363 必要なことはわずかです
 ●聖書箇所 [ルカの福音書10章17ー24節]

 一世を風靡した柳家金語楼の作品です。題は『ラーメン屋』。
 
 40年連れ添った老夫婦。子どもがいないことだけが寂しいのです。ある晩、一人の青年がラーメンを三杯食べてから、「交番に突き出してくれ!」って叫びます。親のいない孤児で、職を転々とし、いいかげん真面目に生きるのがいやになったと言うのです。「万事、金だよ!お金がないから無銭飲食をするんだよ!」とおばあさん。おじいさんは何を思ったか、自宅に連れてきて酒を振る舞いながら言います。「年寄りには金があっても使い道がねえー。おい、ばあさん、有り金全部袋に入れちまいな!持ちやすいようにな」。「おいおい、おれを泥棒にしようってのかい」と慌てて叫びます。「それじゃあー、どうだろう。妙な頼みだが、『おとっつあん!』と呼んでくれないか。百円だそう。子どもがいないから、一度もそう呼ばれたことがない。あんたも親がいないそうだから、初めて同士でどうだろう」そばで聞いていたおばあさんが言います。「あたしゃあー、もっと甘ったれた声で『おっかさん』って呼んでもらいたい。万事金の世の中。わたしゃあー、二百円出すよ。いいかい。頼むよ。『あいよ』って答えるよ」 こうして、青年と老夫婦は目をつぶりながら「おとっつあん!」「おっかさん」「あいよ」って声を掛け合います。「いいねえー、どうだろう。今度は五百円だ。その代わり名前を呼ばせてもらうよ。そうだ。『おとっつあん、おれがいるじゃあねえか仕事なんかやめちまいなおれがやるからさあー』っていってもらいてえ」「わたしもだよ。千円だすよ。叱らせておくれよ。『こら、やすお。こんなに遅くまでどこをほっつき歩いていたんだい。心配するじゃあーないか。おっかさんの気持ちも分かっておくれ』って。ついに青年はお金を突き返し、「こんなもん、いらねえ。お願いだ。おれを『せがれ』って呼んでくれないか」と叫びます。こうして涙と笑いの中で落語は終わります。
 あなたはこのお話からどんな印象ををお受けになったでしょうか。「私たちは生活する上で多くの必要を覚えるが、本当に必要なものは実際のところ、多くはない、わずかかなあー」とはお感じにはならなかったでしょうか。今回学びます10章の結論は42節です。そうしてそこに至るまでに三つの出来事が記されています。そのトップバッターが今回の箇所です。イエス・キリストはここで真に必要なことはわずか、とおっしゃっています。それは何なのかご一緒に学びましょう。

天地の造り主なる神さまの前に謙虚であること

 謙虚であることは多くの人に感動を与えるものです。

 題名:主と共にありて(加納裕幸) 
 ポクは身体に障害を持っています。時として心がしずむ時があります。そんな時にいつも、手を合わせて祈ります。神様はポクの心の中でいつもあたたかいお心で、いつもやさしく包んで下さるのです。……ボクはこん光景見たことがあります。それは広いきれいなところでした。イェスさまがボクに近づいてきて、こんなみことばをボクに話してくれたのです。
 「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべてのことに感謝しなさい。」
 このみことばをボクは、イエスさまよりいただいたのです。ボクは、イエスさまの光り輝いた、美しいお顔を見たのであります。ボクは心から感謝だと思いました。そしてボクは、夢からさめた時に、心の中に暖かさをつくづく感じたのです。すばらしい夢を、祈りの中から見ることができたのです。神さまは、たとえ障害のある者にも健康な者にも、公平な目でいつも見つめてくれているのです。ポクの父は主であり、いつもみことばに従った信仰生活を守りたく、電日毎日の生活の中で努カをしています。ボクは今までに多くの試練に会いました。しかし、主との出会いによってどれだけ強められたか。数多くあります。神さまから祝福に満ちた愛によって、ボクは神さまによって生かされていることに、心から感謝をしているのです。ボクは神さまから、すばらしい愛のメッセージをいつもいただいているのです。人にはいつくしみの心を持って接して行くべきとの、神さまからのおことばです。いつくしみこそ、今の世の中になければならないことばではないかと思うのです。

 謙虚さの伝わってくるあかしではありませんか。17節では喜び勇んで帰って来た弟子たちの様子が記されています。しかしイエス・キリストに一つの心配があるのです。この成功によって彼らが高慢にならないか。サタンはこの高慢になって天から落とされてしまいました。高慢は滅びに先立つのです。イエス・キリストが未熟な弟子たちが悪霊たちの策略に負けないように騙されないようにと願っています。必要以上に服従して弟子たちを有頂天にすることが考えられたからです。高慢な人は悪習慣の奴隷にされます。地獄に行かなければなりません。彼らの性格は一人でも多くの仲間を増やそうというものです。仲間づくりに熱心です。群れの法則があります。似たもの同士は集まるのです。否定的な者は否定的な者と集まりますし、肯定的な者は肯定的な者と集まります。あなたはどちらでしょうか。もし自分を愛するなら自分を高めてくれる人々の世界に自分を常に置くようにすべきです。謙虚な人々の中にい、そして自らを謙虚な者に育てて行くべきです。
 どうしたらいいでしょうか。初心忘れず、です。20節に注目してください。喜びの根拠を何に置くか、これが重要です。すなわち「天に(あなたの)名が記されている」ことにこそ喜びの源泉がなければいけないのです。イエス・キリストを救い主と信じることができたのは、すなわち神の子とされたことはすべてに勝る価値なのです。これを忘れないようにしましょう。

