355 シェキナーの経験

 ●聖書箇所 [レビ記9章22ー10章7節]

 シェキナーって何でしょう?22節にある、「主の栄光が現れ」を指します。至高経験と言ったらいいでしょうか。「今、私の中に主はおられる!」「今、私の中に主は生きておられる!」と言ったような経験です。あなたにはそのようなものが経験されているでしょうか。もしご希望でしたら、畏敬の念を持つことをお勧めします。ちょうど天皇陛下の前に出るような感じです。親しみと怖れの入り交じった印象です。人格と人格の関係にはすべて言えることですが、自分の側の態度が相手の出方を決定する一面があります。たとえばあなどる、軽くあしらう、自己の利益のために利用するなどという態度を向けられた人は決して友好的な反応を示すことはないでしょう。もし私たちが主に向って畏敬の念を持って接するならば、シェキナーの経験をし、最高の喜びに浸る事ができるのです。具体的な指針を示してみましょう。

神の指定された方法に従う

 9章1−5節をお読み下さい。その後6節にシェキナーが起きています。9章15−22節をお読み下さい。その後23節でもシェキナーが起きています。条件は神さまの指定なさった通りに忠実に事を行うことです。旧約聖書時代において4つの祭りがありました。

 
 1)罪のためのいけにえ
 2)全焼のいけにえ
 3)和解のいけにえ
 4)穀物のささげ物*

 1)罪のためのいけにえは、私たち人間には地を流さずしては解決できない問題があることを教えています。それは何? 罪、が答えです。他者をさばいたり、妬んだり、エゴイズムであったり、多くの汚れに満ちているのが私たちです。この犠牲の動物はイエス・キリストであり、これは血のあがないを指しています。今、私たちに求められていることは罪を悔い改めることです。イスラエル人は犠牲が殺され、血の臭いが強く漂う中で自らの罪深さを悔いたことでしょう。

 2)全焼のいけにえは悔い改めを徹底させることを求めています。

 3)和解のいけにえは聖所で食事のパーティー、すなわち神の家において神さまを和解の宴を張ることを意味しています。牛肉、羊肉とパンを食べ、出席者一度は喜びの時間を過します。これはお祭りのクライマックスです。

 4)穀物のささげ物は小麦粉をささげます。この地域の主食ですから、日本の食習慣ではさしずめ、ささにしき、こしひかり、秋田小町と言ったところでしょうか。感謝と喜びに溢れてささげます。新約聖書時代に入って、今私たちに求められている、神の方法とは、主日礼拝、デボーション、十一献金、交わり、伝道(あかし)です。
 元カネボウ薬品(株)会長であった三谷康人氏は大垣工場の人事課長であった時代に、工場にあった神社を参拝することを拒み、本社から呼び出しを食らったことがありました。人事課長が指導する会社の行事であったので大きな事件になりました。呼び出されてこう尋ねられました。「会社をとるか、信仰をとるか」。彼はすかさず「信仰をとります!」と答えました。彼の心には「私のほかに何者をも神としてはいけない」という十戒が響いていました。ここにはシェキナーがありました。神さまはあなたを愛しておられます。神さまのおっしゃる通りにすることによって、このような力をいただくことができます。

神を信頼する

 22節にあるアロンの祈り、すなわち祝祷について紹介しましょう。民数記6章24ー26節をお読み下さい。これは正式に任命された祭司がしました。よく礼拝式の最後に牧師がしている、あれです。ところで民数記6章27節にはこの祈りがなされた後で、一呼吸置かれている事がわかります。すなわち祝祷がなされた後で、実際に祝福されるにはシェキナーの経験をするにはある一つの条件があります。それは?信頼です。神さまを信頼しなければいけません。これもすべての人格と人格との間に求められることです。夫婦でも、親子でも、師弟関係でも。信頼こそが良いものを産み出すのです。
 積水化学工業(株)で部長職にあった小形真訓氏が最近『日曜日、部長は牧師になる』という本を書かれました。25年間ときに土曜日には徹夜をして日曜日朝の礼拝にて説教を語り続けました。その本の中で次のようなことを言っています。弱い立場の人を大切にしなければならない。イエス・キリストは弱い立場の人にとてもやさしい、あたたかい。これが企業には欠けている。逃げてはいけない。神を信じることは逃げることではない。むしろさまざまな力に縛られている私たちを神は解放してくださる。信仰を持つとは前向きなことです。心が変わればすべてが変わる。私たちは案外否定的です。本当はこれだけ持っているはずなんだけれど、どうしてないの?と言って。もっと現実を見て、すなおに受け入れて前進すればいい。

