359 神はどのように助けて下さるか
●聖書箇所 [Tサムエル]
指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。主がダビデをすべての敵の手、またサウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた。
1。主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。 2。主はわたしの岩、砦、逃れ場、わたしの神、大岩、避けどころ、わたしの盾、救いの角、砦の塔。 3。ほむべき方、主をわたしは呼び求め、敵から救われる。 4。死の縄がからみつき、奈落の激流がわたしをおののかせ、 5。陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている。 6。苦難の中から主を呼び求め、わたしの神に向かって叫ぶと、その声は神殿に響き、叫びは御前に至り、御耳に届く。 7。主の怒りは燃え上がり、地は揺れ動く。山々の基は震え、揺らぐ。御怒りに 8。煙は噴き上がり、御口の火は焼き尽くし、炎となって燃えさかる。 9。主は天を傾けて降り、密雲を足もとに従え 10。ケルブを駆って飛び、風の翼に乗って行かれる。 11。周りに闇を置いて隠れがとし、暗い雨雲、立ちこめる霧を幕屋とされる。 12。御前にひらめく光に雲は従い、雹と火の雨が続く。 13。主は天から雷鳴をとどろかせ、いと高き神は御声をあげられ、雹と火の雨が続く。 14。主は天から雷鳴をとどろかせ、いと高き神は御声をあげられ、雹と火の雨が続く。14.主の矢は飛び交い、稲妻は散乱する。主よ、あなたの叱咤に 15。海の底は姿を現し、あなたの怒りの息に世界はその基を示す。 16。主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる。 17。敵は力があり、わたしを憎む者は勝ち誇っているが、なお、主はわたしを救い出される。 18。彼らが攻め寄せる災いの日、主はわたしの支えとなり 19。わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。 20。主はわたしの正しさに報いてくださる。わたしの手の清さに応じて返してくださる。 21。わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。 22。わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。 23。わたしは主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る。 24。主はわたしの正しさに応じて返してくださる。御目に対してわたしの手は清い。25。あなたの慈しみに生きる人に、あなたは慈しみを示し、 26。無垢な人には無垢に清い人には清くふるまい、心の曲がった者には背を向けられる。27。あなたは貧しいを救い上げ、高くを見る目を引き下ろされる。 28。主よ、あなたはわたしの灯を輝かし神よ、あなたはわたしの闇を照らしてくださる。 29。あなたによって、わたしは敵軍を追い散らし、わたしの神によって、城壁を越える。30。神の道は完全、主の仰せは火で練り清められている。すべて御もとに身を寄せる人に、主は盾となってくださる。 31。主のほかに神はない。神のほかに我らの岩はない。 32。神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を完全にし 33。わたしの足を鹿のように速くし、高い所に立たせ 34。手に戦いの技を教え、腕に青銅の弓を引く力を帯びさせてくださる。 35。あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支えてくださるあなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる。 36。わたしの足は大きく踏み出し、くるぶしはよろめくことがない。 37。敵を追い、敵に追いつき、滅ぼすまで引き返さず彼らを打ち、 38。再び立つことを許さない。彼らはわたしの足もとに倒れ伏す。39。あなたは戦う力をわたしの身に帯びさせ、 40。刃向かう者を屈服させ敵の首筋を踏ませてくださる。わたしを憎む者をわたしは滅ぼす。 41。彼らは叫ぶが、助ける者は現れず、主に向かって叫んでも答えはない。42。わたしは彼らを風の前の塵と見なし、野の土くれのようにむなしいものとする。 43。あなたはわたしを民の争いから解き放ち国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕え 44。あなたはわたしを民の争いから解き放ち国々の頭としてくださる。わたしの知らぬ民もわたしに仕えわたしのことを耳にしてわたしに聞き従い、敵の民は憐れみを乞う。45。敵の民は力を失い、おののいて砦を出る。主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わしの救いの神をあがめよ。46。主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ。 47。わたしのために報復してくださる。神よ諸国の民をわたしに従わせてください。 48。敵からわたしを救い刃向かう者よりも高く上げ不法の者から助け出してください。 49。主よ、国々の中で、わたしはあなたに感謝をささげ、御名をほめ歌う。 50。主は勝利を与えて王を大いなる者とし、油注がれた人を、ダビデとその子孫を、とこしえまで、慈しみのうちにおかれる。[詩篇18章]
