354 あなたを高める三つの動機
●聖書箇所 [マタイの福音書20章26ー28節]
一九五六年一月、アメリカの五人の宣教師がエクアドルのジャングルで消息を絶ち、やがて、捜索隊が惨殺された五人の遺体を発見した。「白人に食べられる」と恐れたアウカ族の襲撃を受けたのだ。あとに五人の未亡人と九人の子どもたちが残されたーそのときの残された妻の一人で、後に夫の後を受けてアウカ族のもとに赴き福音を宣べ伝えたエリザベス・エリオットさん(一人娘と、弟が殉教したレイチェル・セイントさんとともに)が沖縄での第4回日本伝道会議……(で)体験をあかしした。(『クリスチャン新聞2000.8』)
やがて夫を殺したアウカ族青年たちが伝道者になって行くという奇跡的な出来事がこれには続きます。私たちはこのようなニュースに接すると戸惑いを覚えるのではないでしょうか。なぜ?何が動機?ある方々は「ウン、私には分かる!」とも。ところで私たち人間は行動をするものです。そして行動には結果・実が伴います。私たちは恵まれたそれを求めていますが、それは動機によって決定付けられます。動機はエンジンです。今回は私たちを良い行動へと駆り立てる動機を探りましょう。
欲求[マタイ20章26ー28節]
欲望と言ってもいいでしょう。しかしともに良いイメージはないのではないでしょうか。ではほんとうにこれは良くないものなのでしょうか。心理学者アブラハム・マズローは人間の五段階欲求説を唱えています。
第一段階=生理的欲求=『お腹がすいたあー。食べたい」など。
第二段階=安全の欲求=危険を感じる道を避けて帰ろうとなどという気持ち。
第三段階=愛と所属の欲求=『ただいまあー!」と言うと、「おかえりー!」とあたたかーく帰ってくると安心するときの気持ち。
第四段階=他者からの承認の欲求=『上手ですねえ−」とほめられたときのうれしい気持ち。
第五段階=自己実現の欲求=『そう、これ!これが、私のしたいことだったんだあー」と自分自身で納得したい気持ち。
さあ、これらの欲求は良くないものなのでしょうか。マタイ20章26ー28節をお読み下さい。イエス・キリストは決してこのようにはおっしゃってはいないはずです。「人の先に立ちたい?偉くなりたい?なんて悪い思いを持つのでしょう!」というふうには。むしろ「人の先に立つためには、偉くなるためには、このようにしなさい」と勧めてくださっています。どうかあなたの気持ちの中にある、「こういうことをしたいなあ」という思いを大切にしてください。するとあなたの中に平安と落ち着きとが生まれるはずです。その理由は何でしょうか。それは、母なるものとの出会い。
夏目漱石の晩年の文章に、母の想い出を語った部分があります。
「……子どものころ私は昼寝をしていて、よく変なものにおそわれがちだった。その時もその変なものにおそわれたのだが、私はいつどこで犯した罪か知らないが、ひとの金をたくさんにつかいこんでしまった。それを何の目的で何のために使ったのかはっきりしないが、子どもの自分にはとてもつぐなうことはできないので、気の小さい私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声をあげて、下にいる母を呼んだ。母は私の声を聞きつけると、すぐに二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼むと、母はその時微笑しながら、「心配しないでいいよ。御母(おっか)さんがいくらでもお金を出して上げるからね。」と言ってくれた。私は大変嬉しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。(『硝子戸の中に』)
彼は両親がずいぶん年とってからの子どもで、八人兄弟の末っ子で生後まもなく貧しい古道具屋に養子に出されたと言います。さらには別の家にも養子にやられ、夫婦不仲のゆえに10歳のときにようやく実家に帰ることができたと言います。人一倍母を求めていたと言えるでしょう。だれでも私たちには実の母親に限らず母なるものへの憧憬があります。そしてそれと出会うときにほっとするのです。心は満足するのです。あなたの好きな事は何でしょうか。それをしているときにあなたは母なるものとの出会いの中にいます。
ルノアールをあなたはご存じと思います。ルノアールの絵は少しの陰も憂いもない、明るく健康な絵のように見えます。しかし顔面麻痺、リュウマチ、二人の息子が戦争で負傷など、彼の生涯は暗く、自分の生涯を「松葉杖にひっかかったぼろ切れ」と言っています。それでも手に絵筆を縛り付け、車椅子に座ったままで書いた絵は、ますます明るいものでした。友人があわれに思い立派な医者を探し、ルノアールを歩けるようにしてくれました。2年ぶりに歩けたのです。ところで「歩く事と絵を描く事とどちらが好い?」、その友人に訪ねられた彼は「やっぱり絵を描く事!」。 きらいなことをするのは苦痛な事。したくてたまらないことを行動できるとするなら、私たちは幸せ!実は父なる神さまと子なる神さま(キリスト)とから派遣された聖霊の神さまは母なるものです。ですからあなたの中に「これがしたいなあー」という思いを与えて下さいます。ピリピ人への手紙2章13節をお読み下さい。ところでここで一つだけ注意してください。あなたの好きなことをするときに、一緒に喜んでくれる人がいるといいなあという思いでそれに取り組んで下さい。このときあなたは聖められていると言うことができます。私は19歳の時に初めて添乗員を見ました。夜行のスキーバスツアーに参加したときのことです。すっかり魅了されてしまって、「これがしたい」といつも思っていました。ついに教会で企画していままでに5回も外国へ教会員を連れてレンタカーでいろいろなところへ案内し、喜んでもらいました。もちろん私もおおいに楽しみました
