360 幸せルール
●聖書箇所 [ペテロの手紙第一 2章13ー25節]
あるとき、シモン・ペテロが徹夜で漁をしましたが、まったくの不漁でした。翌日船(イエスさま流の講壇)にイエスさまをお迎えして、おそらく寝ぼけ眼で説教を聞いていました。イエスさまが言われました。「網を降ろして見なさい」。ペテロはどんな思いであったでしょう。彼には長年、お父さんの代からの経験があったはずです。プロの漁師としてのプライドがあったのではないでしょうか。とすれば葛藤があったでしょう。でも「おことばですから」と試してみました。すると、な、なんと、大漁ではありませんか(ルカ5:1ー11)。この話から少なくとも一つの教訓を得ることができるでしょう。
神さまこそがそのときの最高の方法を知っておられるということ。ペテロはこのようにして得て来た自分の経験を今や生かそうとしています。小アジア(今のトルコ共和国)に迫害の手が伸びていました。クリスチャンたちは元気をなくしかけていました。あなたにも似たようなことがありませんか。しばらく前まで喜んでいたのに、うつになってしまった。どうしたらいいのでしょうか。神さまが創作なさったルールがあります。それを幸せルールと名付けましょう。このルールがあなたに元気を回復させてくれます。
すべての人を敬う[17]
今あなたの目の前にいるすべての人を尊重すること。なあーんだ当たり前じゃないか、と思えるようなことでしょうが、この手紙が書かれた当時、ローマ帝国の支配下にいる人々には大きな驚きをもって受け止められたでしょう。属領を含めて1億人と言われる人口。その中で自由人(ローマ人)は2000万人、そして奴隷がその3倍の6000万人。奴隷にも種々あって、医者、家庭教師などインテリもいましたが、しかし全体としては人格を認めてもらえない悲しい存在でした。ある人はこう言います。「農具を、言葉を使えるモノ、使えないモノ、おしのモノというふうに3つに分類できる」。それぞれは順に奴隷、家畜、農機具を指します。アリストテレスはこう言います。「命のないものに対しては友情も公正もあり得ない。もちろん馬、牛、奴隷に関してもそうである。主人と奴隷には共通するものは何もない」偉大な?哲学者のイメージが崩れそうですね。奴隷には結婚することは認められませんでした。繁殖はあっても結婚はありえませんでした。こういう時代であるからこそペテロによるこの勧めのことばは非常に画期的、かつ革命的でした。もし私たちが他者を尊敬するなら、他者は私たちを尊敬してくれるでしょう。私たちがうつになるとき、それは他の人たちから軽く扱われるときでもあります。もし敬うなら、敬ってもらえます。敬われることくらい気持ちの良いことはないではありませんか。神さまがまずあなたを尊重してくださっていることを覚えてください。あなたには罪があります。汚れがあります。でもあなたをそのまま、ありのまま受け入れてくださいました。十字架であなたの罪と汚れを焼却処分してくださり、あなたの存在の貴重さをその代価で証明してくださいました。あなたは天下の、いや天のお父さまから熱く尊重されています。それを知ってください。あなたの中に熱いものが感じられるでしょう。
神を畏怖する[17]
恐れる、だけだと恐怖心と誤解されそうです。あなたには信頼できる、優しい、愛のある、しかも権威と力のある尊敬できる人をお持ちではないでしょうか。もしそうなら、あなたはそのような人の前で畏怖する気持ちをすでに経験されているはずです。そうです、そのような気持ちです。あなたは神さまに対してはこのような畏怖心をどの程度お持ちでしょうか。日曜礼拝するときには、どのような思いでしていらっしゃるのでしょうか。この世界で最高のお方にお会いしているという意識でしょうか。申命記6章24節にはこのようなことばがあります。
主は、私たちがこのすべてのおきてを行ない、私たちの神、主を恐れるように命じられた。それは、今日のように、いつまでも私たちがしあわせであり、生き残るためである。
主を畏怖するとは実際にはどのようなことでしょうか。たとえばもしあなたが被害者の立場に立ったときに、仕返しをしたら、主を畏怖してはいませんね。仕返しは主のなさることで人間のすべきことではありません(ローマ12:19)。もしあなたが復讐をしたならば、その程度は、結局軽いもので終わるかも知れません。その程度自体も神さまの主権の範囲にあります。父なる神さまはあなたのために大切な御子を提供してくださいました。あなたはご自分の大切なものを他者に提供することができるでしょうか。あなたが受けるべき罰、さばき、そして詛いを御子に負わせなさいました。主ご自身をそれを見つめておられました。それはご自身の願われたことでした。なんという愛の大きさ、深さ、熱さでしょうか。あなたはこのようなお方を畏怖なさることになんの躊躇もお感じにはならないでしょう。このときあなたはあなたの中に燃えあがる何かを感じるのではないでしょうか。
