340 今、来ようとしている祝福

 ●聖書箇所 [申命記8章16節]

 今回は苦しみについて学びましょう。苦しいとき、悲しいとき、辛いとき、私たちは思います。「なぜ?いつまで?どうしてこの私が?」。ひどい落ち込みを経験したりします。うつになることさえあります。苦難には何の意味もないのでしょうか。いや、あります。意味があります。今、新しい祝福が来ようとしています。とすると、苦しみの間、苦しみののちに来るその祝福を受け損ねることのないように心構えが必要となるでしょう。それを学びましょう。
  「あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった」−−とありますから。

神さまがあなたを訓練している

 神さまが苦しみを使ってあなたを訓練していることを知ってください。人生は学校です。さまざまなことを学ぶ場です。最近私は北海道北見市に奉仕に招かれて出かけました。私は行く前から心はうきうき。48年ぶりでした。飛行機の中で、到着してから、私は48年間をごく普通に心に浮かぶに任せて振り返りました。合計で10年北海道に住みました。野原で駆け巡った日々。零下20度になると学校が休みになり、喜んだ日々。朝、起きると一番の愉しみ。それは玄関の受箱にはいっている牛乳を飲むこと、いや食べること。凍っているのです。おさじでほじくりながら一時、至福を楽しみました。辛いこともありました。後になって見ると、受ける必要のある訓練だったと納得します。
 申命記は神さまからモーセヘのことぱです。モーセは当時最先進国であったエジプトで王子として、もちろん最高の教育を受けました。モーセはエジプト人のあらゆる学問を教え込まれ、ことばにもわざにも力がありました。(使徒7:22)でもあるとき自分の中を流れる血に目覚めました。「私はイスラエル人だ!」。当時は奴隷になりはてていたイスラエル人の中に入って行きました。勇気のあった彼は立ち上がりました。「私がイスラエルを救う!」。でもだれもついては来ませんでした。リーダーとしてはこんなにみじめなことはありません。プライドは深−く傷つけられました。こうして彼の訓練の時は始まりました。彼は自らについて十分に実力も資格もあると思ったのですが、神さまのご判断はそのではありませんでした。訓練が必要でした。以降40年間は神さまに荒野にて導かれ訓練されました。荒野、それは苦しみを伴ったものでした。でもこのような神さまのご配慮が彼を超一流のリーダーヘと育てて行きました。今、あなたの抱えている問題は何でしょうか。どうかそれから目を背けないでください。逃げないでください。
 心理学者ウイリアム・ジェームズはこう言っています。「苦しいから逃げるのではない。逃げるから苦しいのだ」。
 あなたは、いま家庭の問題を抱えているのですか。職場の問題ですか。それとも……。神さまはあなたを訓練してくださっていると知ってください。そのように受け止めてください。そこに希望はあります。神さまはこの世界を無からお造りになった実力者です。あなたの問題を解決できないなんてことはあるはずがないではありませんか。

