361 御霊の人であるなら
●聖書箇所 [ガラテヤ人への手紙6章1ー18節]
御霊っていうことば、特に夏になると聞く事が多いですね。日本の文化で死者を意味しています。しかし今回学びますのは、これとは関係ありません。第三位格の神さまです。あなたがイエス・キリストを信じると同時にあなたの中に住んでおられるお方です。と言ってもこれを説明するのは非常に難しいですね。神さまについての説明ですから難しいばかりか不可能なのはもちろんと言えますが、それでも私たちは知りたい。そこで良い、一つの方法は働きによって知るというものがあります。たとえば口に手を当ててみましょう。2ー3分もすれば苦しくて苦しくてたまりません。空気が私たちを生かしていることはすぐに理解できるでしょう。今回は三つのキーワードで働きに焦点を当てながら御霊の人について学びましょう。ところで御霊の人ってどんな人なのでしょうか。彼(彼女)には生活において調和があります。バランスがとれています。多くの人が彼(彼女)の周囲に集まって来ます。蟻がどのようにしてかは分かりませんが、砂糖を見つけだしては集まって来るように。彼(彼女)は人気があるのです。そして彼(彼女)は何の悩みもなく生きているようです。実はこれは誤解です。悩みがないように見えるのです。問題がないように見えるのです。なぜ?悩みや問題の解決の達人であるから。ちなみに御霊の人の反対は?肉の人です。さあ、御霊の人について学んで参りましょう。
柔和な心[1]
柔和には三つの意味があります。
1)神さまのお考えに従っている。
親子関係を考えてみましょう。子どもが強情でちっとも親の言う事を聞かない場合に彼の未来には心配が残りますね。子どもは親の助言に素直になるべきです。なぜなら親の方が人生経験も豊富であるから。しかも愛をもってのそれであるから。御霊の人は罪を持ち、有限性を認識している人間としての自分の弱さを知り、ゆえに神さまのお考えに従います。
2)教育可能。
教えられやすさです。どんなに立派な人でも間違いはあるものです。常に自分が誤り得ることを念頭に置いているいる人は、柔軟性のある人と言えます。これを教えられやすい、と言います。
3)思いやりがある。
人の気持ちを理解できること。
さあ、これで御霊の人のイメージが浮かんで来たのではないでしょうか。すばらしく魅力的な人ではありませんか。逆にさばく人のことを考えてみましょう。さばく時、人は冷静ではいられません。
一人の男性がスーパーの駐車場に車を駐めました。出口がスーパーへの入口につながっています。彼は憤りを感じました。なぜならその出口兼入口のどまん中に一台の車が駐めてあったからです。「なんて非常識な者がいるんだ!「ひとつ、常識というものを教えてやろう!」と憤りつつ、雪をかき分け回り道をしてスーパーの入口に近付きました。なんとそこから一人の女性が出て来ました。松葉づえをついて、とても歩きにくそうでした。彼は恥ずかしい思いで心の中はいっぱいになり、どこかに隠れたくなりました。でも彼は反省ができる人でした。良い人です。さばいているとき、私たちは自分がどのような状況にあるのか、あるいはどのような心理にいるのか、客観的には把握できないのです。これは御霊の人と対極にあると言えるでしょう。もし私たちが御霊の人であるなら、人を「正しい道」(1)へ導くことができるでしょう。あなたの周囲にあなたが正しい道へと導いてあげたい人がいるのではありませんか。ではどのようにしたら私たちは御霊の人になれるのでしょうか。それは御霊の、そうです。聖霊さまの人格的な影響を最大限受けることです。これにはコツがあります。受け身になること。私たちは祈りますし、大いにしゃべります。でもときにただひたすら聞くことも大切です。ちょうど暑い一日の夕方に気持ちの良いそよ風に吹かれるように。人格は影響を与えあうものです。聖霊さまのすばらしいご人格の影響を目一杯受けましょう。
重荷[2、5]
重荷には二種類あります。
1)バロス(2節ギリシア語)と言い、日常生活における葛藤です。
たとえば、私はあの人を赦すことができない、とか。 神様を受け入れても、父親への僧しみは消えなかった。「もう二度と会うまい」、そう決心して山中さんは、渡米した。十六歳。しかし、神様の命令に従い、赦そうと思った。手と指をふるわせ、脂汗をかきながら「赦します」と手紙をつづった、が書いては破りを二年間繰り返す。ただ、神さまのために手紙を送った。しかし、返事は「帰ってくるな」。その後、高校を卒業し帰国した。真っ先に、父親に土下座した。腹の中で「このやろう」とおもい、悔しくて涙がでてきた。しかしそれが「おれなりの神様への仁義」だった。それでも状況は変わらなかった。あいかわらずの父親の態度に、「ブチ切れ」、殴り殴られ警察ざたにまでなった。「神様もインチキじゃないか」 信仰が揺らいだ。「神様はいるんだろうか?いるのならならなぜこんな悪がはびこっているのか。(『クリスチャン新聞』2000.8.27.続きは下の*)あなたにも「あの人については、私には絶対に赦せない」という思いがありますか?