神に自分をささげる[20-21]
当時はローマ帝国の時代です。いまでも国の首長が絶対君主、つまり神のような立場に自らを置いている為政者がいます。そのような時代に人々はいつもびくびくしていました。しかもペテロはこのような人たちも含めて、「従いなさい」と言います。なんと無謀な命令でしょうか。親、先生、上司など、私たちが尊敬したり、従ったりするのに困難を覚える対象はたくさんあるからです。私たちはこう考えます。「もし私が判断して尊敬に値する相手ならば従う」。こういうふうに考えないと自分の心を納得させることができないからです。大きな葛藤があります。しかし今お話したいことはさらにその上の指導者に対することです。つまり神さまに対してです。神さまにささげなさい、とお話したいのです。キリストはその模範です。人はどう生きたらいいのかの模範です。ささげて生きるのがいいのです。ではささげるとはどういうことでしょうか。それは本来の与えられた目的のために生きること。神さまはあなたをお造りになったときに併せて目的も用意されました。飛行機は空を飛んで人や荷物を運ぶために造られました。あなたは何のために造られたのですか。キリストは何のために地上に生を受けられましたか。あがないをするためです。決してゲームをするために来られたのではありません。あなたは?
私は2008年現在、ほとんど唯一の専従有給牧師として10つの教会を一人で経営しています。もちろん多くの人に助けていただいて。私は最近分かって来ましたが、私の賜物は、組織し経営すること、かなあーと。これが勝利教会の発展のために多少とも用いられています。あなたの持っている賜物を中心にあなたの与えられている目的を探ってください。あなたは本来の自分を見い出し、心に喜びが沸き上がるのに気がつかれるでしょう。私たちには変身願望があります。でも別の人間に変わろうとするから疲れます。不可能なことであるから。アブラハム・マズロー*の言うところに従えば自己実現をすればいいのです。つまり本来の自分になればいいのです。
「一瞬でも違う自分になりたかったの?」という弁護人の質問に、三十六歳の元会社員は「そうです」と知りえた実在する検事になりすまして名刺を勝手に作って配り、……「理想の自分」を演じ続けた(『読売新聞』2000.5.19日号)という記事は私たち人間の弱さと見当違いの性行を示しています。本来の自分になればいいのです。あなたは偉大な神さまに作られた立派な作品です。最後にマザー・テレサのことばを贈ります。「もともと人間はささげようとやまないものです。ですからささげるものを見つけたら、人は不幸になろうとしても、幸福にならざるをえないものなのです。
*自己実現
個人のなかに存在するあらゆる可能性を自律的に実現し,本来の自分自身に向かうことをさす。……マズロー(Maslow, A. H.1971)の自己実現は,自らの内にある可能性を実現して自分の使命を達成し,人格内の一致・統合をめざすことをさす。健康な人間は,成長欲求により自己実現に向かうように動機づけられている。この成長欲求は欠乏欲求が満たされてはじめて現れる。欠乏欲求とは,生命維持のための生理的欲求や安全,所属,愛情などの社会的欲求で,一般に他者によって実現されるものである。すなわち自己実現過程は,生理的欲求や社会的欲求の満足なしには生起しないのである。彼は自己実現している人の特徴として,行動や思考に際して自己内の自律的論理基準に従う,自他に内在する特質をそのまま受け入れ他者に寛大である,などをあげている。
欲求階層説
マズロー(Maslow, A. H.1943)は,人間は自己実現に向かって絶えず成長していく生きものであるとの人間観に立ち,人間の欲求を低次から高次の順序で分類し,……欲求の階層を提唱した。
このピラミッド型の階層の基底(第一)層には生理的欲求があり,これが満たされると安全と安定を求める欲求が生じ,これも充足されると次の第三層へと進んでいく。マズローは,第一層から第四層までを欠乏欲求と名づけ,上位の欲求は下位の欲求がたとえ部分的にせよ満たされてはじめて発生すると考えた。欠乏欲求がすべて充足されると最高(第五)層にある高次欲求,すなわち自己実現欲求が生じる。自己実現欲求は自己成長や創造活動と関連した最も人間らしい欲求である。……(『心理学事典』岩波書店)