369 一番の財産
聖書箇所 [サムエル記第一24章3ー7節]
一番の財産という題名でお話したいことは何であると、あなたはお思いでしょうか。イエスさまを心に受け入れますと、永遠のいのちが与えられます。このいのちは天国で生きるためにどうしても必要なものです。そこでイエスさまが十字架の上でご自身の大切な血であがないとってくださいました。ところで天国で使うものだから、現在はただ保持しているだけなのでしょうか。そうではありません。現在も使えますし、また使わなければなりません。さらには日々磨いていかなければならないものです。
では永遠のいのちとともに生きている、とはどういった意味なのでしょうか。永遠のいのちとは人の質のことです。永遠のいのちをもって生きているということは、人々から尊敬され、神さまから期待され、かつ信頼されて生きていることを意味します。今回は多くの人に愛されているダビデを例に永遠のいのちをどのようにしたら磨くことができるかをテーマに学びましょう。
神を愛する
これにはどのような意味があるのでしょうか。これは形而上学の世界であって、その中でも最高峰です。形而上学とは目に見えない世界を追求する学です。形而下学は目に見えるものにきゅうきゅうするものです。我利我利亡者のことです。決して美しい姿ではありません、物や金銭に心が奪われている姿です。神を愛するとは形而上学の世界の最高峰を歩むものです。神を愛するテストを受けた、ダビデの身近にいた人と言えば、先代のイスラエル王であるサウルです。宿敵のペリシテ人の大軍勢が目の前に迫っていました。彼自身も国民全体も完全に浮き足立っていました。預言者サムエルの到着が遅いと感じたサウルのいらいらはつのるばかりです。
ところで聖戦にはやり方がありました。はじめに神さまにお伺いを立てなければなりません。「これは戦って良いものなのでしょうか?」と。もし神さまが「戦え!」とおっしゃったら、安心してイスラエル人は戦うことができました。なぜなら負けることがないから。神さまが負けるはずがありません、当然です。でもサウルはこれを待つことができませんでした。ついに彼自身がいけにえをささげました。これは決してしてはいけないことでした。神さまの権威を傷つけることを意味していました。ついに神さまの逆鱗に触れて王位から退けられる結果を招きました。サウルはテストに落第してしまいました。
一方ダビデはどうであったでしょう。サムエルが神さまから求められて、次期の王を探しにでかけました。一人の青年を見て、彼こそ王にふさわしいと直感しました。ハンサムで非常にみてくれが良かったからです。でも神さまのおことばはこうでした。
彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ。」と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」人は姿形を見るが、主は心を見る(Tサムエル16:6-7)。
神さまはダビデの心の中をご覧になり、真に神さまを愛する心を察知なさいました。私たちはもっともっと内面的なものを追求すべきではないでしょうか。目に見えない大事なものを追求すべきではないでしょうか。真理とは、真の愛とは、やさしさとは、などなど。
ドイツの福祉都市ベーテルを戦後日本人牧師が視察に出かけました。ある施設の内部を案内されたときのことです。まん中に通路があり、両側にベッドが並んでいます。ふと気がつくと、ベッドの上に丸太ん棒が見えました。というのは間違いで、53センチメートルの身長しかない、50歳の男性でした。身動きできず、口もきけない、完全に周囲の人々に世話になり生きている存在です。案内の人は言いました。「彼は私たちの宝です」。ナチスドイツの時代にヒットラーから「働きのない者は皆殺しにしなさい」と命令が来ました。でもここの職員は「彼は人間、神のかたちを持っている」と言って体を張って抵抗した、という経緯がありました。目に見えるものを通り越してもっと大事なものを私たちは見ていくべきではないでしょうか。どうか神さまと質の高い交わりをしてください。時間を多くかければいいというものでもありません。数多く聖書を読めばいいというものでもありません。みことばを読む、それはイエスさまのご人格に触れることです。ご人格に触れるデボーションをしてください。
夢や目標を他の人と共有する
あなたには夢がありますか。目標を掲げて毎日生活をしていらっしゃいますか。ところでその夢や目標はあなたの身近な方々と共有しているものでしょうか。それともあなただけのものでしょうか。あなただけのもの、すべてが悪いわけではありませんが、生活を共にしている、たとえば夫婦であるとか、もし運命共同体的なかかわりのある間柄であるなら、どうかその人たちと共有できる夢や目標をもってください。きっとあなたは応援してもらえるでしょう。そうでないと、協力してもらえないばかりか、足を引っ張られるかも知れません。悲しいことではありませんか。
神さまのお考えは「神を愛し、自分を愛し、人を愛せよ」(マタイ22:34-40など)です。それはこう言い換えることができます。「神を喜ばせ、自分を喜ばせ、他者を喜ばせよ」。世界はこうしてだれもが幸せになります。
