117.「種のたとえ」の秘密

聖書箇所 [マタイの福音書13章1ー23節]

 福音書はその3分の1がたとえで書かれています。福音書はイエス・キリストについて書かれた書物ですから、したがってたとえを理解しないと福音書を理解したとは言えないでしょう。
 今回は「種」のたとえの1つ、「種を蒔く人」のたとえを学びましょう。13章1、2節に注目して下さい。湖とはもちろんガリラヤ湖です。多くの場合そうですが、この湖の周囲にも一周する道路がありました。それは踏み固められた道路で4節のイエスさまのおことばを、足下の道路を見つつ、人々は聞き入っていたことでしょう。確かに「道ばた」に種が落ちても目を出すわけがありません。また見回せば容易に岩の土地(5)を視野に入れることができましたし、茨の土地(7)も、肥沃な土地(8)も同様です。ユダヤ人の住む生活環境を舞台に、まさに日常を舞台にイエスさまのたとえは語られます。
 このたとえの持っているメッセージは何でしょうか。それは、人生にはある種の試練がある、というものです。それを解く鍵は次の3つの語にあります。「種」、「蒔く」、「聞きなさい」。これらはワンセットでイエスさまによって使われています(13:9、18、マルコ4:9)。
 「聞きなさい」という言い方をされて、人々は何を連想するでしょうか。旧約聖書が舞台であることを思い出してください。ユダヤ人たちの話のやり取りであることを思い出してください。「聞きなさい」に続く文章があります。申命記6章4、5節をお読み下さい。もうお分かりでしょう。このたとえが教えていることは、すなわち次のようなことです。「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして」種を蒔くならば、30倍、60倍、100倍の身を結ぶ。でも「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして」ことは一種の試練なのです。

心を尽くして

 思考と知力の中心は心にあります。心を開けば思考も知力も存分にその能力を発揮します。心を開いた状態とは簡単に言えば、それに興味がある状態であり、「好き」の意識です。私たちは「好き」な人や事には心を開いているし、「好き」でない場合には閉じているものです。私は数学が苦手です。したがって数字を見ると頭が痛くなり、思考も知力も働きにくくなります。でも語学になるとがぜん張り切るのです。外国語が好きで好きでたまらないのです。複雑な語尾変化などを覚えるのにそれほど苦にならません。私の心は語学に対して充分に開いています。
 ところで「好き」の世界は「好き嫌い」の世界であって、感情そして欲望の世界です。「心を尽くして」とは欲望をコントロールして、神さまのご栄光を表すためにあらゆる事をしなさいの意味です。
 参考までに「好き嫌い」の世界を中心に生きている者を何と呼ぶでしょうか。子どもと言います。子どもをほおっておくと、甘いジュースやお菓子の類いしか口に運びません。親たちは栄養のバランスを考えていろいろと助言をします。不味くても苦くても食べなければならないものはあります。「好き」でも自制しなければならないことがありますし、「嫌い」でもしなければならないことがあります。これは意志の世界のことであって、この世界で生きる者を大人と呼びます。
 今、あなたに「心を尽くして」、すなわち欲望をコントロールして、神さまのご栄光を表す生き方が期待されています。「道ばた」に落ちた種は心を開かなかったのです。

精神を尽くして

 「精神」とは命のことです。したがって「精神を尽くして」とは、「命を賭けて」です。岩地(5)に覆いかかっている土の量はわずか。したがって芽を出しても、すぐに枯れます。「信じますか?」と質問されて、いとも簡単に「信じます!」と言い、少しの困難があると信じることを止める者がいます。みことばと信仰に「命を賭けて」いません。
 ところで命は最も大事なものである、という言い方があります。本当にそうでしょうか。命よりももっと大切なものがあるのではないでしょうか。その大事なものに「命を賭ける」からこそ命には価値が発生するのではないでしょうか。はっきりと申し上げましょう。真理や正義は命よりも大事なものです。

 1980年にイラン革命があり、クリスチャンたちはこの時期に迫害されました。ハッサン・デカーニ・タフティ聖公会主教は家族ともども国外追放処分を言い渡されました。退去の直前、息子バーラムは車から引きずり出され革命部隊のメンバーにより殺されました。お父さんが残した祈りを『殉教者たちの祈り』(いのちのことば社)から一部私訳を交えてご紹介しましょう。

 おお神よ、私たちは自分の息子のことだけではなく、息子を殺した者たちを忘れることができません。それは、息子が青春の一番素晴らしい時期に殺されることによって、私たちの心が血を流すような痛みを覚え、涙の涸れることがないからではありません。彼らがこの残虐な行為によって祖国の名をさらに汚し、世界の文明国の間で恥となったからでもありません。彼らの犯罪を通して、自分を犠牲としてささげるというあなたの足跡に私たちが以前にも増して近付くことができたからです。この悲しみの火は、私たちのうちにあるエゴイズムや所有欲をすべて燃やしつくしてしまったのです。またその炎は、人の本性がどれほど堕落し、かつ卑屈で欺瞞に満ちているのか、憎しみがどれほど深く、また罪が根深いかを明らかにしています。…途中略…おお神よ、私たちの息子のいのちによって、私たちの魂という地には御霊の実が増し加わりました。それゆえ裁きの日には、彼を殺した者たちが御前に立つ日には、彼らが御霊の実によって私たちの生涯を実りある豊かなものとしたことを覚えていてください。そして彼らを赦してください。命を賭けるものを持っていることはなんと幸せなことでしょうか。

