378  みことばを結実させる人

聖書箇所 [マタイの福音書13章1ー23章]

 私たちは「みことばを信じましょう」などと言い、聞いたりします。その理由は恵まれるから。今回学ぶ箇所では100倍、60倍、30倍に祝福されるとあります。どのような人が実際に祝福されるのかご一緒に考えてみましょう。まずイエスさまのたとえの語られる状況を説明しましょう。当時のパレスチナでは種は2種類の方法で蒔かれました。一つは人が腰に袋や篭をぶら下げて、中から手で種を取り出し、歩きながら蒔きました。二つ目はロバの背に袋や篭を置き、歩き回らせるものです。いずれも風が吹いたりすると、畑以外の場所に種が落ちました。パレスチナの畑が細長く、まずあぜ道に落ちることが多かったのです。道ばたとはこれのことです。

心が開かれている人[4節]

 13章はイエスさまの初期伝道においては転換点に当ります。それまでは会堂で説教ができたのですが、だんだん招かれなくなって来ていました。ユダヤ人の指導者たちがイエスさまを嫌うようになっていたからです。でも彼はとても柔軟です。ちょうど良かった、とおっしゃったかどうかは定かではありませんが、人々はすでに会堂には入り切れなくなっており、船を講壇にして岸に集まる人々向けて説教をなさっているのがこの記事です。イエスさまの心は柔軟、すなわち開かれています。開かれている人はみことばを受け入れやすく、したがって結実しやすいのです。でも実際は心を閉じさせる、いくつもの障害物があります。偏見や思い込み、プライド(もう、私は十分に知っている。だれにも教えてもらう必要はないなど)、新しいもの(未知のもの)への恐怖心(未知ゆえに対処の仕方が不明です。今回の場合、いままでみことばとつき合ったことがない)、自我の強さ(私はこう思う、これを変更する必要など全くない)などなど。このような障害物に負けているときが、種が道端に落ちた状態です。先日、NHKテレビでアクション俳優の藤岡弘さんがインタビュー番組に出演しておりました。彼は各種の武道に通じていてそれぞれ段位を持っています。でも非常に謙虚な方で、こういう人だからこそ、各武道を極めて行けるのだなあーと思いつつ、同時に私は深い感銘を受けました。こういう謙虚な態度こそ心開かれている状態ではないでしょうか。聖書の中でアブラハムは心開かれている人物としては代表的かも知れません。偶像がいっぱいの中で彼は生まれ、育ちました。でもあるとき、神さまが彼に語り、彼は非常にすなおに応答しました。そういう彼にはすばらしい約束が与えられました(創世記12:1-3、13:14-17)。もちろんこれは成就しました。「信仰」の父と彼は呼ばれますが、「夢の父」と言い換えてもいいでしょう。信仰とは別名、夢です。あなたに夢がありますか。みことばに心を開くならば、あなたの夢は成就します。それは神さまの責任です。アブラハムはいくつもの失敗を、しかも大きな失敗をしたことでも有名です。しかし心開かれた人は軌道修正も容易ですし、一度や二度の失敗にもめげないのです。神さまは祝福してくださると信じているからです。

よく聞く人[5節]