2)フォルティオン(5節)。
これは使命あるいは義務です。あなたの使命は何ですか。私は牧師ですが、牧師もさまざまです。私は連日小さな集会をこまめに巡回しています。領域は広い(静岡ー新潟ー関東ー東北)のですが、楽しいものです。地味な働きと思います。世界にはスターのような牧師もいます。ビリー・グラハムとか、チョー・ヨンギとか。でも私は比較しません。私は私。彼らは彼ら。私は自分の与えられた重荷・分を喜んでいます。そうしているときに、「御霊のために蒔いている」(8)と言えますし、それなりの収穫の権利が得られます。あなたも自分に与えられた分を楽しんでください。ある人たちはこう言います。「なぜ私には小さな分しか与えられていないの?」と。私は問いたい。なぜ、小さいと思うのですか?なぜ、少ないと思うのですか?だれも小さいとか少ないとか、言ってないのです。ただあなたがそう言っているだけです。神さまはあなたに良い事をしてくださる方です。このように受け入れると御霊の蒔きものをしているのですから、魂の奥底から喜びが湧きあがるはずですよ。
感謝してください。ぶつぶつ言わないで。どうしたら感謝できるのでしょうか。「私には価値がある」と信じることです。これは心の問題です。15節には割礼のことが記されています。大切なのは形はなく、心の中がどうなのか、です。バプテスマだってそうです。形だけ受けても中身が伴わなければ意味のないものです。心の中が変えられること。「私には価値がある」と信じる心を持ったときに、あなたは新しく創造された(15)と言うのです。イエス・キリストは価値のない者のために命を落とされたのでしょうか。万が一にもそういうことがあるとするなら。彼は犬死にではありませんか。
星野富広さんは中学校の先生をしていたときに首の骨を折りました。9年間の闘病生活で何を悩んだのでしょう。それは「私には価値がない」という思いとの戦い。自分からは何にもできない、ただじっとしているだけの毎日。そのように思わない方が普通かも知れません。しかし彼はあるとき、「きれいな花だなあー」と感動し、かつ感動できる心があることに気がつきます。心が前向きになったときに人は生きはじめます。「私には価値がある」と素直に受け入れてください。あなたは思わず、ほほえむでしょう。それは御霊の人の顔に特有のものです。
善[9]
できるだけ良い事をしましょう。これも御霊のために蒔くことです(9)。と言っても、だいそれたことを求めているわけではありません。もし教会においてならば、気がついた時にゴミを拾う。スリッパを並べる、などなど。小さなことで十分です。日常生活から喜びは消える事はありません。というのは与えることだから。「くれ!くれ!」ばかり言っていると喜びはあったとしてもすぐに消えていってしまいます。与えると、そのときに一回、そして与える者は受けるのでもう一回の喜びがあります。
介護保険制度がスタートしています。ヘルパーさんたちが主役でもあります。アンケート調査をしました。「なぜ、ヘルパーさんをしているのですか。なんと80%が「感謝されるから」でした。食事の介護や身体の介護とともに心と心のふれあいがあります。真の介護とはこのようなものでしょう。選ばれた意識を持ってください。主にあなたは選ばれたのです。選ばれた者だけが十字架を信じることができるのです。だから私たちは十字架を誇ります(14)。あなたの心にパウロのように十字架の焼き印(17)があるでしょう。でも時々私たちは焼き印を忘れるのですね。そのような時、私たちはまるで肉の人のようです。疲れたときなどにそのようなことが起きがちです。でも心配しないでください、たとえどんなに暗い心あるいは環境のときにも。ちょっとだけ休憩を取ってください。そして十字架の焼き印を思い出すのです。不思議です。あなたの中に住んでいいらっしゃる聖霊さまが働き始めなさるのです。アムンゼンをご存知でしょう。世界で始めて南極や北極を探検した人です。彼よりも前にジョン・フランクリンという人が極地に出かけたときに、マッチがなくなりました。仲間が落ち込んでしまったときに、彼は閃いたのです。「みなさん、私は一面氷の世界から火を起こして見せましょう。どのようにしたと思います?彼は氷を削り出してレンズを作ったのです。後はお分かりですね。「あっ、火が着いた火が着いた!」。歓声があがりました。 どんな場合にも希望はあります。疲れた時にもちょっとだけ休んで十字架を思い起こすのです。あなたの中で御霊がエネルギーを発するのです。あなたにはそれが分かるのです。
*でも、いるのだったら、信じ仕えていきたい」。最後の決着のため旅に出た。又長崎の原爆記念館で、間いへの答えを見いだす。自分を含めて人間の罪を知った。「こんな人間のためにひとり子を送ったのだったら、神は愛だと思った」バプテスマを受け、ジャーナリズムを学ぷために再びアメリカに渡る。その三ヶ月後「リアル」に天国を知る経験をした。「見て聞いたものを伝えずにはいられない。今までの学びをキャンセルしてバイブルカレッジで学んだ。その学びのなかで癒しを経験する。カウンセリングの授業で、さかのぼれるまでの家系図をつくる課題があった。そこで、父親が育った環境を知り、加害者であると思っていた父親も「にっちもさっちもいかない罪の」被害者であると認識した。「親父もこうなりたくてなったわけではない。かわいそうだと思った」大学四年生の時に帰国し、父親に再会。今度は父親の立場に立って考えるようになっていた。