108.ふれあいの一時間
聖書箇所[マタイの福音書26章40、41節、6章6-15節]
1年10ヶ月になる一人の女の子を父親が小児病院に連れて来ました。体重は5ヶ月の、身長は10ヶ月の乳児なみでしかありません。這うことも話すこともできません。誰かが近付くと泣いて後込みします。入院後3週間経過しましたが、だれも彼女を訪ねてこないので不思議に思い、母親に連絡をとったところ、母親はこう言いました。「あの子は抱かれることをいやがります。ほおっておかれるのが好きなのです。赤ん坊は人間じゃあーない」。病院の検査によると何の器質的失陥や異常も発見されず、単に精神的身体的に成長が遅滞しているのみ、という結論がくだされました。医師たちの付けた病名は「母性愛欠乏症」でした。病院はボランティアの母親代理をつけ、週に5日間、1日6時間愛情をもって育てるようにしました。折にふれ、触り、なで、さすり、抱き締めました。2ヶ月後には彼女に感情反応が出て来て、どんどん体重も増え、歩くようになり、恐れずに人と接するようになって行きました。これは『第2のチャンス』という記録映画におさめれられている感動的な話です。
今日、自閉症の子どもに対する治療は治療者が抱くことから始まる、というのが常識となっています。肌の触れ合いは私たち人間にとって欠くべからずのものです。このようなことを書いて来たのはもう一つの不可欠の重要な触れ合い、すなわち霊(心の、と言ってもいいでしょう)の世界をご紹介したかったからです。私たちは神さまとの霊の触れ合いによって常に力や喜びに溢れて生活ができます。
ペテロはパフォーマンス、つまり人前でかっこ良く見せることが得意でした。でも、と言いましょうか、かえって、と言いましょうか、そばにいながらイエスさまと真の触れ合いができていませんでした。そのためにいざというときに失敗をしてしまいます。肉のがんばりやテクニックでない、霊的な備えが私たちには必要です。1日1時間祈りましょう。神さまと1時間触れ合ってください。まず天のお父さまという呼びかけから。そして・・・
御名が崇められますように
崇めるとは「褒める、拍手する、称える」といった意味です。父がどういうお方であるかを知って私たちはどのように崇めることができるかを知ることができます。ご紹介しましょう。
@ヤーウェ・ツェデクニュー「主は私たちの正義」(エレミヤ33:16)
−−「私は、私の過去・現在・未来のすべての罪が赦され、義とされました、感謝です!」
Aヤーウェ・シヤマー 「主はここにおられる」(エゼキエル48:35)
−−「罪の壁はなくなりました、私は神さまとじかにお話ができます、感謝!」
Bヤーウェ・ラファー 「主はいやす主である」(出エジプト15:26)
−−「主への打ち傷によって私の病は癒されました、感謝!」
Cヤーウェ・イルエ「主は備えてくださる」(創世記22:14)
−−「私は不足の呪いから解放されました、感謝!」
Dヤーウェ・ロヒ「圭は私の羊飼い」(詩篇23:1)
−−「死の影の谷(=試練)を歩いても安心です。主はどんな場合にも私を支えてくださる、感謝!」
御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように
国とは秩序のこと。ヘブル人は平行法という修辞法をよく使います。違う単語や言い回しで同じ内容を強調して言う時に使います。ここでは「御国が来ますように」と「みこころが行われますように」とは同じことです。ではみこころとは。喜び、平安、愛、信仰、寛容などを上げることができるでしょうか。その領域を考えて見ましょう。
- あなたの中に。いかがですか。
- 家庭の中に。こういう祈りはいけませんよ、「私の夫が変わるように」。どのような祈り方がいいでしょうか。「彼にとって私が良い妻であるように」です。夫婦、親子、友人の間で裁きあうことは避けなければなりません。だれも他の人を本人の意思に反して変えようとしてはいけません。変えることができるお方はこの世界でたった一人、神さまのみ。
- 教会の中に。祈ってください。教会の中にいつも笑い声が絶えないように。寛容さがあるように。教会の別名は温泉。そうです。温泉に浸かるようなここちよさ、これが必要です。
- 国家。日本もいまやどこへ向かったら良いのかが分かりません。指導者が魅力的な理念を掲げることができないでいます。「こんなふうな国にしたい」とはっきり言えないのは国が滅びる前段階です。指導者のために祈らなければなりません。
日ごとの糧をきょうもお与えください
あなたは物質的な経済的な必要を祈るべきです。そんなことは不信仰ではないかと考える方もいらっしゃいますが、それこそ不信仰。だれも霞を食べて生きているわけではありません。モノは必要です。お金は必要です。毎日の生活の上で必要としているものを願い求めてください。そして教会の必要のために祈ることも忘れないでください。福音を広く伝えるために、またそのための基地としての教会を新しく建てるために必要です。日本には7,000以上の教会があると言われていますが、まだまだ足りません。イエスさまを礼拝したい、多くの方々が新しく近くに教会が生まれるのを待っています。
私たちの負い目をお赦しください。私たちも負い目のある人たちを赦しました
マタイの福音書18章21節以下をお読みください。「君の瞳は100万ボルト」という歌がありましたが、あなたの罪は1万タラント(下記参照)。ここではイエスさまがいくつかのことを教えていらっしゃいます。
私たちはまず「自分こそが被害者である」という意識を持ちやすいものです。「私はほんとうにひどい目にあった」とか。しかしやがて気がついていき、「私にも悪いことがあった」と言えるようになります。しかしさらに成熟すると「実は私が犯した罪は第一義的に神さまに対するものであった」と分かるようになります。これがなかなか多くの人には分からないようです。
ペテロもそのような人々の中の一人です。パフォーマンス、すなわち人前で立派な人間であるようにみせることに執着しているとき、まだこのことが分かっていません。私たちの罪は神さまの前で非常に大きいのです。さらに赦さないことはその人を一生縛ることになり、それはだれにも許されない行為です。
私たちは神さまによって気前よく赦されたのだから、人を赦さなくてはいけません。もし赦さないでいると悪霊に付け入る隙を与えます。悪霊に縛られると私たちは霊的な精神的な自由を失います。私たちは人の罪を赦し、その人を許さ(許容し)なければいけません。一つ一つの罪を悔い改めましょう。このようなことを大事にする教会は立派な病院であり、多くの人々に癒しを提供することができます。
私たちを試みに会わせないで悪よりお救いください
ある種の力が働くと私たちは負けます。失敗します。ペテロは負けました。ある種の力とはサタンのそれです。高慢になったときに私たちはサタンを招いてしまうことを知りましょう。霊的な武装が必要です。エペソ6章14-17節から学び、何を信じたら、あるいは信じるべく祈ったらいいのかを知るようにしましょう。
- 真理の帯「イエスさま、おなたのおっしゃることは正しいのです」
- 義の胸当「私はあがなわれました」
- 足「私は主にあって何でもできます、行動できます」
- 大きい盾「私にはサタンに勝てる信仰があります」
- 救いの兜「私は永遠に救われています」
- 聖霊の剣「イエスさまは、今、私の中に生きておられます」
国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです
これは賛美です。祈りは賛美に始まり、賛美で終わります。神さまをたたえましょう。こうしてあなたの一時間はあっという間に過ぎ去って行くことでしょう。あなたの中に霊的な力がみなぎります。あなたの生活に神さまの豊かな祝福がありますように。
*マタイ18:21〜35 罪は1万タラント(=6000万円) 対100円
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