この詩はイスラエル王国2代目の王ダビデ(前1010年から970年頃までの40年間統治)の作品と言われています。手紙と同様に背景が不明ですと、真意を推し量るのに労します。Tサム16章以降,Tサムエル記,T列王記2章以前、T歴代誌11‐29章を参照しつつお読み下さい。表題が簡潔にこの詩を書いた状況を教えてくれています。先代の王サウルがダビデに対して執拗に攻撃を仕掛ける環境に打ち勝って、ついにイスラエル統一王国の王になり、いままでを振り返って、神さまからいただいた恵みを歌います。「いろいろと苦しいことはあったけれども確かに主は私に良くしてくださった。主は真実なお方だ!」と言います。彼は統一王国の首都エルサレムに神の箱を置きました(Tサム6:1‐19)。これが可能だったのは神さまが彼の統治に正当性を保証なさったからです。これも大きな祝福でした。あなたはご自分の人生に生き方に正当性を確信していらっしゃいますか。「私の生き方は正しい!」と正直に言うことがおできになるでしょうか。これは実に重要なことです。正当性を確信できないときにその人生は不安定なものになるからです。どうしたらいいのでしょうか。ダビデに学びましょう。彼は表題にあるように「主のしもべ」の意識を持っています。「アルコールのしもべ」ではありません。「主のしもべ」です。さて、「主のしもべ」ダビデを神はいつもどのように助けてくださったのでしょうか。
落胆した時にやり直す勇気を与えて[4-6-19]
4節と5節の「死の綱」と「よみの綱」とはダビデを襲った数々の危険(Tサムエル20:3)。5節の「死のわな」の「わな」とは疑似餌であって、ダビデが経験した敵に仕掛けられたわなを指します。あなたにもそのようなことがありますか。「うっかりあの人を信頼してしまって失敗した」とか。しかし彼の叫びは神さまの耳に届きます(7-8)。9節の「天を押し曲げて」は「天を傾けて」の意味。すなわち主のしもべの危急に神さまは滑り台を滑り降りて来るごとく来て下さった、と彼は言います。なんという恵み。11ー14節では神さまの御姿が自然界を通して表現されますが、ここに重要な一つのメッセージがあります。自然界、それは今日では人間の幸せを阻むものでもあります。だれがそのように変えてしまったのでしょうか。それは私たち人間。アダムがです。その中にダビデもいました。あなたもいました。でも神さまはそのようなことはおくびにも出さずにダビデを助けるために滑り降りて来てくださった。これはイエスさまの来臨が預言されたものでもあります。「そうだ、私の出番なのだ!」「私は私のしもべを助けるのだ!」と神さまは叫んでおられます。私は19歳の時に初めて教会に足を踏み入れ20歳の時に信仰を持ちました。私は感動しました。「いままでのわがままな生き方に、もうこだわらなくてもいいんだ、新しくやり直しができるんだ!」と。これこそ、すなわちやり直しの精神こそ十字架と復活という福音の精神です。
当惑した時に導きを与えて[20-29]
私たちには迷うことがあります。漢字の「迷」の「米」は「八十八」、しんにゅうは道を表します。88も道があればだれでも迷います。それにしても「果たして私の歩んできた道は正しかったのだろうか」と悩むとき、実に不安ですね。私たちが道に迷い、不安になるとき、ある問題に気が付いていないことがあげられます。その問題とは人間を絶対視しているということ。たとえば結婚について考えてみましょう。この二文字になんと多くの悲劇や喜劇が繰り広げられて来たことでしょう。人間関係全般にあてはまることですが、結婚に行き詰まるのは結婚や結婚相手を絶対視するからです。結婚すればすべてが解決するとか、相手がもっと優れていれば何の問題も起きないとか、このような考えを絶対化と言います。相対化すべきです。相対化とは、いくつかある選択肢のうちの一つ、と考えることです。パウロは独身でしたが、ペテロは結婚していました。どちらも一つの選択肢です。イエスさまはこう言われました。復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく(マタイ22:30)。