シンプルライフ

 先に述べたことを素直に受け入れる、心底から受け入れることのできる人はどのような種類の人でしょうか。21節に解答があります。すなわち幼子。

 かみさま。わたしのいぬ リトルレッドを元気にしてください。リトルレッドはびょうきです。でもおいのりできません。だって いぬなんだもん。あいする かみさまへ。マーシャ(女 8さい)

 かみさま。べんきょう てつだってください。かきとりと たしざんと れきしと それから さくぶんです。ほかのことはぜんぜん てつだってくれなくて だいじょうぶです。あいする かみさまへ。ロイス(女 9さい)

 かみさま。おばあちゃんのために おいのりしています。おばあちゃんは とてもとしよりで びょうきです。おばあちゃんがはやく げんきになって ぼくと おかあさんのつぎに だいすきな テレビのメロドラマを また みられるようにしてあげてください。 かみさまへ。ピーター(男 8さい)

 かみさま。おかあさんをスマートにしてあげてください。おかあさんはダイエットちゅうで いっしょうけんめいがんばっているけど、ときどきチョコレートケーキや アイスクリームをたべてしまいます。だから かみさまが たすけてあげてください。おかあさんは じぶんで おねがいするつもりだけど きっときまりがわるいのです。あいする かみさまへ。ステファニー(女 8さい)

 なんてすなおで真直ぐなのでしょう。それに比べて、と言っても良いでしょうか。私たち大人はすれているのです。「確かにその通り!でも世の中はそんなに甘くはない……」複雑な信仰がいつのまにか身についてしまっているのではないでしょうか。複雑だから一度落ち込むともう一度元気になるのが大変。難しい!人間なら落ち込むことはあります。そういうものです。でももう一度元気になりやすい人間であるか、そうでないかは私たちの選択です。シンプルライフをお勧めします。それは二つの基準で生きるものです。
 1)神さまが願っていらっしゃることであること。
 2)自分にできることであること。
 私は現在9つの教会の責任を持っています。他にも責任があります。「大変ですねえー」とよく言われます。しかしそれほど大変ではありません。なぜ?シンプルライフだから。1)と2)とを当てはめて判断します。私にできないことはしません。そうしてそのようにはっきりと関係者に言います。私ができないのは時がまだ来ていないのか、他の人がすべきことなのか、どちらかです。イエス・キリストは父なる神さまから人々のあがないのために死んでほしいと言われました。イエス・キリストはそれが可能だと判断なさったのでその通り実行されました。こうして今日まで多くの人が恵みに与っています。イエス・キリストご自身も高く上げられました(ピリピ2:9)。
 どのようにしたらシンプルライフを自分のものにできるでしょうか。それにはイエス・キリストを深く尊敬することです。一瞥するのではなく、「じっくりと見る」ことです。尊敬は英語でresupect。語源はラテン語でrespectus。これは二つの部分で構成されています。re+supectus。前者は「もう一度」、後者は「見る」。もう一度とはじっくり見ることです。どうかイエス・キリストをじっくりと見て下さい。ありのまま。並の人間にはないすばらしい人格の輝きがあなたに移って来ることは間違いがありません。霊の交流がそこにはあります。あなたの中にイエス・キリストのいのちが生きます。こうしてシンプルライフはあなたのものです。

いつも喜んでいること

 23節以降は、やがて私たちの世界にやって来ると旧約時代の人々が期待していた救い主に関することです。救い主は父なる神さまとともに聖霊さまを私たちに送られます。人々は聖霊さまのお力を知っていましたから、大きな期待を抱いていました。旧約時代は聖霊さまは限られた所で、限られた人々に、限られた状況の中でのみ活動されました。しかし新約時代は違うのです(ヨエル2:28-29→使徒1:8)。そのような神さまの約束が人々に希望を与えていました。ゆえに聖霊さまは常に私たちの喜びの泉の場所です。具体的には二つだけお話しましょう。一つはあなたに夢と目標を明確に示してくれます。
 小原国芳は玉川学園の創立者です。京都大学の学生であったときに、すでに現在のすばらしい校舎群を見せられていました。彼はそれをスケッチし、その通りに学校や礼拝堂は完成して行きました。二つ目は霊の家族を認識させてくれます。私たちは肉の家族を持っています。お父さんがいて、お母さんがいて、という普通に考える種類のものです。しかし私たちは霊的な存在であって、霊の家族も持っています。いなければいけないのです。私たちは一人で生きるようにはできていませんから。

 「孤独な生活は血圧を高くし、睡眠を妨げて健康を害する」と最近の新聞(『日本経済新聞』2000,8,8)が大学の研究チームの報告を載せていました。霊の家族をキリスト教会と言います。「ここが私のいるべき場所なんだ!私がここにいることをみんなが喜んでいてくれる!」と認識できるのは聖霊さまのわざです。なんとうれしい認識でしょう。このような聖霊さまからの喜びに満たされるためには選ばれたことへの感謝を忘れないことです。21節はこのことを教えています。私は結婚式で新郎に心構えとしてこう言います。「世にたくさんの男性がいる中でよくぞ私を選んでくださった」、そして新婦にも同様です。「世にたくさんの女性がいる中でよくぞ私を選んでくださった」。このように考えなさいと勧めているのです。間違っても「私が選んでやった」と言ってはいけません。それは高慢です。そこに真の喜びはありません。選ばれたことをすなおに感謝している、そこに喜びは尽きません。