勝利教会インターネットチャペル |
あなたは新しく変わる
神を宿すあなたへ
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちはどのように祈ったら良いか分からないのですが、御霊ご自身が言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださいます。
人間の心を探り窮める方は御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら御霊は神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには神はすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています」
(ローマ人への手紙8:26〜28)
このような題をつけますと、もしあなたが教会にしばらく行ってらっしゃるなら、「あッ、聖霊さまのことだな!」とピンと来るでしょう。比較的新しい方は、へんな感じだなとお思いになるかも知れません。というのは日本には霊がつくことばが、うようよしていますから、きっと「その親戚かな」ぐらいにお考えになるのはもっともとは思います。〔注〕で一般的に霊とは何かを書いておきました。読んでこれからお話しする霊とは全く違うということを知っていただければと思います。
さて、あなたの中に宿られる神さまは聖霊さまと呼ばれます。この方こそあなたの中で働いて命となり、知恵となり、パワーとなり、エネルギーとなり、あなたを新しくしてくださる主役です。その聖霊の神さまを宿し、必要なときにその恵みを引き出すことができるあなたはまさに正真正銘の新しいあなたです。
お祈りを助けてくださいます
あなたには願いごとがおありでしょう。こうなってほしいなあーとか。ではその願いごとが次々にかなっていったらいいとお思いでしょうか。そんなことあたりまえでしょ! ですか。冷静に考えて見たらそう簡単にはハイ! とは言えないでしょう。親になるとよーく、ウンウンと分かるはずです。
親がこどもの要求を全部受け入れてたら決していい子には育ちません。ではその境目はどの辺にあるのでしょう。これはいい、でもあれはダメ! と言う境目は。もし将来を見通すことができればきっと正しく判断できるでしょうね。でもそうはできない私たちには難問題には違いありません。
ピタゴラスの定理で有名なあのピタゴラスには弟子との間にこんな会話があったそうです。 「君たちは自分のために祈っちゃいけないよ」。 「なぜですか」 「それは、君たちは将来を見通すことができないからだ」
一番いいお祈りがありますのでご紹介しましょう。それはイエスさまが十字架の上でなさったものです。
「わが父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかしわたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(マタイ26・39)。
これこそ完全に安心できるお祈りです。私たちは罪深い。だからあぶないお祈りをしてしまいます。たとえば、ついねたんでしまって、「あの人に悪いことが起こればいい」。こんなときのみこころは
「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』もしあなたの敵が飢えたなら、彼に飲ませなさい。そうすることによってあなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善を持って悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:19〜21)」
もしあなたがだれかにひどいことをされても自分で復讐してはいけません。肉の思いである、生まれながらの思いは復讐したくなります。でもそれはしてはいけません。なぜ。
それはその人に自分の人生をコントロールされているに等しく、そのあげくあなたが罪を犯すことになるからです。神さまに任せてください。彼に親切にしてあげてください。そうすれば燃える炭火をその人の頭に積むことになり、それはそれは恐ろしい神のさばきが下ります。あなたのなし得ることの比ではありません。
というふうに、もし聖霊さまに導かれると、このようなお祈りができるようになります。
これが神さまによって解決されるということの意味です。生まれながらの罪人である私たちには、今のように憎いと思えば憎まざるをえないのです。もしみこころがなるようにとお祈りなさるなら、たとえばこのように問題は解決しますとの例を取り上げてみました。