ダビデはサムエルから王となるべく油そそぎを受けました。これは当時の儀式です。以来、彼の言動や行動には一貫性が印象的です。そうです。夢や目標が明確な人は首尾一貫性があるのです。これが尊敬を勝ち取る理由です。彼ははじめ琴の演奏者として召し抱えられました。やがて武人として頭角を表し、ついに人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と賞賛し、これがサウルのねたみを招きました。宮廷に於いてサウルから槍を投げ付けられたこともありました。サウルは優秀な軍人です。遊びではありませんでした。身に危険を感じたダビデは荒野に逃げますが、真っ先にしたことは預言者に神託を聞くことでした。こんな困難の中でもダビデは神さまを愛することを止めません。一貫性があるのです。彼の態度や言動に於いてその極め付けが24章3ー7節にある彼の対応です。これを契機に一層ダビデは人々から尊敬を集めるようになります。何百人もの人々が荒野に逃亡したダビデのもとに馳せ参じているのは決して不思議ではありません。
あなたもどうか、夢や目標をもってください。それも神さまからいただくのがいいでしょう。それは先に説明した三つの方面、すなわち神、自分、他者を同時に満足させるからです。ダビデが王位に就くことは神さまから出たことでした。
今の務めを忠実に行う
今のあなたの務めは何でしょうか。主婦として、職業人として、学生として、それは何でしょうか。それをこつこつこなしてください。バランスを保つことはとても大切です。先に述べましたが、夢と目標を持つことはとても私たちをわくわくさせる、実に魅力的なことですが、そればっかり口にしていると、ほら吹きになる場合もあります。ほら吹きはだれからも信頼されません。信頼され、尊敬される人は日常の小さな事と見えるものを丁寧に取り扱っているものです。決して手抜きをしないものです。
イエスさまは言われました。「小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です」(ルカ16:10)。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』(マタイ25:23)
どうかこのことを理解して下さい。私たちは神さまのご支配なさる世界に生きています。私たちの生活の中で生起することは決して偶然ではありません。あなたの前にある務めは、偶然存在するものではありません。神さまがいろいろあなた自身のことをお考えになった上で用意されたのです。ですから、こつこつこなした後には夢の実現、あるいは目標達成につながるものです。神さまを信じる、とはこういうことを指します。ダビデは羊飼いを業としていました。この羊飼いという仕事はなかなか大変なものです。トラや狼などの野獣が襲って来る、泥棒が夜陰に乗じ盗みに来る、睡魔に襲われ、極度の疲れとも戦わなければなりません。でも彼は後になって、この経験が役にたったと言っています。
私たちの人生において無駄なことは一切ありません。私はかつてステレオメーカーでライン長をしていましたが、リーダーシップを身につけることに貢献してくれた経験だったかなあと今思っています。営業もしました。さまざまな人との出会いがありました。そのつど多くのことを学びました。感謝しています。今、神さまはあなたの将来を見据えて、今を考えてくださっています。
妬まれる訓練を受ける
しっかりとした信仰生活や教会生活をすれば、必ず恵まれます。私は保証します。その証拠に妬まれます。あなたは「どうしてこの人は私にこんなことをするのだろうか?こんなことを言うのだろうか?」と悩んだことがおありでしょう。あなたは妬まれているのです。妬みは勲章。あなたが恵まれている、祝福されていることの証明です。
ダビデはサウルから、ヨセフは兄たちから、それぞれ妬まれ殺されそうになりました。アベルはカインから妬まれ殺されました。イエスさまもユダヤ人たちに妬まれ十字架にかけられました。妬みは憎しみであり、殺人へと続くものです。私たちは罪の世界の中で生きているのです。何か思い掛けないことが起きたとは思わないで下さい。ねたみの海の中で私たちは泳いでいます。ならば「妬まれるのは予定通り」と思っていた方がいいでしょう。大切なことは人から妬まれることを積極的に受け止めること、理解することです。すなわち「私は恵まれているのだ、私は祝福されているのだ」と理解することです。あなたの人生はあなたが理解したように進行します。前向きに捕らえるなら、あなたは事実として前向きの結果を実を手にするものです。
ある人が香港をウインドウショッピングをしていました。入れ墨やさんの前に来て、立ち止まりました。「負け犬」という彫りが見本としてげられていました。思わず、店に入ってこれを注文する人がいるのか、と尋ねました。お店の方の答えはこうでした。「いる。ただし肌に彫る前に、すでに心に彫っている」。
どうか心を常に前向きに保持して下さい。エペソ人への手紙2章10節をお読みください。
「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト.イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです」。
男の子が姿勢を正して立っているポスタ−があり、その子の台詞はこうです。「僕は自分を信じる、なぜなら僕を作ってくださったのは神さまだから。僕がつまらない人間であるはずがない」。永遠のいのちを生きる者は常に、どんな場合も前向きです。