353 あなたは高価で尊い
 ●聖書箇所 [イザヤ書43章1ー7節]

 中村修二さんのお名前をお聞きになったことがあるかと思います。徳島県の企業に勤めていた研究者で青色発光ダイオードの開発者です。その後スカウトされて現在はカリフォルニア大学の教授です。彼は今ノーベル賞への呼び声が高いのですが、ノーベル賞と言えば、ユダヤ人。最近ユダヤ人が書いた書物が「贈呈」と書かれて私のもとに送られて来ました。その中に「ユダヤ人の人口は世界で1400万人。全人口比で0.3%、しかし受賞者の約20%を占める。その秘密をお知らせしましょう」とありました。あなたも知りたいですか。彼は「聖書!」と言います。確かに、通じるものがあることは直感できます。ノーベル賞をもらうには今活躍していることと、オリジナリティーが求められます。これは聖書の考えです。過去にこだわらないで、今を大切に生きること、そしてかけがえのない自分、世界でたった一人の自分。今回はあなたは高価で尊い、という題で聖書のメッセージ、特に聖書的人間観をお知らせしましょう。

愛の神さまによって造られた[1d、7節]

 最近春日部チャペルが完成しました(2000.5)。とてもきれい、という評判です。喫茶店と間違えて入って来る方もいらっしゃいます。なにわともあれ、来ていただけるのはとても嬉しいことです。なぜこんなにきれいなのか、その理由は簡単です。設計者がいるから。私は何ヶ月かにわたっていろいろと打合わせをしました。一つ一つの部品や材料にまで設計者がいます。色、形、厚味、場所など、全体とのバランスの中で配置を考えました。最近私のパソコンの調子が悪いのです。そろそろ買い替えなくちゃ−と思っています。CPUは?RAMは?HDの容量は?といろいろと使用目的に合わせながら思案を重ねなければいけません。あなたが造られたのもこのようなやり方です。すばらしい頭脳をお持ちの神さまが善意と誠実さとをもってあなたをお造りになりました。あなたは、したがってとてもすばらしい人間です。
 でもこのようにお話しますと、中にはこういう方もいらっしゃいます。「それなら何故私はこんなにできが悪いの?」と。そこには誤解があります。そのような人は「なぜ、私の足は物を掴む事が上手ではないのか?!」と言っているのです。もうお分かりでしょう。物を掴むために造られたのは手です。一人の人間を構成する部品一つ一つが個性的なものであり、そのようにして組み立てられた全体も個性的な存在です。つまりオリジナルな存在です。このように「私は、愛の神さまに造られた」と信じる人は自分に誇りを持つことができます。「これが私!他の誰でもない、これが私!」と言えるのです。どうか謙虚さと感謝をもって自分を在庫調査してください。

 有名な指揮者であるレナード・バーンスタインは演奏の合間の休憩時間にインタビューを受けました。
 「パーンスタインさん、演奏するのに、一番難しい楽器は何でしょうか?」彼は、即座に答えました。第二バイオリンですね。第一バイオリンの奏者は大勢いるのですが、なんといっても目立ちますから、なりたい人も多いのですよ。実際、第一バイオリンのように真剣に演奏する第二バイオリン奏者を見つけることはなかなか難しいのです。これは第二フルート奏者や第二フレンチホルン奏者にも言えます。オーケストラは第一奏者だけではできないんですよ。第二奏者が良い音を出してくれて初めて美しい八−モニーがが生まれるのです。」

 昔、インドに用水路を作るのが大変上手なお百姓さんいました。初めの年、彼が引いてきた用水は、隣の田んぽにもあふれ出ていきました。おかげで隣の田んぼにも良い米ができて豊作になり、その田んぼのお百姓さんは大喜びでした。「わしが苦労して引いてきた水じゃないか。なんで隣の田んぽにまで水をあげなきゃならないんだ。」と思って、次の年は水があふれないように自分の田んぼの周りに高い堤防を造りました。その結果、どうなったでしょう。なるほど水はせき止めらましたが、彼の田んぼの水は腐ってしまい、稲は実らず沼地となってしまったのです。(『クレイ』2000.7)

 謙虚に、かつ感謝をもって自分の良いところを探して下さい。たくさんあるはずです。愛の神さまが造って下さったあなたです。

神のかたちに造られた。[1d、7節]

 神のかたちってラテン語ではイマゴ・デイ。イマゴってイメージ、デイは神のこと。神のかたちって何でしょう。エペソ人への手紙4章24節にあります。義と聖です。義とは「私は良い事をしたいなあー、世の中の役に立つことがしたいなあー」という思いです。もちろんあなたにもありますね。聖とは「私は清い心を持っていたいなあー、純粋で、陰のない心を」というようなものです。こんな詩を見つけました。

 「はじめまして」この一秒ほどの短い言葉に一生のときめきを感じることがある。
 「ありがとう」この一秒ほどの短い言葉に人の優しさを知る。
 「頑張って」この一秒ほどの短い言葉勇気が甦ってくることがある。
 「おめでとう」この一秒ほどの短い言葉で幸せに溢れることがある。(『一秒の詩』)

 ところで私たちは日常生活において神のかたちがほんとうにあるのかなあーという思いにさせられることがあります。たとえば凶悪な事件を耳にするときです。バスジャック事件を起こした少年がいました。彼は良い子だったのです。親の言う事を「はい!」と素直に聞く良い子でした。でも中学三年の夏頃、それまでの性格が一変したのです。勉強はしなくなり、ことばも行動も乱暴になり、物を投げ、壊し、家庭内暴力は日を増すごとに激しくなって行きました。神戸心義親子研究室主宰の伊藤友宣はこう言っています。

