消えないのです。人は物質的な物が豊かでも決して幸せとは言えません。よく切れる包丁を持っていて、人を殺すことと、おいしい料理をして人にそれをふるまうために使うのとは天地の差があります。物質や金銭は所詮道具でしかありません。道具はそれを使う人の人柄によってその意味や存在価値が決定します。ヤコブは自我がもっと砕かれる必要がありました。彼の自我はどのような性質を持っていたでしょうか。
1)ずる賢い。先に説明した通りです。
2)逃げる。事実を見つめない。都合の悪いことを見ないようにする。31章には逃げるjが4回も出てきます。
3)恐れや不安がいつもある(32:7)。
やがてヤコブは自分自身に気がつきます。そこで「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」というせりふをついに発します。彼は天使とすもうをとります。これは神さまと戦ったことを意味します。もちろん彼が勝てるわけがありません。ついに降参し、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ぱれない。イスラエルだ。(28)」と言われます。ちなみにヤコブとは「押し退ける者」、そしてイスラヱルとは「神の人」です。なんとすばらしい名前!彼の自我は砕かれました。彼は聖められました。聖められた者こそ持っている財産には価値が生じます。
ピカピカの新車に乗ってある牧師が街に出かけました。用を足して車に戻ると、そこには汚い身なりの少年が見入っていました。「この車、おじさんの?」「そうだよ!すげえなあ−。いくらしたの?」「う−ん、分かんないなあー。実はおじさんのお兄ちゃんが買ってくれたんだ!」「そうか、ぼくも大きくなったらこんなピカピカの新車をプレゼントできるようになりたいなあ−」。なんとなくうさんくさく感じていた牧師は意外な返答に「どう、乗ってみる!?」と声をかけました。街を巡りながら少年は満足そうでした。「おじさん、僕の弟にも見せたいんだけれど……」。アパートの前にやって来ました。降りて行った少年は汚いアパートの中から弟を抱きかかえながらやって来て、こう言いました。「いつかこのお兄ちゃんがおまえにこんなピカピカの車を買ってやるからな!」。
モノが多くあっても私たちは決して幸せではありません。聖められた自我があってこそ物質も金銭も使いこなせて、そこには幸せがあるのです。私たちはヤコブのように自我が祝福されることを、すなわち聖められることを求めるべきです。
では最後にどのようにしたら私たちは神さまの前に正直でありうるのでしょうか。
日本揮発油の鈴木義雄社長にインタビューのために、約束の時刻に出向いたところ、秘書が「恐れ入りますが、二分お待ちいただけないでしょうか」と言った。二分後、「この二分の間何をしていらっしやったんですか?」とつい聞いた。「実はあなたがいらっしやる前に部長たちと激論を交わしていたんです。このままの顔じゃーいけないだろうと二分いただきました」。(伊藤肇「喜怒哀楽の人間学』)。
私はこの話に感勧しました。「ここにプロフェッショナルがいる」と。「人々は聖書を読まずに、私たちを観む。キリストを見ないで私たちを見る」。もちろん私たちとはクリスチャンのことです。私たちは人々に勧めます。「どうぞ聖書を読んで下さい」。でもなかなか読んではもらえません。「イエス・キリストを見てください」と言いますが、なかなか見てはもらえません。人々はクリスチャンの生活を見ています。それには本物から圧倒的な影響を受けねばなりません。十字架のイエス・キリスト。自分の命を捨てるその迫力。その前に私たちはなんのとりつくろうすべも持たないでしょう。そのようなときに、私たちは「私を祝福してください」と真剣に訴えることのできる自分を見るのです。
●ヤベツ(〈へ〉yabes) 「悲しむ」という意味.ユダ族の出身。父や兄弟の名は不明であるが,ヤベツという名の由来として,母親が「私が悲しみ(〈へ〉オーツェブ)のうちにこの子を産んだから」と言ったためと言われている.しかし,ヤベツは成人して,兄弟の中で一番栄誉を受ける者となり,富や勢いにおいてもまさっていたと息われる.また,信仰の面でも敬虔であった(1歴4:9−10).
●ヤコブ
1.(〈へ〉ya aqob)イサクとりぺ力の子で,ふたごの弟の方.彼は心ならずも2人の妻を持つことになったが(レアとラケル),12人の息子が与えられた.ヤコブは後にイスラエルと呼ばれるようになった(創32:28,35:10,49:2).彼の12人の息子は,イスラエルの12部族の祖となった(創49:28,出1:1以下,1歴2:1).ヤコプは誕生の時,兄エサウのかかとをつかんでいたところから「かかと」と同じ語根からきているヤコブという名前がつけられた(創25:26).この同じ語根が,「だます」という意味をも持っていたところから,ヤコブが兄や父をだました時,そのような名前の意味が説明されている(創27:36,ホセ12:3).ヤコプの母リベカは,長い間子供がなく,祈りの答として,彼と兄エサウが生れた(創25:2).この2人は全く違った性格の持主で,エサウは 「巧みな猟師,野の人」となったのに対して,ヤコブは「穏やかな人となり,天幕に佳んでいた」(創25 : 27).工サウがお人好しであったのに対して,ヤコブはずる賢く,抜け目のない性格であった.彼は兄の韓みにつけ込んで長子の特権を得(創25:29−34),父を欺いて,祝福を得た(創27:1−40).このことから分るように,エサウは霊的なものの価値についてうとかったのに対し,ヤコブは霊的なものにさとかったのである.しかし,2度も兄をだましたために,兄エサウの怒りを貢い,母リベカの兄ラバンのいる実家のある所(パダン・アラムの地のカラン)へ旅立たなけれぱならなくなった(創27:41−28:5).途中ベテル(ルズ)で野宿した時,天にまで届くはしごの夢を見,そのはしごを神の使いたちが上り下りしていたところから,神が共にいて保護しておられることを確信した(創28 : 10−22).彼は母の故郷カランヘ行き,おじラバンのもとで20年働き(創31 : 38),おじの娘レアとラケルの2人を妻とし,ペニヤミンを除く11人の子供をその地で得た(創29:21 −30:24).その関にヤコブは多くの富を作り,故郷カナンに俸ってきた。途中マハナイムで神の使いたちに會い(創32:1−2),ヤポクの渡しでは,夜明けまで神と争い,もものつがいを打たれ,神から祝福を受け,その名をイスラエルと変えられた.いわゆるペヌエル(「神の御顔」という意味)の経験をしたのである(創32:22−32).こうして全く変えられたヤコブは,出迎えにきた兄エサウと会い,シェケムに住んだ(創33章)‥‥‥‥は不動の信仰を持っていた(ヘブ11 : 21).彼の生涯は人間の赤裸々な姿を示しており,また同時に,そのような罪深い者の上にも神の恵みが豊かに臨んでいることを示している.ユダヤ人はみなヤコプの子孫であるため,聖書ではユダヤ人のことを「イスラエルの子ら」(申32:8)と呼んでいる.預言書では「ヤコブ」と「イスラエル」をどちらも使っている.また詩的表現としては,これを並行して使っている箇所もある(申33 : 10, イザ43 : 1, 22,44:1).(「新聖書大辞典』いのちのことば社)