392 霊的成長求めて
聖書箇所 [ヨハネの福音書13章4ー15節、ローマ人への手紙12章1ー2節]
だれでも成長には関心があるでしょう。今回はこのテーマに取り組みますが、種々の成長がありますので、範囲を絞りましょう。霊的な分野を取り上げましょう。
まず霊的とは?このことばに解答をして置かなければなりません。肉的の反対。肉とはもちろん豚肉でもとり肉でも牛肉でもありません。地上的、あるいは可視的の意味です。こういう言い方があります。「人生、生きているうちが花よ」。これがこの考えを一言で表現しているでしょう。目に見える世界がすべて、五感で確認できる世界がすべて、というものです。それに対して霊的とは、天上的、不可視的と言います。あなたにはプレゼントをいただくときがあると思いますが、「感謝の気持ち」と言われつつ具体的に何もモノをもらえないのでは寂しいものですね。心がこもっていなければ、すなわち目に見えない世界が重要であるわけですが、目に見える部分もまた同様に無視できない。つまり霊的といえども、地上的な部分も関与しています。整理しましょう。神さまはこの世界すべてをお造りになりました。目に見えるものも目に見えないものもすべて。すべては神さまの世界です。それを統合するのが霊の世界です。この霊の世界において成長するのが霊的成長です。一言で霊的に成長しているとは、「神さまの理想とされる状態へのプロセス上にある」と言えます。それをローマ人への手紙12章1ー2節で表現しております。さて、成長の舞台は何でしょうか。それは犬や猫でなく、私たち人間。人間の最高の状態を保持された方と言えば、イエスさま。イエスさまのお姿から霊的に成長しているとはどのような条件を満たしているのかを考えましょう。ヨハネの福音書13章にある洗足の話に注目しましょう。
仕える
弟子たちの足を師イエスさまがお洗いになる。これはまったく常識をくつがえす行為でした。一番弟子ペテロでさえその意味が分からず、頓珍漢な受け止め方をしています。まるでお風呂場と勘違いしているようです(9)。でも無理もないことです。新入社員に新入生に社長さんや校長先生が足を洗うなどとは聞いたことがありませんね。理解が難しいのには理由があります。この世の一般的な考えとは異なるからです。この世では支配することが一番の関心事です。目の前にいる夫、妻、子、親などを、あなたは自分の思い通りにしようとお考えになったことはありませんか。あなたのイメージ通りに動かそうとお考えになったことは。仕えることはちょうどその反対です。相手を気持ち良くさせることです。
私は以前会社に勤務しておりましたが、幹事をすることが好きでした。手作りのポスターを張り出し、参加者を募集。マイクロバスを借り、海に山に人々を案内しました。もちろんボランティアです。いくつかのことに私は気がつきました。参加者たちから感謝されましたが、私は人々のそのようなことばにいやしを感じました。「私は役に立っている、私にもできることがある、私の存在には意味がある」などなど。きっと個人個人でいやしの種類も異なるのでしょう。でも広い心の中にある、ある種の傷には有効性があるようです。さらにビジョンが与えられました。
「私は大平洋の架け橋になりたい」と東大の入学口頭試問で新渡戸稲造は答えたそうです。彼は東大教授、東京女子大学学長、20年に及ぶ国際連盟事務局次長を勤めた人です。札幌農学校で「青年よ、大志を抱け、キリストにあって!」と叫んだクラーク博士の仕える姿にこのような大きなビジョンを得ました。(五千円札に印刷された彼の肖像と大平洋の絵をご覧下さい)。イエスさまは決して仕えることによって救い主になられるビジョンを得られたわけではありませんが、ビジョンと仕えることとは同時平行していることを覚えてください。他の人に仕えることが霊的成長を促してくれます。
与える
何を与える?きれいな手を、時間をお金を、労力を、などなどたくさんあるでしょう。私は信仰を持ってから、心の中に一つの思いが少しずつ強くなっていることを感じています。それは「他者からもらおう、期待しよう」という気持ちが減少していることです。以前はかなり強かったのですが、今では減少しています。でも誤解しないでいただきたいのは、他者のお世話になりたくないとか、なっていないとか言っているのではありません。現に私は周囲のあまりにも多くの方々のお世話になって生活をしており、それらなくして生きることはできません。ただ、「私にください、私に対してそのように振る舞ってください」といった強い思いがなくなって来ている、と言っています。それは十分に今、与えられているからなのでしょう。今、私が期待している対象は神さまであり、私自身です。神さまは何でもおできになる方であるし、私も日々その全能の力によって変身できているからです。明日の自分が楽しみです。与えるのはなぜ幸いなのか。
それは与えられるからです。
ある人が夢を見ました。天国で生活している場面でした。立派なマンションに住んでいて、彼は大変満足でした。一日に一回、決まって郵便の配達がありました。配達人は天使。小包を小脇に抱えチャイムを慣らします。彼は、「それは何ですか?」といぶかし気に質問します。天使は言います。「これは◯◯の頃、◎◎さんにあなたが与えたことに対するご褒美です」。
霊的に成長していることと天国にご褒美が蓄積されていくこととは同時です。
己に死ぬ
己にもいろいろな種類があるでしょう。ここでいう己とは「わがままな、自分勝手な、生まれながらの己」です。私たちはこの己と戦わなければなりません。そして死なさなければなりません。イエスさまはここで己に死ぬことを見せてくださいました。なにしろ先生なんですから。偉いお方なんですから、ひざまづいて仕えるなんて……。