 私たちが神さまから与えられている聞くためのチャンネルは二つです。直感と理性。この二つがすばらしいコンビネーションを見せたときに、最高の実りが実現します。エジソンは「1%の直感、99%の努力」と言い伝えられ、それゆえ実は努力の人だったし、それが彼を偉大にしていると言われますが、実際は「1%の直感がなければ、99%の努力は空しい」と言ったのです。これはすばらしい、直感と理性のコンビネーションです。クーエは「想像(直感)と意志(理性。理性的に考えてみて、これは良くない習慣だ、したがって止めよう、と決意するようなことです)が競争すれば、前者が勝つ」と言いました。要するに頭で理解しただけでは実らないという意味です。悟る人というのはからだで分かる人と言ったらいいでしょうか。「岩地」とは小石がころがっているような土地ではなく、石灰岩層の上に10センチメートルくらい土が積もっている土地です。すぐに発芽しますが、土中に深く根を伸ばすことができないので、水分も養分も吸収できません。上からは太陽が強く照り付け枯れてしまいます。みことばをさっと受け入れ、歓迎しても、心の中に想像は広がらず、努力もしないのでは結実しないのは当然です。直感と理性のバランスのとれたコンビネーションがあなたに祝福をもたらします。ハンナの物語はサムエル記第一の第1章に出ています。彼女は心に悩みを抱え祈っていますが、祭司エリは霊的に弱い時期にあり(したがって家庭の中もすさんでいました)、彼女が酔っぱらっていると誤解しました。そのようなときの彼女の応答は極めて理性的かつ冷静なものでした。心は燃え、頭は冷静で両方の目指すものは共通です。彼女の祈りは成就しました。

悟る人[7節]

 「茨の地」はみかけだおしの土地です。表面だけ見るかぎりは「良い地」(8)です。22節を見ると種明かしがあります。欲望をコントロールできないで自滅する人です。欲望をコントロールできない人は地道な努力を、流行などに惑わされないで、続ける人です。エリシャは大預言者エリヤに弟子入りしました。預言者はただ神さまからみことばをいただいて(預かって)、人々に知らせるだけというイメージが強いと思いますが、訓練や鍛練が必要な職務です。ゆえに学校があるほどでした。エリシャはエリヤから校長先生の立場を受け継ぎましたが、よーく訓練を受け、インターンも経験しました。このような中で彼は「茨の地」ではなく、「良い地」と言うことができます。そして師よりもより多く「奇跡を起こす人」と呼ばれました。彼の成した奇跡は有害な水を無害化する(?列王記2:19-22)、空の容器がを油で満たす(同4:1-7)、シュネムの女を生き返らせる(同4:8-37)、池に沈んだ斧を浮かばせる(同6:1-7)などたくさんあります。これらを見れば突然起きた出来事のオンパレードと見えますが、起きるべくして起きたと言うのが適切でしょう。いわばコツコツ積み上げたことの当然の結果というのが正しいでしょう。あなたの周囲には「あの人のすることはすべて成功する」とか「あの人が祈ることはすべてかなえられる」という印象を与える人がいらっしゃるのではないでしょうか。その見方はおそらく正しいと思いますが、しかし平凡な地道な日常活動が基礎にはあります。悟る人、あるいはエリシャはそういう人です。

 さて、以上述べて来ましたような人になるためには何が必要でしょうか。それはイエスさまとの人格的な出会いです。難しいことを言いましたが、決して難しくはありません。イエスさまの優しさやあたたかさを心で感じる経験です。十字架で死なれたことから始まってすべての、イエスさまの持っておられるそのような面との出会い、そして経験です。一人の身体障害者のあかしを紹介しましょう。「私はからだに障害があります。そのために落ち込むことがありますが、そんなときにはすぐに祈ります。すると神さまはあたたかい心で私を包んでくださいます。私はそんな交わりの中で大きく変わる経験をしています。あるとき、こんな夢を見ました。それは広い広い世界でした。イエスさまが私に近付いて来て、こう言われました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい」。私はイエスさまから直接もことばをいただいたのです。私はイエスさまの美しい、やさしいお顔を見たのです。今、私は思います。この、イエスさまの優しさとあたたかさとを他の人たちと分かち合って行きたいです。 彼は豊かに実を結んでいます。あなたはイエスさまの優しさとあたたかさを経験しておられますか。ペテロは大きな失敗をしました。トマスはとても聞かれては恥ずかしいことを言ってしましました。でも彼らは立ち上がりとても立派なきをしました。そのきっかけはイエスさまの優しさやあたたかさとの出会いでした(ヨハネ20:24-29、21:15-23)。あなたもイエスさまと出会ってください。あなたはあなたのかけがえのない人生に於いて多くの実を結ぶでしょう。