368 魅力的な霊の世界

 ●聖書箇所 [テサロニケ人への手紙第一 1章4ー10節]

 霊の世界についてお話しましょう。「霊の世界ですか?」って、声が聞こえそうです。「レイの世界」と言ってもゼロの世界ではありません。ではどんな世界?それは、新しい、良いものを生み出す世界。創世記1章のはじめの部分を見てください。

 初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく(トーフー)、何もなかった(ボーフー)。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
 トーフーでボーフーとは面白いですね。暴風に会った豆腐を思い浮かべてください。めちゃくちゃですねえ。これが世界のはじめの姿です。これに秩序やら美しさやらを与え、すばらしく組み立てて行ったのが神さまのわざ!これが霊の世界です。どんな良いものを生み出してくださるのか、あなたに、そしてあなたの周辺に。これを学びましょう。

すぐれたサンプル

 これは模範のことです[7]が、私たちにとって励みになるありがいものでしょう。つい私たちはことばで、口で、口角泡を飛ばして説明したいものです。でも反対の立場、すなわち説明を受ける立場になればすぐに分かるはずです。いくら長時間効能を説明されても、いまいち、っていう感じですね。でもサンプルを示され、使ってみたところ満足できたとするなら、どうでしょうか。食器用の洗剤のテレビコマーシャルにそんなものがあるではありませんか。そうです。

 「そう、あんな人みたいになりたーいッ!」
 「いいなあ、あの人!」
 「わたしも、ああいうことしてみたいッ!」

 パウロは5節と6節で「ふるまう」や「ならう」という表現を使用しています。またピリピ人への手紙3章17節もご覧下さい。  

 兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。」

 私たちも人々からあこがれるような者になりたいものですね。そのためにもサンプルが私たちには必要です。あこがれる者に近付くためにも、あなたがあこがれの対象になるためにも。そのために神の霊は、すなわち聖霊は私たちに罪を認識させます。つまり故障箇所を指摘し気づかせててくれるのです。

 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。(ヨハネの福音書16:8)

 神の霊は私たちをすなおにさせて、「そう、確かに私の中には罪があるーーー」と認めさせます。決して他者から説得されるようなものではありません。そして「私はこんなこと(悪習慣など)をしていてはだめだ」と自分を大事にしようという思いにさせられます。罪の持っている性質があります。

 1)自分が何をしているかが分からない。
 イエス・キリストは十字架の上でこう叫ばれました。イエスはこう言われた。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23:34)

 私は先日、薬中毒になった人々のドキュメンタリーを見ていましたが、薬にはまって行く途中、彼らにはそのことの重大性への認識が欠けているとことが私には分かりました。彼らは「この程度なら問題はないだろう」と思いつつ、どんどん深みに入り込んで行くのです。結果はみじめで廃人になるばかりです。

 2)自分がどこにいるのかが分からない。

 神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」(創世記3:9)

 あなたは今、どこにいますか?もちろん国勢調査ではありません。住所を尋ねているわけではありません。私たちは神のもとで生まれ、すなわち出発し、やがて神のもとに帰ります。現在は旅行中です。罪とは自分の現在地が不明になったことを言います。いったいどの方向を向いているのか、この先右折したらいいのか、左折したらいいのか、分からない、というものです。でも聖霊が教えてくださるから私たちは自分をーそれは心構えであったり、進むべき方向であったり、休むべき時刻や場所であったりしますがー変えることができます。サンプルになる道はこうして整えられます。聖霊は私たちを事実に直面させます。私たちは決して事実から目を背けてはいけません。
 イソップ童話にすっぱいぶどうを獲得することに失敗したきつねの話があります。彼はこう言います。「あのぶどうはどうせすっぱいんだ!」。これを心理学では合理化(防衛機制の一つ)と呼びます。自分を守るために人間に備わっているものです。必要なものではあるけれども、いつもいつも合理化していては事実と直面しない人間になってしまいます。私たちには事実を見つめる勇気が必要です。聖霊はあなたにそれを与えてくれます。

強い確信

 高慢とは自分が神になることです。したがって他の人を見下します。なぜなら自分は神であり、他の人よりも一段高い所にいるから。でも事実は同じ人間でしかありません。こうして高慢な人は比較の世界で生きます。「あの人はなぜ私のものよりも良いものを持っているのだろう?」。劣等感を持ち、それを補償するために優越感に浸ります。情緒的にはいつも不安定です。正しく、強い確信を持った者はこのような不安定さとは無関係です。これは夢を実現させてくれる力を持っているからです。強い確信を信仰と呼びます。強い確信を持つ者は物事を次々に成功させて行きます。どうか、あなたも「私は良い夫になりうる」「私は良い妻になりうる」「私は良い職業人になりうる」「私は良いクリスチャンになりうる」と告白してください。

 イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。(マタイの福音書9:22)