ちまたで言われるいくつかのことばを紹介しましょう。「結婚は鳥かごのようなものだ。外にいる鳥たちはやたらに入ろうとし、中にいる鳥たちはやたらに出ようともがく」、「恋愛は美しき誤解、結婚は惨澹たる理解」、「結婚前には両目を大きく開けて見よ。結婚してからは片目を閉じよ」。ダビデが優れていたのは人間を絶対視せずに、主をのみ絶対視したことです。従って「主の道」は完全で、あやまりがありません(21、30)。彼が「主の道」を歩むとき、彼の歩みには間違いがありませんでした。その間違いのない歩みは「義の道」であり「聖めの道」でした(20)。迷うときには「主の道」を知っている預言者、ラマのナヨテに住むサムエルを訪ねました(Tサム19:18‐24)。それゆえに主は多くのプレゼントを彼に下さったのです。人々から尊敬され(自分のいのちを奪おうとするサウル王をあくまで「主が油注がれた者」として敬意を払い続けたーーTサム24:6,26:9‐10,16,23,Uサム1:14ーーこれは神の権威へのへりくだりであった)、多くの部下が集まります(Tサム22:2の400人が,23:13では600人にふくれあがっている。彼らの出自は明らかではないが,やがてダビデ政権の中核的存在となっていった)。敵の中からも尊敬を勝ち取る(サウル息子ヨナタンとの友情物語は有名です。Tサム19:1‐7)などなど。彼には、統一王国の首都を南北の境目にあるエルサレムに定めるなど、主から優れたバランス感覚が備えられました。物事を冷静に見る目です。聖書はバランスの良さを推薦しています。たとえば箴言30章15節以下。4つの目による判断です。このような主張は福音書が4つも書かれたことにも現れています。福音書はイエスさまのご人格とみわざを記録したものですが、4種類の福音書の存在は4つの角度からの観察にほかなりません。正しく人生の道を選択して行くには利口な方法であることには違いありません。「主の道」を尋ねることの中にこのような方法も含まれます。
悲しみの時に慰めを与えて(Tサム16:14‐20)
ダビデは,ユダ族に属するエッサイの息子で,8人兄弟の末弟です。お兄さんたちからはよく思われていなかったようです(Tサム17:28)。いろいろとタレントも持っていたためにねたまれたのでしょう。これは、ダビデには悲しいことであったに違いないでしょう。そういう意味で孤独感を感じて過した少年時代であったと言えるでしょう。
一方サウルは,本来はサムエルがすべきことである、全焼のいけにえをささげてしまうとか(Tサム13:8‐9),アマレクとの戦いで聖絶すべきものをくすねたりしたため(Tサム15:9),神から見捨てられる、という頃、預言者サムエルはダビデに油を注ぎ,サウルに代わって王となることを宣言しました(Tサム16:1‐13)。といっても,多くの人々はダビデを理解しませんでした。あなたにもありますか。「私の気持ち、分かってもらえないなあー」と思うときが。でも主はダビデにいくつもの慰めを下さいました。まず立琴の弾き手として宮廷に召し抱えられました(Tサム16:14‐20)。その後サウル王の側近の兵士として「道具持ち」に出世しました(Tサム16:21)。その後、ダビデはイスラエル軍を罵倒する強敵ペリシテの巨人ゴリヤテを倒します(Tサム17章)。これは奇蹟でした。こうしてダビデはサウル軍の最高司令官にまでなって行きます(Tサム18:5)。どうかあなたも人生を顧みてみてください。いろいろな恵みを思い出すことができるでしょう。「そうだ、あのときも、大変だったなあー。でも助けていただいた!そうだった!」と。それは主からの慰め。
今の時代、人を慰めることのできる人が求められています。
あなたは讃美歌の312番をお好きですか。「いつくしみ深き友なるイエスは」です。作詞したのはアイルランド生まれのジョセフ・スクライブン。結婚式の前夜、婚約者が溺死しました。彼は悲しかった、でももっと悲しんだのは田舎にいる彼の母親。彼女を慰めようとこの詩を書きました。真に悲しみを知る人が人を慰めることができます。あなたには悲しみの経験があります。きっとおありでしょう。そういうあなたは神さまから期待されています。近くにいる人を慰めてほしいと。あなたにしかできないからと。さて、「主のしもべ」であるためには私たちはどのようであればいいのでしょうか。それは謙遜。真の謙遜は主の前で。こういう話があります。
「ある賢い農夫がいました。でも彼は神さまが自然界を支配しておられることに不満を感じていました。私だったらもっと上手に自然をコントロールできるのに」と思っていました。そこで神さまに訴えました。「私に管理させてください」。神さまは実に鷹揚で、「よろしい。やってみなさい」。こうして彼は畑を耕し、種を蒔き、太陽の光を調節し、雨を降らせました。なんと大変な量の収穫でした。彼は得意満面。しかし彼は驚きました。穂の中に実がなかったのです。そうです。彼は風を吹かすことを忘れていたのです。風を吹かせなければ花粉は飛んで行きません。 35節でダビデは主の謙遜を学んでいることが分かります。それは9節で表現されています。高いところにおられたお方が下に降りて来られた。イエスさまの、そしてそのことを計画なさった天の父なる神さまの態度です。謙遜の三つの要素は人々に恵み深いこと(25、26)、正しくあること、そして聖くあること(20)。
大正の初期に本間俊平が小菅の刑務所を訪問しました。千数百人の囚人を前に彼は口を開きませんでした。やがてざわめきが起きました。「どうした!?」。やっと口を開いた彼はこう言いました。「ごめんなさい。赦して。私はみなさんのために祈ったことがなかった……」。まもなくすすり泣く声が部屋を満たして行きました。多くの囚人たちが立ち直って行きました