 「人はみな、周りによかれと振る舞う心(超自我スーパーエゴ)と、よこしまでも思うがままに動きたい心(欲動イド)が内面で葛藤してこそ、その二つの心の対立を取りなすもう一つの心(自我エゴ)が確立して大人になる。……いい子ぶりっこ、つまり超自我だけが浮く育ちだと、抑えていた欲動は思春期に暴発する」

 これは罪による汚染と考えられます。本来の神のかたちが汚染され、傷つけられている状態です。このような事件を見聞きし、何かの失敗をして自己嫌悪感に陥ったりすると私たちはついこのように考えてしまいます、「これが本来の私かも……」。これではさらに落ち込む事は避けられません。どうか間違えないで下さい。これは本来の私たちの姿ではありません。本来の姿は神のかたちです。これを信じる者は常に精神的に霊的に健康です。前向きに考えることができ、明るい気持ちで過す事が出来ます。希望がいつも心の中にあります。では事実としての罪や失敗はどのように理解したらいいのでしょうか。
 「恐れるな。わたしがあなたを購ったのだ」(1d)とありますように、イエス・キリストが十字架の上であなたのすべての過去現在未来の罪や失敗を消却処分してくださいました。あなたはこれを信じますか?どうか信じてください。信じてイエス・キリストと深い交わりを持ってください。なお一層あなたは自分を前向きに捕らえる事ができるようになるでしょう。日本キリスト教団・新潟教会牧師春名康範は、次のように言っておられます。

 百パーセント立派な役師や信徒でなくてもいいんです。少しくらい空に雲があっても天気は晴れと言うでしょう。それと同じです。私は欠点だらけだけれど、主があわれみによって召してくださったんです。だからありのまま欠点もさらけだして、「こんな人間を救ってくださった」主を伝えたいのです。(『クリスチャン新聞』2000年3用2日号)

 オラ卜リオ〔天地創造」などの作品があるオーストリアの作曲家ハイドン(1732-1809)が、ある日、仲間の著名な芸術家たちととともにいたとき、そのうちの一人が質問をした。「非常にがんばって心身ともに力を出し尽くしてしまったとき、うちなる力を最も早く回復させるには、どうすればいいのだろうか。」いろいろな方法が考えられたが、それが一番確実だと全員が同意するものはなかった。最後にハイドンが発言した。「私の家には小さな礼拝堂があります。仕事に疲れると、私はそこにはいって祈るのです。この方法が成功しなかったことは、今まで一度もありませんでした。」(CD-ROM版『キリスト教例話集』)

 ああ、それで分かった。私が元気のないのは家に礼拝堂がないせいだ!と思った方はいらっしゃらないでしょうか。自分が一人になれればそこに礼拝堂はあります。イエス・キリストと静かな交わりの時を楽しんでみてください。

互いに愛し会う者である[43章全体]

 愛し会う、これが真の意味で交わりと言います。ところでヤコブとかイスラエルとか呼び掛けられていますが、これは同一人へのものですが、聖書には集合人格という概念があります。一人で全体を代表させるものです。かつてイスラエル人がエリコを攻略しようとしたときにアカン一人が悪い事をしたためにイスラエル人全体が災いを被ったことがありましたが、これはその例です。雪印の事件(2000年)でも、直接には無関係なジャンプ選手の原田が競技を自粛したことが報じられましたが。日本の文化と共通性があります。ローマ人への手紙5章ではアダムが人類の代表で罪を世界に導入し、キリストが同じく代表として罪を駆逐したと説明しています。ですからこの場合はヤコブ個人と言うのではなくてイスラエル人全体を意味しています。そこには交わりが存在します。交わりは二つの要素で成立します。愛することと愛されること。前者の愛することがあなたを幸せにします。ヘルマン・ヘッセの童話に『アウグストス』があります。
 
 未亡人に生まれたばかりのアウグトスという名の赤ちゃんをに隣りのピンスワンゲル老人がこう言います。「この子についての願いは何でもかなえられる」。そこで、夫人は「だれからも愛されるように」とリクエストしました。彼は一目ですペての人の心を魅了するような美しい少年に育って行きました。多くの少女が彼を愛しました。その結果、愛されることになれきったこの美少年は、愛されても、それについて何も感じない人間になってしまいました。青年になったとき、彼はプレイボーイであり、多くの人妻をもてあそんでいました。しかし彼の心は、幸せを感じることはありませんでした。不気味な空虚さが彼の心を圧倒していました。ついに彼は友人たちの前で毒薬をのんで死のうとします。するとそこにあの老人があらわれ、彼の秘密を語ります。アウグストスは「すべての人に愛される」という魔力をとりさることそして代りに「すペての人を愛する力」を願い、聞かれます。数年を過した牢屋を出所、しかしかつての美しさはどこかに消えていました。しかし彼の心には、すペての人へのあたたかい愛が溢れるばかりにありました。道端で遊ぶ子供たちを祝福し、自分をあざける者は赦しの気持ちが絶えず注ぐことができました。アウグストスは、ほんとうの愛と幸せを初めて知ります。

 私たちはつい愛されることばかりを望みます。でもそれでは幸せは来ないのです。愛して後に幸せを感じます。どうか愛してください。それには人からではなく、人の愛には限界があるのです、神さまから戴く愛に満たされなければなりません。神さまの愛をすなおに受け取りましょう。神さまはこう言われます。「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(4)。もしかするとあなたは自分に向ってこう言ってはいませんか。「私は安っぽくて卑しい」。そのようにだれが言ったのですか。神さまは少なくともそのようにはおっしゃてはおられません。