。
価値[マタイ6章21節]
私たちは、「これには価値が在る」と確信すれば行動します。ブランド品に価値が在ると思えば、遠くへでも人々が出かけて行きます。価値在るものを入手すると何がその人には起きるのでしょうか。何か良いものが手にはいることは分かります。それは何でしょうか。それは箔が付くのです。自分に新たに価値が発生するのです。ブランド品もお金も、それは表現手段です。自分の価値を表現しています。それはそのまま自信につながります。ところでここに一つの問題が在ります。もしブランド品を身に付けていないときは自分の価値はどこへ行ってしまうのでしょうか。もはや存在しないのでしょうか。少なくともこのことに不安を感じているなら、小さな失敗をしたときに大きく落ち込んでしまいます。自信が揺らいだ瞬間です。小さな失敗にどうして大きく深く落ち込んでしまうのでしょうか。少し落ち込むだけでいいはずなのに。理由があります。かつて大きな失敗をした記憶が私たちには残っているのです。それが思い起こされるのです。それはアダムの堕落の事件です。創世記3章をお読み下さい。私たちはアダムの子孫であってだれもが彼の遺伝子を受け継いでいます。小さな失敗が引き金となって深層心理の中に在る記憶が呼び起こされるのです。そのとき私たちこう思います。「やっぱり私は失敗者だ!」と。小さな失敗をしただけのときであっても。神さまは、しかし、やさしいのです。裸に耐えられないアダムに皮の衣を着せてくださいました(創世記3:21)。ですから私たちはいまでも皮製品が好きなのです。自分に自信をつけるために。でもこれは現代において(神学的には)邪道です。神さまのみこころは、あなた自身に価値があると教えます(イザヤ43:4)。その証拠に父なる神さまはあなたのために大切な一人子イエス・キリスト(究極の皮)を犠牲になさいました。あなたには価値があるので、あなたに生きてもらうために犠牲になられました。古い自分に否定的な自分に、自己嫌悪感に沈む自分自身に死んで、新しく生きてください。前向きな自身に満ちた、自分に大きな価値を見い出している新しい生き方を生きてください。先に紹介した宣教師たちはこのメッセージを命がけで伝えるためにジャングル深く入っていったのです。
義務[コリント人への手紙第一10章33節]
人生評論家の掘秀彦氏だったと思いますが、ある雑誌に趣旨以下のように書いていました。
「私は小さい時、まま母に対してどうしても『おかあさん』と呼ぶことができなかった。いつもいつもそう呼ばなければいけないと思いながら、いつのまにかそうしないままでこの年になってしまった。年老いた今感じることは、私には愛することも打ち解けることもできない相手であったけれども、やはり私はおかあさんと呼ぶべきだった。自分の気持ち以上に崇高な『ねばならぬ』に従って行く、ここに人生の深さがあるのではないだうか」
これは動物にはない悩みです。彼らは意味を問わないからです。ファーブルの『昆虫記』にマツノギョウレツケムシの話が出ています。彼はこの毛虫を捕まえて植木鉢の縁をぐるぐると回らせるのです。鉢の下にはえさを置いてあるのですが、見向きもせずにただ黙々と歩き続け、ついには八日目に餓死してしまうと言うのです。ただ本能で生きているだけです(日本の同毛虫にはこのような習性はないそうです)。悩みはありません。自分の気持ちと義務の間に葛藤はありません。私たち人間の崇高さは何に起源が在るのでしょうか。それは「神のかたち」(創世記1:27)。私たちが義務に悩むとき、私たちの中の「神のかたち」が明らかに息づいています。あなたの中に神々しさが発揮されています。マザー・テレサがそうではないでしょうか。神さまは彼女の中に輝いています。親は疲れていても子どもの為に食事を作ります。エリザベスは何度も「夫を殺した相手を赦すことができましたか?」と問われました。葛藤がなかったと言えば嘘になるでしょう。赦すことはそんなに簡単なことではないからです。でも赦すことは私たちの、崇高な人間としての義務なのです。この義務に生きるとき私たちは神さまとともに生きています。今、あなたの目の前に置かれた義務を大切にして下さい。育児がそれでしょうか。会社の仕事がそれでしょうか。決して偶然では在りません。あなたの前に置かれた義務はあなたを神々しくさせるものです。