ではどのようにしたらこのようなお祈りができるのでしょうか。聖霊さまをお招きすればいいわけですが、それはご復活のイエスさまを心に受け入れることによってできます。このイエスさまが心の中にいらっしゃることと、聖霊さまをお迎えすることとは同じことです。使徒の働きを読んでみますと、両者の間に完全な互換性があるということで分かります。2つの段階を踏みます。
ひとつは自分の弱さを認めること。「弱い私たち」(26節)とあります。この弱さとは結局は罪を犯してしまうということです。「私は神さまに対して、また神さまの前で罪を犯しましたし、犯す者です」と告白することです。
こういう訴えを教授に女子学生がしました。 「先生、こんなことを発見しました。私はタバコの臭いがダイッ嫌イッなんです。ところが恋人の前では何にも気にならないんです。不思議ですねェー」
この話は私たちには基準が2通りあることを証明しているでしょう。 「この人が吸うならかまわないが、あの人は絶対だめ! 許さない!」 と。聖書ではこれを「大小ふたつの重り石を使う」と表現します。重り石とは、今はあまり見かけなくなりましたが、目方を量るときに使うものです。人の顔を見て損得を計算して使い分けるのが人間だと神さまはご存じです。イエスさまはこうおっしゃっておられます。
「あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目を中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか」(マタイ7:3、4)。
重り石をヘブル語ではエベン・シェレマーと言います。エベンは石のこと。シェレマーは完全なの意味です。シャロームとはヘブル人が通常使うあいさつのことばで、平安がありますようにの意味ですが両者は同根です。シェレマーは原石という意味です。だれもいまだかつてノミを当てていない石です。発掘されたままの石です。 ところが人間は罪というノミを当てて作り替えてしまいます。だから自分には甘く、他人には厳しくなるのです。従ってもはや平和ではなくなります。人間が下手に手を加えるから問題が起きたのです。
ですからお祈りをするときにみこころを求める祈り、すなわち人間の手を加えない、原石のままの祈りが最高であることが分かります。どうか万事は神さまにより益となると信じてください(2八)。
あなたは今何を希望していらっしゃいますか。神さまを信頼してください。すべてのことは互いに作用しあって益に、すなわち良い結果になります。あなたは神さまに愛されているからです。
父なる神さまは大切な一人子のイエスさまを十字架で死なせなさいました。あなたの罪を負わせなさったのです。あなたには天国が用意されたほどです。あなたは愛されています。みこころの中にすべての解決があります。聖霊さまがいまそうあなたの心に勧めていらっしゃるのがお分かりでしょう。
聖書から発されるメッセージが分かるようにしてくださいます
今朝、あなたは聖書をお読みになりましたか。昨日はいかがでしょう。聖書は真理です。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」
これは国立国会図書館のカウンターの上にギリシア語で書かれてあることばですが、実はヨハネの福音書8章32節のことばです。そして
「聖霊はあなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ14・26)
とあるように聖書を私たちに理解させてくださるのが聖霊さまのお仕事です。どういうふうに聖書を分からせ、また私たちを自由にしてくださるのでしょうか。
私たちにはこのような質問があります。「私はどこで生まれたんですか。私はどこからきたのですか」形而上学的な難しい質問ですね。でもまじめに生きる人には大切な質問です。もちろん、私のお母さんから、というのは期待している答えではありません。霊魂(動物は魂だけ、人間だけが霊も備わっています)の出所までも含めた根源的な問いです。もしこの問いに答えることができるとすれば、「私はやがて死んだ後にどこにいくのでしょうか」という質問にも答えられるでしょう。聖書の一番はじめの書物である創世記の一章26節にその答えがあります。
「われわれ(神ご自身を強調した言い方)はわれわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・・・神はこのように、人をご自身のかたちに創造された」
あなたは神さまから生まれました。このような大切な質問を起こさせ、かつ大切な答えを答えとして納得させるのが聖霊さまです。いかがでしょうか。あなたの中にすでに聖霊さまのお働きが現れてはいらっしゃらないでしょうか。