新しいチャンスが目の前に来ている

 苦しみは役に立つものです。それはあなたが剪定されているときのようなものです。枝葉が切られているとき、涙が出ます。でもやがてすぱらしい実を結びます。
 断崖絶壁に巣を作ることで知られる鷲は愛情をもって子を育てますが、あるとき、巣を壊しにかかります。それは巣立ちのときが来たからです。幼鳥はいままでの居心地の良さを奪われて、慌てます。でも親鳥はその作業を止めません。こうして一人前になって行きます。
 ベートーベンは背も低く、足が短く、頭髪もぐしゃぐしゃで劣等感を強く持っていました。でもそれをバネに立派な作品を残しています。さらには病気のために耳がだんだんと聞こえなくなって行きます。そうした中でソナタ「熱情」、交響曲「運命」「田園」、そしてついに第九交響曲を完成させます。
 パウロは偉大な説教者です。でも持病があったようです。一説にはてんかんと伝えられています。説教中にてんかんで倒れてしまうのではさまにならない、と言えるのではないでしょうか。また目も姿勢も悪かったようです。けれども彼は偉大な説教者であり、初代教会の建設者なのです。
 イギリスの歴史家トインビーはこう言います。「歴史は人間の精神的な学問の一つであって、古代史を注意深く読むと、ある文明が発生し、繁栄する場合に、その民族が生物学的に頭が良いとか、地理的環境条件が有利であるといったような結果ではなくして、むしろその逆である」。つまり逆境の中でこそ大文明は発生し、成長したと言うのです。「ナザレから何の良いものが生まれようか」と当時は言われていました。でも我らが主イエスさまはここにデビューなさったのです。当時の文明先進地、たとえばエルサレム、ダマスコ、地中海沿岸地方ではありませんでした。聖書の真理を知りましょう。
 主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(llコリント12 :9)
 からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ぱえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。(1コリント12 : 22-25)
 デモステネスはどもりでした。でもそれを克服して大雄弁家になりました。私のあかしをしましょう。私は楽器もできないし、特技も持っていません。でもあるとき、神さまから示されました。「エンターテイナーでなくていい、マネージャーになりなさい」。私はこのアイディアに納得しました。人々が自分の持っている賜物を思う存分発揮できるように環境を整備するのです。これは仕えることです。主イエスさまの選ぱれた道です。こうして私は牧師の道を選びました。これは私には新しいチャンスであったのです。あなたにはどんなチャンスが来ているのでしょうか。苦しみを通してあなたには新しい世界が広がります。どうか主イエスさまの光をあなたの苦しいところに当ててください。新しい世界が見えて来るはずです。

今、来ようとしている祝福を受取る

 イギリスの劇作家オスカー・ワイルドは「人間を悪人と善人とに分けるのは茶番である。魅力的か退屈かで分けるべきである」と言いました。魅力的な人間とは……、それは夢を持っている人のことでしょう。たとえ挫折をしても失敗をしても常に前向きに生きる人のことでしょう。立正大学の斉藤勇はこう言います。「侮辱された人は仕返しをしたいという気持ちにかられますが、それは自分をみじめにします。もっと状況を悪くします。もっと大きな目で見て自分の能力を発揮するようにした方がいい」。これを心理学では昇華と言いますが、あなたはどちらでしょうか。仕返しを考える方でしょうか、それとも。そうですね。苦しみは他者から来ることも多いので、つい後者に傾きがち?いやいや、今学んでいるテーマに戻りましょう。苦しみは新しくやって来る祝福への前奏曲、序曲。神さまはあなたから良いものを奪う方ではありません。かえってもっともっと良いものをあげましょう、というお方です。
 ファニー・クロスビーをご存知でしょうか。世界三大讃美歌作者の一人です。生後6週間で失明しました。だれかがハップ剤を目に貼付けたのです。でも信仰あつい両親のもとで明るく快活な少女として育ちました。8歳のときの文章です。「なんという幸いなたましいでしょう。私はたとい目が見ることができなくても、満足です、と言えるのです。私の楽しめる祝福はなんと多いのでしょう」。95歳まで生きて、3000以上の讃美歌を作りました。目が見えなかったので聖書を暗記していましたから、そのおかげで次々に信仰的な詩が心に浮かんで来るのです。聖歌590番は自分の目が見えないことを、526番はニューヨークのスラム街を訪問したときの、教会学校のためには540、404、232番などを書きました。あなたの、今、受けるべき新しい祝福は何でしょうか。来ていると信じるとき、それは現実にあなたのものになっているのです。

 1 救い主イエスとともに行く身は 乏しき事なく恐れもあらじ
   イエスは安きもて 心足らわせ
   物事すべてを 良きにしたもう
   物事すべてを 良きにしたもう

 2 坂道に強き御手を差し伸べ 試みの時は恵みをたもう
   弱きわが魂の 渇く折りしも
   目の前の岩は 裂けて水湧く
   目の前の岩は 裂けて水湧く

 3 いかに満ち満ちてる恵みなるかや 約束しませる家に帰らぱ
   わが魂は歌わん 力の限り
   君に守られて 今日まで来ぬと
   君に守られて 今日まで来ぬと(590)