125.宗教的ストレス

聖書箇所 [詩篇32、51篇]

 人間の自然治癒力を妨る、外部からのトゲとなるのがストレスだ。自意識が強ければ強いほど、その威力は増すのかもしれない。とにかく「ストレス社会」と呼ばれる現代には、あちらこちらにトゲがある。
 ストレスとは元々、物体に外部から力や刺激を与えた時に生じる歪みのこと。カナダの生理学者セリエは、この言葉を生体に応用して独自の学説を唱えた。つまり、ストレスとは何らかの刺激(ストレッサー)によって心身にかかる”負荷”であり、それは
@暑さ、寒さといった物理的なもの
A飢餓・過労などの生理的なもの
B人間関係や仕事の挫折ほか、社会・心理的なもの
に分けられる。
 アメリカの精神科医ホームズとラーエは60年代に、生活上のストレッサーを43項目挙げて、点数化した。彼らによれば「配偶者の死」が最高の100点。以下「離婚」(73点」、「別居」(65点)、「家族の一員の死」や「服役」(63点)、「病気やけが」(53点)と続く。最も低いのは「法律上の軽い違反行為」(11点)だった。(小林敬和「心のメカニズム」『読売新聞』1998,9,26)

 以上のようなストレスが克服されなければ、確かに私たちは落ち着いた生活をすることができないでしょう。しかし上記の3つの他に、さらに深いレベルのストレス、すなわち宗教的ストレスを聖書は教えているので、今回はそれを学んで行きたいと思います。テキストは詩篇32篇(および51篇)です。背景はサムエル記第211章1節以下です。

罪責感[3-4]

 ダビデはとても大きな罪を犯し、それを深く悔いています。マスキールとは「教訓詩」です。ダビデは私の苦い経験から学んでほしいという気持ちでこの詩篇を書きました。もちろんこれが聖書に収録されているのは神さまの思いも同様であるからです。
 それにしても人妻を引き入れ、彼女の夫を邪魔だからといって死なせてしまうというのは尋常ではありません。背景はサムエル記第211章1節以下でお確かめください。はじめ彼は自分のしていることは分かりませんでしたが、預言者ナタンの指摘(サムエル記第212章1節以下参照)によって目を覚まします。そうして魂の煩悶と葛藤が恐ろしいまでに彼を襲います。彼の苦しみをこの2つの詩が表現しています。彼の具体的な罪が結局は自己の存在の疑問にまで進む、ということに注目して下さい。詩篇51篇5節はそれを表現しています。
 あなたにもその種の経験はありませんか。人を言葉で傷つけてしまって、「どうして、あんなことを言ってしまったのだろうか!?」と悔やみ、しかしそれだけに止まらずに、「こんな私、生まれて来なければ良かった!あーあ」。
 なぜ、当該の罪への悔いだけに終わらずに、自己の存在への疑問にまで発展するのでしょうか。それは潜在意識あるいは無意識の中に「私は重い罪をかつて犯してしまっている!」という記憶が残っているからです。
 そうです。私たちはアダムにおいて罪をすでに犯しています。原罪と言います。創世記3章1節から7節の出来ごとを指します。ローマ人への手紙5章12節から21節もお読み下さい。アダムが罪を犯した時に私たちもすでに彼の中にいた、というのが聖書の説明です。私たちは意識の世界においてはこのようなことは承認できません。でも潜在意識あるいは無意識はそれを知っています。

 このような宗教的ストレスはいかにして解決できるでしょうか。これはたった一つの解決法があるだけです。それは、「赦される」だけ。しかも唯一、罪の赦しの権威をお持ちになる方によって。イエス・キリストのあがないを通して。
 実はこのようなストレスは恵みです。というのはある具体的な罪をきっかけにして原因へメスをいれてくれるからです。どうかきっかけと原因とを混同しないで下さい。
 たとえば(以下は伝統的な学説です、最近は胎児の時期に自我は形成されるとも言われています)、自我形成される期間である生後8ヶ月から1歳半の間に固着点(母親との葛藤)があると精神分裂病になる素地を、1歳半から3歳の間に固着点(母親との葛藤)があるとそううつ病、3歳から6歳の間に固着点があると神経症になる素地を作ると言われています。やがて思春期になる、引っ越しをするなどというきっかけ(これがきっかけです)があると発病します。原因は固着点にあります。きっかけはあくまできっかけであって原因ではありません。神さまはあなたを愛して原因にまで遡って癒してくださいます。

失敗への恐怖[6-7]