進化論は大切ないくつもの質問に答えを持っていません。進化論は科学の体裁をとってはいますが、実は科学ではありません。まず何に答えることができないかというと、まずだれもが知りたい、生命のはじめについて説明をすることができません。現実に存在しているものについてどのようにして誕生していったかを説明することができません。そこで限りなくながーい、ながーい年月を想定します。ながーい、ながーい年月の間に何かが起こったであろうと人々にロマンを抱かせるかも知れませんが、これではもはや科学ではありません。
仮にあなたの家の前に車が停まっていたとしましょう。鉄やらゴムやら自然界にあるものが自然に組み合わされて、つまり進化して長い時間のうちについには車になったとだれが思うでしょうか。自動車を製造する会社が存在しなければなりません。これこそ常識的かつ科学的な考えでしょう。でも「製造した会社などない!」と頑固に主張するのが進化論です。
ですから進化論は単にひとつのイデオロギーでしかありません。今日世界と人間の起源を説明するのは聖書しかありません。
ひとりのご婦人がひどく悲しんでおられました。なぜでしょう。旦那さんが亡くなり、未亡人になったからです。小さな子どもさんとともに残されてしまいました。悲しみの中でも忘れずに彼女は聖書を開きました。そしてこういうことばを見つけました。
「あなたのみなし児たち、私が彼らを生き永らえさせる。あなたのやもめたちは私により頼まなければならない」(エレミヤ49:11)
彼女はこのみことばを見て確信しました。これは今の私に与えられた神さまからのおことばであると。彼女はこうして励まされ、子どもたちを立派に育て上げました。
このように個人的にみことばをもってあなたの心にインパクトと慰めとを与える働きは聖霊さまのものです。実はこのようなやり方をイエスさまがなさっておられます。 「見よ、私は使いをあなたの前に遣わし、あなたの道をあなたの前に備えさせよう」(マタイ11:10)
旧約聖書・マラキ書のみことばを引用なさるとき、「あなた」とは「私のことだ!」とイエスさまは分かっていらっしゃったのです。当時は旧約聖書しかありません。ちなみにユダヤ人は聖書を何と呼ぶでしょうか。タナック(TNK)と呼びます。トーラー、ナビーム、カトビームの頭文字を一つずつ取ってこう呼びます。トーラーは「律法」で創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つです。ナビームは「預言書」でイザヤ書など、カトビームは「諸書」で詩篇などで、3つに区分していました。キリスト教の旧約聖書はユダヤ教のものと全く同じです。さて本題に戻りましょう。
聖霊さまがあなたに働くとみことばは個人的にあなたのものになります。それがあなたに大きな力となります。神を宿すあなた、と呼ぶのはこのためです。ところでなぜ聖書を私たちは理解できるようになるのでしょうか。素朴な質問ではありますが、非常に重要な質問でもあります。実は聖霊さまこそ聖書の著者だからです。どの本についても同様ですが、読んでみて十分に理解できないときには著者にたずねるのが利口でしょう。
「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」。(Uテモテ3・16)
霊感とは原語のギリシア語では「神+霊」の合成語です。聖霊さまがお書きになったのですから、聖霊さまに教えていただけばいいのです。これを神学用語では照明とか啓明とか申します。ちょうど懐中電灯を当てて、暗いところでものを見るようなものです。あなたの心の中にお入りになった聖霊さまがあなたの中にこれもすでに入っている聖書のことばを光で照らし理解できるようにしてくださる。「アッ、これはこういう意味なんだ! これが今の私に与えられたおことばなんだ」と判断させ、心の網膜にはっきりと焼き付けてくださるのです。 「どのように祈ったらいいかも分からないこと」があなたにはありませんか。言いたいことがうまく言い表すことができない、もどかしさはありませんか。どうか聖霊さまを著者として迎えてください。「人間の心を探り極める方は」(27)とありますが、「探り極める」とは調査する意味です。あなたの心は調べられます。潜在意識の中の、自分でも意識していない願いを探り、父なる神さまのもとに届けてくださいます(26)。
このような困ったときに働く人をなんと呼ぶのでしょう。お仲人さんと言います。「言いようもない深いうめき」によって聖霊さまは神とあなたとの間を取り持ってくださるお仲人さんです。