力を尽くして

 13章7節をご覧下さい。茨とは特定の植物を指すわけではなく、要するに役立たずの迷惑しごくの植物の総称と考えて良いでしょう。しかし茨と言えども成長できるのですし、ここに落ちた種にも将来はあるはずです。しかし・・・。力とは何でしょうか。この世の栄誉、富みを指します。「力を尽くす」とは全ての栄誉と富みとは神さまに属するの意味です。
 もしあなたがそのように受け止めなさるならば、どんな良いことがあなたにはあるでしょうか。あなたはあなたの人生の決定権を自分のものとすることができます。というのは多くの人々がいとも容易に自分の人生を他者に委ねてしまっています。すなわち人の目を気にし過ぎます。このように考えたら人はどう思うだろうか、こんなことをしたらどのように思われるだろうかと。
 あなたはあなたの人生を周囲の人々に委ねたいですか。世間に自分の進むべき道を決めてもらいたいですか。ピリピ人への手紙2章13節をご覧下さい。「少年よ、大志を抱け。キリストにあって」とはあの有名なクラーク博士のことばです。あなたには、聖霊さまがあなたの人生をすばらしいものにしてくれるための志、すなわちアイディアが豊かに与えられる、という約束のことばです。
 しかし注意して下さい。そのあなたは自らの人生への決定権を放棄していないあなたでなければなりません。自分の人生に関して自分の意志で決定できなければなりません。そうであってこそ聖霊さまはあなたに語って下さいます。どうか茨に負けないで下さい。

再び問います。このたとえの意味は何でしょうか。2つあります。

 一つは私たちの人生には試練が在ること。もう一つは試練に耐えることによって、30倍、60倍、100倍の実を結ぶということです。
 どのように耐えるかは、もう学びました。「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして主なる神を愛する」ことです。このイエスさまのメッセージを聞いていた人々は自分たちの先祖が荒野で過ごした40年に思いをはせていたでしょう。モーセに率いられ、様々なことを経験しました。食料不足、飲料水不足、仲間うちの争い、偶像騒ぎ、クーデター、敵の攻撃、野獣の襲撃などなど。でも人々はこれらの試練を通して砕かれ、(子孫においてですが)ついに約束の土地に入ることができました。
 当のイエスさまにおいてはどうでしょうか。マタイの福音書4章1−12節をご覧下さい。3つの試練は欲望、命、世の富みに関するものであることが分かります。でもそれぞれに対して完璧に勝利なさいました。これは私たちにとって模範です。カギはどんな場合にも「心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、主なる神を愛する」こと、すなわち神さまへの誠実を貫くこと。
 トラピスト修道院の神父さんがある男性の告解(罪を告白すること。後に赦しを宣言してもらえます)を聞きました。「実はひもを盗んでしまいました」と彼は告白しました。「それなら、心配しないで、あなたにそれをあげますよ」と神父さん。彼はこう続けました「ありがとうございます。でもひもの先には一頭の牛がつないであったんです」。

  私たち罪人の性質をよく表した話ではないでしょうか。自分の失敗を小さく見せようとする傾向です。そして下地には人の目はごまかせるという思いがあります。神さまの目をあまり意識してはいないし、信仰の世界で生きているとは言えません(正直に告白した人が、ではありません)。人を攻撃する人がいます。なぜ攻撃をするのでしょうか。もちろん理由があります。人を低めて自分を相対的に高くしようとしています。事実に変更はありませんから、人々の目をごまかす試みと言えます。神さまの前で生きる生き方ではありません。神さまへの誠実はありません。

 アウシュビッツに収容された人々の間に衝撃が走りました。明日、1400人の少年を処刑する、という発表がなされたからです。息子がその中に含まれていることを知った一人のお父さんは看守に泣き付きました。「金でも何でもあげるから、私の息子を助けて!」。看守は言いました。「1400人と言う数字は変えられない、でもたった一つだけ方法が在る。あなたの息子の代わりを一人連れて来なさい」。お父さんはラビ(キリスト教でいう牧師)に聞きました「先生、聖書はこれについて何と言っていますか?」ラビは答えました、「私には答を見つけだすことができない」。

 そうです。人生には答を出せない問題があります。息子をそのまま死なせても、代わりを見つけてきても(果たして自ら進んで死のうとする者がいるでしょうか。イエスさまの身代わりの死に思いが向きます)、いかなる人もこのお父さんの決断を批判できないでしょう。このお父さんにとって大切なことは神さまの前に誠実であったかが問われるのみです。ここに神さまの前の「個」の問題があります。「個」が誠実を尽くす場合の主役です。そして「個」は神さまの前で生きる人の事です。こういう人は30倍、60倍、100倍の実を結びます。


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