374 ヤーウェはわが旗
●聖書箇所 [出エジプト記15章22節ー18章27節]
最近まですべてのことが問題なく運んでいたのに、急に歯車が狂いだした、っていうことってありませんか。そのような方々のために、どうしたら再びもとの調子の良い状態に戻す事ができるかを考えて行きましょう。テキストは出エジプト記です。この書は三つの部分に分けることができます。1〜15章21節 エジプトにおける奴隷状態からの解放 15章22節〜18章27節 シナイ山への荒野の旅 19章〜終わり シナイ山における契約。
今回は、15章22節〜18章27節 シナイ山への荒野の旅 から学びます。イスラエル人はエジプトの脱出にあたってさまざまなことが彼らに有利に働いた事を経験して来ました。もちろんヤーウェの応援があったからです。ところが荒野に出てから急に歯車が噛み合わなくなって来ました。ではどのようにしたら以前のように、調子の良い状態に戻れるかを考えましょう
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良い結果を心に描く
イスラエル人は紅海からシュルの荒野へと進みました。これはエジプトとパレスチナの間にあります。もし出エジプト記の経路図をお持ちでしたら確認してください。ただしどの説明も決定的なものではありません。おそらくこのあたりを通ったのであろうという意味で経路を描いています。さて、ここで一つの問題が持ち上がりました。マラまで進んだときに「水が飲めない!」という訴えが起こされました。15章22ー25節をお読み下さい。イスラエル人はモーセに訴え、モーセはヤーウェに訴えました。結果としてヤーウェは飲めるようにして下さったのですが、不思議な印象を受けるやり方でした。木を水に投ずるということでした。実際にその種の木があると聞いたことがありますが、あるいは単純な奇跡なのでしょうか。中近東には日本製の海水を真水に転換するプラントが輸出されています。そのようなことを知っていればこの種のことが起きることは別段不思議な事ではないのかも知れません。マラとは「苦い」の意味であり、海が近いので海水が混じるのは仕方がないのです。これはテストでした。25節にそう書いてあります。何のテスト?どんな難しい状況からも生きている神はヤーウェはイスラエル人を脱出させてくださると信じるかどうかです。人間は忘れっぽいものです。出エジプトの時の神による種々の奇跡はイスラエル人にはもはや過去の事になってしまっていたのでしょうか。あなたはいかがですか。最近調子が悪いなあーと思う中で心の中は否定的な思いで満たされてはいませんか。良い結果を心に描かなければなりません。問題が解決された状態を心のキャンバスに描かなければなりません。明るい詩を紹介しましょう。)
「耳を傾けよう」
今日、少し耳を傾けよう。子どもが何か言おうとしている今日、聞いてあげよう あなたがどんなに忙しくても そうでないと、いつか子どもはあなたの話を聞こうとしなくなる 今日、子どもの声に耳を傾けよう どんな些細な自慢話も、どんなにささやかな行ないもほめてあげよう おしゃべりを笑顔で聞いて、いっしょに大笑いしてあげよう 今日、聞いてあげよう 子どもに何があったのか。そして言ってあげよう「愛しているよ」と 叱ったあとは必ず抱きしめてやり「大丈夫だよ」と言ってあげよう 子どもの悪い点ばかりを責めているといじけた人間になってしまう でも、「君が家族の誇りだよ」と言ってやれば子どもは自信を持って育つ 今日、少し耳を傾けよう子どもが言おうとしていることに今日、聞いていてあげよう あなたがどんなに忙しくてもそうすれば、やがて子どももあなたの話を聞きに戻って来る(南カリフォルニア大学客員教授で能力開発研究家のウェイトリーによる)
いかがでしょうか。作者は明るい未来を期待を込めて見つめているのが感じられるのではないでしょうか。良い結果を心に描くために助けになるのがみことばです。礼拝の時、デボーションの時、あなたの心に神はあなたに語ってくださいます。最近私が受け取ったみことばは歴代誌第二20章1ー20節です。困難の中にいたヨシャパテ王は信仰を強く持ち大胆に彼の信仰を告白し、ついには勝利をおさめました。読みながら私は自分をヨシャペテだと受け止めました。私にとって励みになるみことばです。あなたの心にも響くみことばが与えられます。
神への謙虚さを取り戻す