私は今の勝利教会を開拓するときに現役のビジネスマンでした。営業課に属しておりましたが、私の頭の上を度々飛び交うものがありました。悪口でした両隣の席に座っている独身男女がお互いを非難することばでした。私とすれば頭の上の蝿のようなもので、追い払うこともできずに、「全く仲の悪いふたりだなー」とため息ばかりでした。でも仲が悪いと見たのは人間観察が浅かったのです。本当はお互いに関心があるのだけれど正直に表すころができなかったというのが真実でした。
さて、私にあるとき聖霊さまにより直感が働きました。 「彼女を2万円のフランス料理に誘いなさい」 「エッ?!」 「2万円も!」 「井上さん、それは高い。もったいないです。2千円ではどうですか?」 「ダメッ! 2万円にしなさい!」
こんなやり取りの2カ月後2人は結婚していました。男性も同じですが、特に女性は愛されていることの証明がほしいものです。しかも目に見えるものが。そこで私は2千円では安すぎると言ったのです。これが仲人の仕事です。
このようにウマク行った例は後にも先にも一回きりですが、私としては本当にうれしいことでした。聖霊さまは優れたお仲人さんです。期待して祈ってください。聖書がよく分かります。私たちには肉の思いがありますから、いろいろと言い訳をしたり、意地を張ったり、周囲への配慮を忘れていたり、あくまで自分の考えを押し付けようとしたりします。そうして聖書の指し示していることが、すなわちあなたに個人的に与えられているみことばの意味が分からなくなります。それは聖書にベールをかけたままでいるようなものです。
イエスさまを心の王座に迎えてください。聖霊さまがいよいよあなたの中に働かれます。
願い事を起こさせて、これに完璧な答えを与えてくださいます
あなたは前向きに生きておられますか。前向きであるかどうかは簡単にテストすることができます。どんな願い事をもっているかがその判断の基礎です。「これをください!」と言って前向きのように見えるけれども、実はそうではないこともあります。聖霊さまがあなたの中に働いて、しっかりと答えてほしい疑問というものがあります。何でしょうか。それは「何のために生きているか?」です。これを問わないのが動物です。イルカとかクジラとかを人間と同じレベルで考えたら間違いです。
欧米諸国はキリスト教的には堕落していますから、間違っています。私の家にシマリスがいます。ちょっと太り気味です。さてとてもかわいいのですが、見ていると私自身に疑問が湧いて来ます。 「なぜ、このオリの中にいなければならないの、毎日同じ動作を繰り返して空しいなとは悩まないのかな?」
人間なら必ず聞くに違いありません。 「なぜこんな狭いところに閉じ込められていなければならないんだ!?」。
私たちは聖霊さまに触れられるとこのような質問に悩むようになります。聖霊さまは完璧な答えをくださいます。 「神さまのため!」
造られた者は造り主のために生きるのです。今あなたは自転車をお使いかも知れません。
もしこわれたらどうなさいますか。もうどのようにしても使えないとしたら。きっとお捨てになるでしょうね。なぜ? あなたの役に立たないからです。あなたの包丁はよく切れますか。歯がボロボロになったらどうなさいますか。研ぐにも限度がありますね。研げなくなるほどひどい状況になったら? お捨てになるでしょうね。もちろんあなたの役に立たないからです。
自転車も包丁もあなたのために存在します。あなたは神さまに造られましたから、神さまのために生きます。これが分かる人は力強く生きることができます。人間である以上疲れることもあります。でも回復しやすい人はこのことが分かっている人です。
あなたは朝、バスに乗るとします。ところが行く先が決まってないとしたら、どうですか。元気が出ないですね。定年になって元気がなくなるのはこれです。あなたはあなたの人生の目的地をはっきりさせなければなりません。 「私は神さまのもとで生まれました。ですから神さまのもとに帰ります。その間、したがって私は神さまのために生きます」
と聖霊さまはあなたに告白させなさいます。このようなことは人から説得させられるような性質のものではありません。
私は神学校で説得学を講義することがあります。どのようにすれば人は「YES」と言うかを、共に考えます。でもこの種のことは一生懸命に説得すべきテーマではありません。本人が無理なく納得できなければならないものです。聖霊さまだけがおできになります。そこには歪みがありません。無理がありません。押し付けがありません。いやみがありません。私たちはお互いに決して無理強いしてはいけません。無理強いすると相手も自分も顔が歪んで来ます。聖霊さまがお働きになる場合だけが静かなかつ十分な納得を生み出します。喜びと感謝が伴います。