 なるほどとうなづくことばかりでした。私は彼の発言や生き方の中に神さまへの素朴な信頼をみてとりました。どうかあなたも信頼をしてください。決して神さまはあなたに悪い事をなさらない、ばかりか良い事をしてくださいます。聖霊の力により頼むナダブとアビフの異火事件が10章1節以降に記されています。この二人はモーセの4人の子のうちの二人。ちょっとできが悪かったのです。礼拝順序を勝手に変更してしまったのでしょうか。指定されたルートでなく、火を持って来たのでしょうか。詳しい事は分かりません。でも主はお怒りになったのです。裁かれました。3節以降をお読み下さい。残された者たちには埋葬することも悲しむことも許されませんでした。ただ沈黙があるだけでした。でも私たちには希望があります。なぜならこうあるからです。「こうしてイスラエルはみな救われる」(ローマ11:26)。彼らは永遠の命を失ったのではありません。これは警告であり、試練なのです。私たちには試練があります。この試練を乗り越えさせ、祝福を勝ち取らせてくれる力が必要です。それこそシェキナーの経験です。
 ライオン歯磨(株)社長小林富次郎の祖父は一度事業に失敗したことがありました。そのときには北上川に身投げしようと思ったのです。でもかつて牧師からもらった手紙に中にあったみことばが思い出されたのです。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。」(ヘブル12:11)彼の心の中に響きました。これは聖霊さまのお力であり、聖霊さまに導かれたシェキナーの経験です。こうしてもう一度立ち上がる事が出来ました。私たちは聖霊さまのお力をいただくために何をすべきでしょうか。罪のためのいけにえを、そして全焼のいけにえを思い出してください。悔い改めをし、それを徹底させるべきです。そうして聖められるべきです。
 ソ連時代、学校では週に一回無神論の授業が義務付けられていました。ある日、先生が「こういうわけですから今の時代、神や宗教などは必要ありません。分かりましたか?」と生徒たちに尋ねました。いっせいに「はーい!」と手が挙がりましたが、一人だけ手を挙げない男の子がいました。先生はその子に向って「ガガーリン少佐も『神はいなかった』と言っていますよ」と言うと、彼はこう答えました。「先生、『心が聖くなければ神を見る事はできない』と聖書にあります。ガガーリン少佐は心が聖くなかったのではないでしょうか」。聖められた!経験、それがシェキナーです。今、あなたは愛と力の神さまがあなた自身の中で生きておられることを経験できます。

*■罪のためのいけにえ 過って律法違反の罪を犯した場合に,贖いのためにささげるいけにえのこと(出29:36,レビ4:3,14,20,24,26,29,31,32,35).ささげる人の社会的地位によって,いけにえにする動物の種類が違っていた.大祭司と全会衆の罪の場合は雄牛(レビ4:3,14),上に立つ者の場合は雄やぎ(レビ4:23),一般の人の時は雌やぎあるいは雌羊(レビ4:28,32)であった(民15:24,エズ6:17では民全体のために雄やぎ).罪を犯した者(の代表)が動物の頭に手を置くこと(レビ4:4,15,24,29,33),ほふること(レビ4:4,15,24,29,33),血を祭壇の土台に注ぐこと(レビ4:7,18,25,30,34),脂肪を祭壇で焼くこと(レビ4:8‐10,19,26,31,35)は共通していたが,上に立つ者や一般の人の罪のための場合は,その血は祭壇の角に塗られる(レビ4:25,30,34)のに対し,大祭司や全会衆の罪のための場合には,その血は聖所の中に持ち込まれて仕切りの垂れ幕に7度振りかけられ(レビ4:5‐6,16‐17),香の祭壇の角に塗られた(レビ4:7,18).また,上に立つ者や一般の人の罪のための場合には,その肉は祭司が食することができたが(レビ6:26,29),大祭司や全会衆の罪のためにささげられたものは食することができず(レビ6:30),血と脂肪以外のすべてが宿営の外で焼かれた(レビ4:11‐12,21,6:30).罪の赦しは,いけにえをささげればそれと引き換えに手に入るというような呪術的なものではなく,この儀式はむしろ自分の罪を告白して,赦しの神の前に立つことを意味した.神の喜ばれるのはいけにえそのものではなく「砕かれたたましい」(詩51:17)である.