 世界中どこに行っても宗教はあります。どんなに文明化されても宗教が消えてしまうことはありません。それは人間の心から不安が消えないからです。その不安とは失敗への恐怖です。ちなみに私の友人に宗教団体の会員証を7枚持っている人がいます。運転手をしているのですが、いざと言うときにどれか効くかも知れないからというのが理由であると教えてくれました。
 「私はこの仕事で失敗するから知れない」、「私は結婚生活に・・・」などなど、数え上げればきりがありませんが、根底には個々の失敗への恐怖ではなく、人生自体への失敗を恐れている心の世界の存在があります。
 ダビデははじめの一つの罪を犯して、さらに恥の上塗りのようなことをしています。なぜかと言いますと、この恐れがあるからです。はじめの一つの罪で終われば(もちろん罪はあくまでも罪ですから、小さいからと言って見逃されていいわけではないし、ダビデの罪は実際問題非常に大きなものでした)、その解決も比較すれば軽いものであったはずです。でも彼はさらに重い罪へと突き進みます。ここに潜在意識あるいは無意識の働きがあります。
 潜在意識あるいは無意識は恐れています、「かつて私は一度失敗している。また失敗するかも知れない」と。その一度とは「禁断の木の実」(創世記3:6)を食べたことです。一度あることは2度ある、2度あることは3度あるとつい考えてしまうのが私たちでしょう。祝福された人生からアダムとエバはこうやって追い出されました。

 このようなストレスからどのようにして解放されるのでしょうか。
 2つの提案があります。
 1つは失敗から多くのことを学ぶことができるということ。物事がうまく運んでいる時に私たちは学ばないものです。まして高慢なときには。失敗は成功の素と言います、神さまに感謝して下さい。
 2つ目は、今の失敗があなたの人生を結論づけるような最終的な失敗ではないということ。そうなんです。ここのところが重要です。こう言われれば、「そうだ!その通りだ!」ときっとあなたはうなずかれるでしょう。でも失敗の渦中にあるときにおうおうにして私たちはこのことを忘れるのです。
 思えばイエス・キリストの地上の歩みも失敗だらけと言ってもいいのではありませんか。郷里では無視されて奇跡を提供できず、重い皮膚病患者10人を癒されたのにたった1人から感謝されただけでした(ルカ17:11-19)。さらに手塩にかけて育てたはずの弟子たちは十字架に付けられた時には、くもの子を散らすようにして逃げ去って行きました。イエス・キリストはみじめにも裏切られたのです。一番弟子ペテロも、信頼していた会計係のユダも裏切りました。
 でもこのような失敗のすべてがひっくり返る時がやって来ました。イエス・キリストのよみがえりの出来事です。弟子たちは変身しました。すっかり変わってしまいました。初代教会は破竹の進撃を続け、とうとうローマ帝国はキリスト教の軍門に下りました。
 今の失敗はやがて来る大きな成功への序曲です。人が堕落した時にすぐに神さまは私たちの正常な状態への回復を預言し約束してくださいました(創世記3:15の罪を原福音と呼びます)。失敗しても、回復を信じる者には必ず祝福があります。

疎外[8-11]

 ダビデがバテシバを奪ったのはどんな理由からだったでしょうか。夫を殺すまでに至ったのはなぜでしょうか。彼自身の欲望を満たすためでした。2人ともダビデのための道具でした。これを疎外すると言います。これは人間の倫理に反します。他の人の存在を自分の欲望達成のためと理解することは。でも罪人である私たちはついしてしまうことでもあります。「あの人は私にとってなんの役に立つかなあー」という基準でしか人を見ないのです。
 潜在意識あるいは無意識はそのような種類の行動を以前学んでしまったのです、堕落の時に(創世記3章11ー参照)。そのあかしは責任転化です。アダムは神さまから追求されて「エバが悪い!」と抗弁しました。エバは「サタンが悪い!」と言いました。アダムはエバに、エバはサタンに「私の期待通りになぜ動かなかったのか」となじっているのです。
 私たちは近くにいる人をなじる相手としてではなく、「神のかたち」(創世記1:26、27を持ったかけがえのない、世界で唯一の、オリジナルな存在(コピーは汚れれば捨てられてもいいのです)として尊重したいものです。もしそうすることができれば、私たちは疎外されることはありません。「寂しい!寂しい!」と訴える人がいます。その理由は人を疎外しているからです。「私のために働け!」とばかり求めているからです。「与える者は受けます」。疎外を人に与える者は人から疎外を与えられます。

 さあ、このようなストレスからどのようにして解放されるでしょうか。32篇8節から11節までをお読み下さい。「悟らねば」(8)なりません。現代は聖霊さまのお働きによって悟ることができます。
 何を悟ればいいのでしょうか。「喜び」です。「楽しみ」です。簡単に説明しましょう。ロマンの共有です。あなたが一人喜ぶのではなく、近くにいる人にも一緒に喜んでもらうのです。最近ミスコンテストで優勝した人がこう言いました。「この弱さが私を強くしてくれました」。私は感動しました。彼女は不治の病持ちです。もし単に「うれしい!」という感想であるなら、今や水着コンテストには批判がある時代です。決して良い印象を与えなかったでしょう。でも「病という弱さが私を強くしてくれました!」ということばは、聞いた人みんなを励まし、そして彼らに彼女のロマンを共有させたでしょう。

 日常に多少のストレスは役に立つ場合もあるでしょう。でも特に宗教的ストレスからは解放されなければ決して幸福にはなれません。解放されて永遠にまで平和な喜びに満ちた毎日を過ごされるように主の名によって祝福致します。


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