377 心の透明度

聖書箇所 [ルカの福音書10章38ー42節]

 私はカウンセリングをすることがありますが、その中から一つの貴重な経験をお分かちすることができます。来談者が急に治癒する(改善する、回復する、などいろいろな言い方がありますが、専門的には寛解)、あるいはそれに向けて大きく前進する場合のきっかけがあるという話です。それはいままでのわだかまっていた部分が急に解けた(砕けた、溶けた、分かった、見えるようになった、などいろいろな言い方が可能です)場合です。これを心の透明度が高くなったと言ったらいいでしょうか。多くのカウンセリングの専門家も同様の経験を持っているようです。心の透明度の高さは神さまに触れていただく、祝福されるすばらしい時のようです。今回はいずれもルカの福音書から抽出した4つの、主にたとえ話からこのテーマで教訓を学びましょう。10章38ー42節 12章22ー31節 12章16ー20節 16章19ー31節。以上に共通するキーワードは次の3つです。

思い煩い

 これの発するメッセージは「自分自身を知れ!」です。あなたはご自分を正確にご存じでしょうか。さてマリアとマルタ。どちらが悪かったのでしょうか。伝統的には後者が批判の対象として講壇から語られて来ました。それで正しいのでしょうか。中にはマルタに同情して、彼女は悪くないという論調も歴史の中では散見されました。これに対する解答は最後に、その決定版をお届けしましょう。話を戻しますが、マルタはいったいなぜイライラしているのでしょうか。考えられるものは3つ。

 1 以前からマリアを嫌っていた。マリアの性質を見ると、非常に人なつっこい感じがします。学校などの教室では「せんせー!」って気楽に近付ける生徒を目にしませんか。そういう賜物の持ち主です。「せんせー!」と言われた先生も気持ちがいいものです。でもマルタにはそれができません。ほんとうはマリアのように振る舞うことができればいいのですが。ここが彼女の辛いところです。そのようにできるマリアに対しては普段から嫌悪感を持っていました。

 2 マリアとは全く無関係にイライラさせられる出来ごとで悩んでいた。いらいらしている人はとにかく誰かにそれをぶつけたいのですが、一番近くにいる人が標的にされやすいのです。マリアはもっとも近くにいました。

 3 マルタはしなければいけない正しいことがなんであるかを理解しているが、それをしたくなかった。それで別の用事を作った。私たちは逃げるときに大義名分が必要です。イエスさまを歓迎することくらい立派な大義名分はありません。

 このような種々の説明はフロイト流に言えば無意識的自己防衛機制です。たとえば狐が美味しそうな木の実を取ろうとして何度も跳びはねた。しかしどうしても目的を達せられない。そこでこう言います。「あれは渋柿だ!」。これは合理化と呼ばれるものです。本当は嫌いな人に対して非常に親切にする。これも反動形成と言う防衛機制の一つです。なぜこのようなことを話して来たかと言いますと、決して非難しているのではなく、私たちは本当に自分というものを認識しているのかを確認したかったからです。

 「……いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。……烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。……ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。」(22-29)

 あなたはこのみことばに「アーメン」と言いなさるでしょう。でも本当にそう信じているのですか。聞きたいのはあなたの中が分裂していませんか、です。41節は「マルタ、あなたは思い煩って多くの事を破壊しています」と訳し変えることができます。「思い煩う」はメリムナーですが、兄弟語にメリゾーがありますが、これは「分裂する」です。あなたの中では分裂はありませんか。

たましい

 これの発するメッセージは「人こそ主役と知れ!」です。あなたの人生の主役はあなたという人間です。どうかあなたを大切にしてください。「たましい」(12:19、20)は人を、あるいは人全体を指します。「天」は神さまを指します(15:18)。さて大切な人を大切にすべきですが、実際はどのようにしているのでしょうか。

 ポール・ツールニエは『生の冒険』(ヨルダン社)の中で「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(創世記2:18)を解釈して、こう書いています。「人が一人でいるのが良くないのは、人が一人でいると自分にうそをつくからである」。
 この説明をあなたはどう思いますか。私はなるほどと思いました。たとえば一人住まいをしている人にこう質問したとしましょう。「一人じゃあー寂しいでしょう」「いいえ、私は一人には慣れていて、寂しくなんかないです」。率直に言いましょう。「ほんとー!?、それ、ほんとー」と、これは私の反応です。寂しいのに「寂しくない」と言う。これは真実を語っていないと言わざるを得ません。ポール・ツールニエは、これは幻想だ、と言います。そして人は幻想を事実であるかのごとく、自分に言い聞かせ、また納得させようとします。ポール・ツールニエはそれゆえ、こう言います。「人は他の人との深い交わりの中で、自分を知る」。他の人の存在はなんとありがたいことでしょう。ところが私たちは他の人を攻撃するのです。しかも最も身近な人を。これでは他の人を大切にしていないばかりか、自分をも大切にしていません。あなたは自分でどの程度他の人を、そして自分を大切にしているかをチェックすることができます。
 ダブレットという聖書の原則があります。事実は二つの証拠によって確認されるというものです。「空の鳥」と「ゆりの花」で二つ(?)。神さまを信じていれば大丈夫という信仰がここから導かれます。今、大雑把に最近の出来ごとを振りかえってみてください。「あー、あんなことをして。人(自分あるいは他の人、そして両方)を大切にしてはいなかったなー!」と思い返すことが二つあったら、反省すべきです。イエスさまはあなたのために命を捨ててくださったのです、人のために。あなたも人を大切にしてください。ただしこのやり方を他の人をさばくために使わないで下さい。

良いもの

 これの発するメッセージは「真に良いものを知れ!」です。あなたにとって「良いもの」って何ですか。金持ちにとっては「紫の衣や細布」(16:19)であり、「穀物や財産」(12:18)でした。イエスさまによると「良いもの」は「ただ一つ」です(10:42)。それは永遠の命、天国の命です。さあ、先ほどの約束を果たしましょう。マルタか、マリアか。マルタは「思い煩って多くの事を破壊してい」(10:41)ますが、その中に「ただ一つ」が含まれていましたが、それに気がついていませんでした。透明度の低い人でした。でもマリアはそうではなかったのです。ここで誤解をしないでいただきたいので言いますが、二人の性格はかなり違っていますが、それぞれ神さまによって造られた優れものです。彼女たちの個性です。個性の違いを正悪や優劣つけて判断してはいけません。自分を知る程度、すなわち透明度の差であったのです。イエスさまをそれを見ておられました。最後に一つのお話をして終わりにしましょう。

 エリメレクは死んで神さまの前に立たされました。
  一番目の裁判官「あなたは正しく行うべき場面で正しく行いましたか?」ーー「いいえ」
  二番目の裁判官「あなたは人にやさしくするべき場面でやさしくしましたか?」ーー「いいえ」
  三番目の裁判官「あなたは学ぶべき場面で十分に学びましたか?」ーー「いいえ」
  四番目の裁判官「あなたは祈るべき場面で十分に祈りましたか?」ーー「いいえ」
 裁判長(神)はほほえみながら、「エリメレクよ。あなたは真実を語った。ただそれだけでもあなたは天国で報いを受けるに値する」