さあ、あなたはどのように聖霊さまにお取り扱いを受けるのでしょうか。まず、あなたは神の子にならなければなりません。「あなたはあなたの口を使って「私は神の子です」と告白してください。
「神のみ霊に導かれる人は神の子どもです」(14)。 「神を愛する人々、すなわち神のご計画にしたがって召された人々のためにはすべてのことを働かせてすべてを益をしてくださる」(28)。
このことばを告白するためにこそあなたの口はあります。さあ、聖霊さまのお声に耳を澄ませてください。「さあ、勇気をもって言ってみなさい」と語りかけてはおられませんか」
あるところで先生と弟子との間にこのような会話がありました。 「君、あの市場にいって私にとって一番良いと思えるものを買って来てくれないか」 「はい」
さて買って来たものは何だと思いますか。それは舌でした。 「君、では私にとって一番悪いと思えるものを買って来てくれないか」 「はい」
と言って、次に買って来たものは何だと思いますか。それも舌でした。 「君、これはどういうことかね?」 「はい。舌は良くもなれば、悪くもなります。使う人次第です」
その通りです。私たちは舌を使い、文句ばかり言うことができます。人をさばくことができますし、非難することも自由です。
「舌を制御することはだれにもできません(もちろん聖霊さまを例外として)。私たちは舌をもって、神にかたどって造られた人を呪います。賛美と呪いが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことはあってはなりません」(ヤコブ3:8〜10) とみことばにある通りです。
さて、ここに聖霊さまをお迎えする者に与えられる希望があります。「神さまの子どもです」とあなたをして聖霊さまが告白させてくださることです。ただしこのような場合でも選択権はあなたにあります。どうか正しい決断・選択をしてください。聖霊さまはあなたの前向きな決断・選択に対して祝福をくださいます。 このようにしてあなたが常に新しい人として歩めるのはあなたの中に宿る神さま、すなわち聖霊さまの助けによります。 新しいあなたの出発に神さまの祝福をお祈りいたします。
〔注〕・一般的に霊について紹介しましょう。
私に宗教学を教えてくださった宮家準教授の説明によると日本において伝統的に人生の行程はこの図のように円と考えます。
はじめにお母さんのお腹の中に誕生します。そのままスムーズに生まれ出て来れば何の問題もないのですが、ときに何かの事情でそうでないことがあります。堕してしまうとか、流産するとか、死産に終わるとかです。その場合には水子の霊(みずこのれい)と呼ばれます。次の期間は結婚までの間です。
通常結婚すると私たちの社会では一人前と見てくれます。そこでB時点まで生をまっとうできないで、たとえば交通事故に遭うとか、病気になるとかで死ぬ場合があります。するとその人は死霊(しりょう)になります。だんだん恐い話になって来ましたね。どうかこの部分は昼間のうちに読んでください(笑い)。
幸いにも結婚できて次の期間に入ることができたとします。しかしこのCまでの間でつまり天寿を全うするまでの間に亡くなるとどうなるか。それはさきと同じような理由になるでしょう。人は怨霊になります。
だんだん普段聞くような話になって来ましたね。この怨霊はやっかいな代物で、なにしろ気難しくて粗雑な取り扱いをすると祟ります。祟ることで有名な八つ墓村の友人がおりまして、ちっとも祟られないで今牧師をしております。ですから単なる作り話であることがそれだけでも分かりますね。しかし多くの人は祟りを恐れて供養や法事に励みます。
同じことが次の期間にも言えます。では天寿を全うした場合はつまり弔い上げの場合は、33回忌とか5〇回忌とか言いますが、ここまで来たらもう安心かというとそうではありません。子孫が供養をサボっていると幽霊になる可能性があります。「うらめしや−・・・・・・」。
ここまででいかに伝統的な霊についての考えが間違ったものであるかが分かります。というのは祖先は子孫の幸福をねたみ、呪ったりするというのですから。これほど先祖に対して侮辱的かつ失礼な考えはありませんね。聖書はどのように考えているのでしょうか。
もちろん先祖は子孫の幸福を願っています。興味のある方はルカの福音書一6章一九節から3一節にある例え話をお読みください。では弔い上げにまで行った場合にはどうなるか。通常は[祖先]神になります。菅原道真は天神、徳川家康は日光東照宮などでそれぞれ神として祭られています。
ちなみに漢語の神(シン)は祟りを起こす悪霊です。というわけで神になり損なった場合には妖怪になります