■全焼のいけにえ 旧約聖書の中でこのいけにえが初めて登場するのは創8:20で,箱舟から外に出たノアの礼拝行為の中でこれをささげている.〈ヘ〉オーラーの語源は「上る」という意味のことばであり,動物を焼き尽し,煙として主のもとへ立ち上らせるこのいけにえの特色をよく示している(レビ1:9,13等).これに関する詳細な規定はレビ1章にある.いけにえの動物は雄牛,子羊かやぎ,鳩などであった(レビ1:3,10,14).貧しい人々は日常食用とするため飼育している家鳩を供してもよいという配慮も示されているが,同時に律法によって求められる全焼のいけにえは経済的理由など人の側の都合で免除されるものではないことも教えられている.全焼のいけにえのささげ方は,ささげる当人がまずいけにえの頭に手を置く.それはささげる人といけにえの動物とが一体となり,罪が人から動物へ移行し,これによって身代りが成立することを意味する(レビ1:4).ささげる人がこれを殺し,その後祭司たちによってその血が祭壇の回りに注ぎかけられた.鳩の場合は血を祭壇の側面に絞り出した(レビ1:5,11,15).その後,動物のいけにえは皮をはぎ,各部分に切り分け,内臓と足は水で洗い,祭壇で焼いた.鳩の場合は,餌袋は灰捨て場に捨てられた(レビ1:16).いけにえの血には贖う力があった(レビ1:4).贖罪の最も重要ないけにえとしては「罪のためのいけにえ」(レビ4:1‐5:13)があるが,この全焼のいけにえの強調点は,いけにえの全部が焼かれることから,ささげる人の神への全面的な献身を表し,またこの規定が犠牲規定を記したレビ記の冒頭にあることから,神と人との正常な関係,理想的関係を表すことにおかれている.これに完全に適合するのがイエスであった.イエスは,少しも傷がなく(ヘブ9:14),罪のためのいけにえとなると共に,完全に神の御旨を行うために御自身をささげられた全焼のいけにえであった(ヘブ10:8‐10).こうしてイエスは,神が人間の罪を赦す道を開き,人々の救いを永遠に全うされたのである(参照ヘブ10:14).
■和解のいけにえ 〈ヘ〉シェラーミーム(単数形シェレム,アモ5:22),ゼバーヒーム・シェラーミームの訳.ゼバフは「ほふられたもの」すなわちいけにえのこと.シェレムは〈ヘ〉シッラム(払う,報いる)と関連させて「酬恩祭」と訳すこともできる(協会訳).レビ7章によれば,このいけにえには(1)感謝のいけにえ(12‐15節),(2)誓願のささげ物(16‐17節),(3)進んでささげるささげ物(16‐17節)の3種類があるが,これらすべては神の恵み(過去の,あるいは未来の)に対する感謝と賛美である.英欽定訳は〈ヘ〉シャーローム(平和,和解)と結びつけて,「平和のいけにえ」としている.いけにえの脂肪を祭壇で焼いて神にささげ,胸とももは奉献物および奉納物として祭司のものとし,残りを礼拝者が聖所で食べるというのがこの儀式の特徴であった(レビ3章,7:11‐16,29‐36,申12:5以下).神を中心とする食卓の交わりの中に,神との平和の回復が願われたのである(出20:24,29:19‐22,26‐28,?サム10:8等).■穀物のささげ物〈ヘ〉ミンハー.このヘブル語は,祭儀的な奉納物だけでなく,人への贈物や(創32:13,18,20‐21,詩45:12),貢物(士3:15,17‐18)などにも適用される意味の広い用語であり,動物のいけにえを指す場合もある(創4:4,?サム2:17).とはいえ,農作物のささげ物を指すことがきわめて多い(士13:19,23,?歴21:23等.参照創4:3,イザ66:20).動物のいけにえがおもに遊牧生活を背景とするのに対し,穀物のささげ物は定住生活を反映する.レビ2章などの規定によれば,必ず塩を加え(レビ2:13),さらにオリーブ油や乳香を添えるのが普通であった(レビ2:1,6:14‐15,民15:4,28:5).それは他の犠牲奉献と組み合されることが多い(出29:41,40:29,レビ23:37,民29:37等)大切な祭儀であった(レビ7:37,民18:9,ヨシ22:29等).(『新聖書辞典』いのちのことば社).