 どのようにしたら私たちは強い確信を持つことができるでしょうか。それは質の高い礼拝をささげて行くことです。それは心をいやす礼拝です。私たち人間は大なり小なり心に傷を持っています。これが人生を生きて行く上で何かにつけ私たちを弱気にさせます。私はもともと否定的な人間でした。何をしても三日坊主。クリスチャンになった時も三日もつかなあと心配したものでした。三日過ぎてもその心配はなくなりませんでした。次は他の人たちと同じように立派なクリスチャンになれるだろうかと悩みました。イエス・キリストを伝えたい、でも私の説明で理解してもらえるだろうかと、これまた心配でした。ある日東北地方のスキー場に出かけました。そこで一人の青年に会いました。ちょうど年格好同じくらいで、学生でした。意気投合し、私ははじめてイエスさまについて話しました。なんと彼は信じたのです。私が勧めたからなのですが、私は驚いてしまいました。ほんとうに信じたのだろうかと信じられませんでした。でも本当でした。こうして少しずつ自信を深めていったのですが、振り返ってみると、礼拝の力が私に味方したなあと思うのです。心やすらぐ礼拝、神の愛を感じさせてくれる礼拝、その中にいると顔がほころんで来る礼拝。これが私たちの信仰、強い確信をはぐくんでくれます。この手紙を書いたパウロは明らかに劣等感の強い人間でした。この劣等感が異常なほどのクリスチャンへの迫害を彼をしてさせました。でも彼はイエスさまの光に当てられ、すっかり変えられてしまいます。真の礼拝は人間を変えます。人間の中身を変えます。人間を新しくするのです。これは霊の働き以外のなにものでもありません。

ゆるがない喜び

 これも魅力ですね。たとえ困難があっても(6)ゆるがないのが真の喜びです。海の表面は大きな台風でも底は静かだそうです。荒れるのは海の表面だけ。ゆるがない喜びがあればどんな困難でも苦難でも、落ち着いた生活が出来ます。これも霊の作り出すものです。 コカ・コーラの社長は「私の中はコカ・コーラの血が流れている」と言ったそうですが、「私の中には神の霊が満ちている」と言いたいものです。霊の力は苦難の中でこそ大いに発揮されます。
 アーノルド・トインビーは「挑戦と応答の相互作用」と称して、文明の浮き沈みに関して一つの原理があると説きました。それはある文明が危機に直面し、それを克服するとさらに数段上の文明を作り出すというものです。例としてペルシア帝国の攻撃に耐えたギリシア文明、スペインの無敵艦隊を撃ち破ったイギリスのその後。この説明にそえば、わが日本もそうでしょう。イギリスとフランスの植民地になりそうな幕末の頃、若い指導者たちは国難に耐えて、強大な国を作り上げました。いつの時代も本物は自らを証明するのでしょう。ことばでくどくど説明を繰り返す必要のないものなのでしょう。

 息子を交通事故で亡くした父親のもとを訪ねた牧師がいました。それを紹介した書物の中の一部分を紹介しましょう。

 その牧師は家に入ってきても一言も発せず、ただ椅子に座ったままでうつむいている。なにか祈りをしているようでもあった。父親もまた悲しみにくれているだけであった。「牧師さんがわが家に滞在されたのは短い時間でしたが、それがずいぶん長時間だったような感じがしました。ゆっくりと椅子から立ち上がった牧師さんは、私を抱き締めました。そのとき、私のほほは、その方の涙で濡れました。牧師さんは、重い足を引きずるようにして玄関のほうに向かって歩いて行かれました。帰りぎわにまた両手で私の手を握りしめ、無言のまま立ち去られました。私は、あの牧師さんがどんなにすばらしい人か、よくわかりました。心から信頼できる方だと思いました。あの方は、言葉でどんなに慰めを与えても、痛手を受けている私の心には響かないと知っておられたのです。あの方にとっては、言葉は不要だったのです。相手の悲しみに共感する心が言葉を介することなく、悲しんでいる相手の心に直接語ったのだと思います」(E.A.グロルマン編著、松田敬一訳の『愛する人を亡くした時』)

 慰めにとどまらず、本物は、そして本物の喜びは人間の力やことばでは作れません。そのエネルギーはどこから来るのでしょうか。汲めど尽きない泉のように湧くエネルギーが必要です。これは聖霊のみから来るのです。ではどこでこの聖霊と出会うのでしょうか。それは十字架。十字架であなたはイエスさまを見上げます。そして告白します。「自分を義としない」。これはどういう意味でしょうか。二つの意味があります。?「いつも私は正しい」とはしないこと。?「私にとって良い事は常に他の人にとっても良い事だ」とはしないこと。私たちは罪人です。この二つを十字架を見上げるたびに思い起こし、私たちは聖霊と交流します。こういう表現があります。「善いことの中にこそ悪魔は毒を注ごうとする」。しかし「自分を義としない」者悪魔には負けません。はあなたの中に聖霊が自由に働いて次々に良いものを生み出してくれますように。