イスラエル人はさらにシンの荒野へと進みました。16章3節以下をご覧下さい。「ここで食べ物がない!」と苦情が出ました。まさかスカイラークやデニーズがあると思ったわけではないでしょう。人々の訴えは非常に厳しいものでした。指導者のモーセやアロンに反抗心がむき出しになりました。指導者の苦しさはここにあります。すべてのことについて成功させなければならない責任と義務があります。ある人たちは指導者になりたいと簡単に言いますが、よーく考えた方がいいでしょう。指導者には大きなプレッシャーがいつもかかります。さて、モーセとアロンは神に訴えました。すると神さまはパン(マナ)と肉(うずら)を用意してくださいました。なんというやさしい神さまでしょうか。これがあなたの神さまです。でもこれもテストでした(4)。何のテスト?神への謙虚さがあるかどうかです。さまざまなことが順調に進まないときには私たちの心の中に神への謙虚さが欠けているときなのです。4節と5節をお読み下さい。マナを集める方法が説明されていますね。ところがこれを守らない人が少なくなかったようです。21節と22節をお読み下さい。どうして私たちは神さまのお定めになったきまりを守れないのでしょうか。美術館や博物館に行くと「触ってはいけません」と書いてあるのに、つい触りたくなります。私たち人間の性質なのでしょうか。少なくとも神さまのおっしゃることは、私たちは守らなければなりません。これが謙虚さです。この謙虚さが再び私たちを祝福の波に乗せてくれます。「霊の連鎖」というものがあります。
一つの例がクリスチャン新聞に紹介されていました。
ある時、ボストンの日曜学校教師エドワード・キンボールは一人の靴屋の少年をムーディを信仰に導いた。ムーディは靴屋をやめて伝道者になり、彼の説教でシカゴの牧師チャップマンが深い影響を受けた。チャップマンはシカゴで伝道大会を開き、そこで野球選手ビリー・サンデーが人生をキリストに明け渡した。サンデーはノースカロライナ州シャーロッテでの集会の説教者にモルデカイ・ハムを招いた。この集会で、16才のビリ−・グラハムは招きに応じキリストを受け入れた。そしてここからが大事です(笑い)。このビリ−・グラハムが東京に来て、後楽園球場に出かけた私に説教を語り、私は救われました。以来私は実に祝福された人生を送っています。ありがたいことです。祝福は霊に乗ってやって来ます。運ばれて来ると言ったらいいでしょうか。これは「風」の持っている性質でも理解できます。いろいろなものを運んで来るではありませんか。悩みのときに、どうか聞いてください。謙虚さが欠けてはいなかったかを。悔い改めれば再び祝福の波に乗る事ができます。
旗色を鮮明にする
アマレク人が襲って来ました。17章8節以降をご覧下さい。大ピンチです。モーセは偉大な指導者です。後継者育成にも長けています。ヨシュアを実務につかせ自分は一歩後ろに下がりました。平行して権力を保持するやり方です。これは優れた方法です。家康がこれを採用しています。二代目秀忠にこれを採用して、以来270年の大平の天下を築きました。モーセは何をしていたのでしょうか。祈っていたのです。両手を挙げている時はイスラエル人が勝ち、疲れて降ろしている時はアマレク人が勝ちました。そこでモーセの兄弟が両側から支えました。兄アロンと義兄フル(姉ミリヤムの夫?と思われます)です。あなたは祈っていますか。一人で祈るのもいいですが、親しい仲間と祈ることはいいことですよ。力が何倍増にもなります。
さあ、ついにイスラエルは勝利しました。ここに一連の歯車の噛み合わせの悪さは修正されました。何が重要でしょうか。旗色を鮮明にすることです。ヤーウェ・ニシ(アドナイ・ニシ)。ヤーウェはわが旗、わが助けとの鮮明な告白であり、宣言です。どうかあなたの生活の場面場面で「私はクリスチャン!」、「私は神の子!」「私の人生からは十字架のゆえにすべての呪い、さばき、罰は廃棄処分にされた!」と常に告白してください。これがあなたの生活の流れを再び祝福の波へと誘い、かつ定着させます。
私はかつてビジネスマンをしていました。お得意さんの会社の社長さんが亡くなって葬式に参加しなければならない状況に迫られました。私は勇気を持って言いました。「私はクリスチャンです。焼香はできません!」。分かってくれました。課長曰く。「よし、おれが代わりに行って来よう」と。祝福の波が引いているとき、私たちの心の中に妥協やごまかしがあるのです。ヤーウェは実際力のある方です。世のものに不必要な恐れを抱かないで、信仰を持って進みましょう。
牧師であり、ニューヨ一クのマーブル.コルゲート大学長でもあるノーマン.ビンセント.ピール博士が、ビジョンをもつことの結界について実験をした。マーブル.カレッジエート教会の小グループに、新年の抱負を書き上げてもらった。さて、一年が終わったとき、彼は抱負と事実とを照らし合わせてみた。ある女性は、積極的に10の目標を掲げていた。「私は9つの目標を達成できましたが、そのためには大いに努力したものです。努力は当然のことであり、結果を見つめての挑戦であり、やりがいのあるものでした。」
消極的な考えをもっていたある男性は死亡していた。「この年は私にとって不幸な年になりそうです。なぜなら、私の家系では60歳以上生きのぴた人がいないのです。」この人は不幸にもその年、60歳を一ケ月残して死亡した。ビジョンを放棄し、現状のなすがままに身を任せた人はこうだった。「この一年も私にとって期待のおけるものは何もない。前の年と同じ、みじめな生活があるだけだ。」彼は、この思いのとおりの生活を送った。(『クレイ2000.10』)