私はカナダのトロントにある教会を訪問したことがあります。大きな教会でしたが、私の興味は小集団活動への参加と観察です。ここにその教会の真の力や姿が見えると思うからです。掲示板にある誘いのちらしを物色しました。ホテルから一番近い家庭、と考えながら。候補三件を見つけました。そのうち一件と交渉成立。道順を聞きましたが、迷って二時間もうろうろ。でも歓迎して下さいました。礼拝が終わって、洗足をさせてくださいと言われました。私には初めての経験でした。すでにきれいなプラスチックの桶と手ぬぐいが用意されていました。私は温かいお湯で拭ってもらっている間、隣の男性二人はこんな会話を正直に交わしていました。
「私が初めて洗足した時、なんでこんなことをしなければいけないのかと、内心おもしろくなかった!」
「そうだ、俺も。汚い足だってあるしねえー。嫌だったねえー。だいたい人の前にひざまづくのがおもしろくない!」。
彼らは己と戦って勝った人たちでした。マルコの福音書7章1節以下にコルバンの話があります。簡単に説明しましょう。パリサイ人や律法学者たちは、自らの両親に対して「実は律法の『父母を敬いなさい』に従って経済援助をしようと思ったのですが、すでにコルバン(神さまへのささげもの)と表明してしまったので、ほんとうに残念ですが、神さまに違反する訳には行きませんので、援助できません」と言っているのに対してイエスさまが「神のことばを言い訳に使うな」と叱責されています。ここに己が顔を出しています。私たちにはこれと似たようなことが多いのではないでしょうか。「ほんとうはこれをしなければいけない、私の責任だ」と理解しながらも、それから逃げるために口実を設けると言うような。ことほどさように己の力は強いのです。私たちの救いはイエスさまが己をお捨てになることから生まれました。十字架直前のお姿を思い出してください。
彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(マルコの福音書14:34-36)
1917年、シリアのアルメニア人病院に一人のトルコ兵が担ぎ込まれました。看護婦のリザベットは大きな傷口を塞ぎ、精一杯の手当てをしていました。辛そうな彼を慰めようと身の上話を始めました。「私の父はね、トルコから国外追放され、投獄されたの。やっと解放されたと思ったらじゅうたんでグルグル巻にされ、どこかに連れ去られたの。そしてそれっきり」彼は驚きの余り、声を失いました。実は彼がそのことをしたのであって、銃剣でその後殺してしまったのです。彼はどうしようか正直に言おうか、どうしようか、迷いました。ここに己との戦いがありました。彼は勇気をもって正直に話しました。彼女は心の中に重たいものがありました。復讐の気持ちでした。赦せない気持ちでした。彼女の脳裏をかすめたのは母の顔。いつもイエスさまについて教えてくれた母親の顔でした。彼女は考えました。母親ならこの場合どのようにするだろうか。そして心に浮かんだのが「敵を愛しなさい」のみことばでした。彼女は彼に言いました。「私はあなたを赦します」。彼女は己に勝ちました。
あなたにもこのような場面に遭遇することがあるのではないでしょうか。でも己に勝つ者はなすことすべてを愛に変えることができます。
彼の人生はすべてが順調でした。学校や職場でもエリートコースを歩み、運動神経も抜群でどんなスポーツもこなせました。あるとき体の変調に気付き、診察を受けました。運動神経麻痺の難病と診断されました。それ以来彼の生活は一変しました。松葉づえを使うようになり、日常生活には以前とは全く違った制約が加わりました。彼は毎日毎日「私ほどみじめで不幸な人間はいない」とぶつぶつ言いながら過ごしていました。ある日、用事があり、朝から家を出ました。帰りは夕方になり、いつもとは違うなれない道を運転していました。ふとしたはずみでガードレールに車をぶつけてしまい、そのとき「パーン」という音を聞きました。彼にはすぐに分かりました。パンクです。と同時に頭をかすめたのが、こういう思いでした。「私にはタイヤの交換はできないんだ。きっとだれも止まってくれないだろう。私だってこんな雨と風の日に止まって助けようなどとは思わない……」。ふと目をあげる、一軒の民家が見えました。彼はゆっくりゆっくり車を移動させました。そしてクラクションを鳴らしました。家からは少女が出て来ました。「すいません。パンクしちゃったんです。私は足が悪くて交換できないんです。助けてもらえませんか」彼女は家から年輩の人を連れて戻って来ました。年輩の人は「大変でしたねー」と挨拶をしながら、早速作業を始める様子でした。車の中から話し声が聞こえます。「おじいちゃん、ジャッキ、ジャッキ、これよ!そう、そう」。しばらくすると車体が上昇しました。彼は作業が進んでいるなと思いながら、しかし、心の中に葛藤が始まっていました。「彼らは雨と風の中で苦労している、それに比べて私は暖かい車内で……。いや、そんなふうに考えることはない、お金を払えばいいんだ、そうだ、お金を……」」と自分を言い聞かせました。やがて車体がガタンと落ち、すべてが終わったようでした。彼は窓を開けてお礼を言いました。そして「お礼をしたいのですが」と言いました。「いいえ、とんでもない。お互いさまじゃあーないですか」。彼は気がすまないので、お札を差し出しました。ところが何の反応もないのです。少女は言いました。「おじいちゃんは目が見えないの」。どれほどの時間がたったでしょうか。二人はいなくなってもいつまでもいつまでも彼は車の中で身動きができませんでした。自己嫌悪感、自己憐憫の思い、せつなさ、やりきれなさ、恥ずかしさ、自分の身勝手さ、障害者だと言っての甘えなどなど。ついに彼は祈りました。「神さま、私に力をください。人を思いやる力を理解する心を。私の欠点に気付かせてください。またそれを克服できるように助けてください」。彼の心には浮かんだみことばがありました。
何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)
きっと私たちにも霊的に成長するために必要なきっかけを神さまはくださっているのです。それに気がつく者、気がつきやすい柔軟性を持ちたいものです。