128.祝福とは何か?
聖書箇所 [民数記6章22−27節]
主は祭司たちに向かって、「あなたがたはイスラエル人を次のように祝福しなさい」と命じられました。それが24−26節です。これは今あなたにも向けられています。旧約聖書学者によると次の3つに分類できると言われています。(新改訳聖書で太字の主とはヤーウェであり、私たちの信じる神さまのお名前、固有名詞です。普通名詞は神、エルなどと言います。いずれもヘブライ語です)。ヤーウェがあなたを祝福してくださいます。精一杯祝福を受けるために学びましょう。
物質的祝福[24]
2つのメッセージがこの節には見られます。物質的に経済的に祝福される、および守られる。前者は理解できます。そのまま「ありがとうございます」と言いましょう。では後者は?ここには人間の心を見通したヤーウェのお心があります。すなわち物や金銭が私たちを不幸にする、言い換えればそれらにコントロールされる可能性があるということをおっしゃっています。
一人の青年の話をしましょう。彼はその業界では成功者の一人として非常に知られた人でした。その業界とは証券業。経済は右肩上がり。彼の収入も増すばかり。彼は同僚たちの中でもトップクラスに入っていました。だれからもうらやましがられました。大きな庭付きの家を買い、高価な車を買い、ヨットまで手に入れました。ところが彼は突然職から離れてしまったのです。もちろん家族からも友人たちからも大きな驚きと好意的ながらも批判も受けました。彼は郊外に小さな家を買い庭木をいじる生活を始めました。思いました。「これが生きているってことだ!毎日毎日時間に追われ、数字とにらめっこ。いったいおれはあのときどこにいたんだ。死んでいたんじゃあーないか。今は生きているぞー」と。心も穏やかで草木まで彼を祝福してくれているような印象を受ける充実した生活を楽しんでいました。ふと彼は思いました。ステンドグラスを作ってみようかな。通り掛かった友人ができあがった作品を見て、「これを譲ってもらえないだろうか。とても気に入った!」と言いました。以降口コミで次々に注文が入るようになりました。一人ではこなしきれないので新たに職人も雇い入れました。次には会社組織にし、生産会議を開くようになり、再び時間に追われる生活になってしまいました。彼は言いました。「なんてことだ!同じことをまたやってる」。
彼の訴えとは何でしょうか。「私の人生の主人公はだれか?」です。あなたの人生の主人公はだれですか?簡単に「私です」と言えないのが私たちの現実ではないでしょうか。何かにコントロールされています。何かとは物であり、金銭です。コントロールされることから守られますようにというのがヤーウェのあなたへの配慮です。鍵はヤーウェがあなたを祝福してくださったことへの理解です。私が自分の力ですべてを達成した、というのは誤解です。この誤解が私たちを物や金銭の奴隷へと導きます。ヤーウェがくださったと分かれば、ヤーウェは何を期待しておられるだろうかと考え、それは他者を喜ばせることだと理解できるでしょう。またそのことのためには自分をも楽しませることができなければ不可能だとも思いは進むでしょう。みことばをあげましょう。
彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第2の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この2つの戒めにかかっているのです。」(マタイ22:34-40、レビ記19:18、申命記6:5)
どうか「ヤーウェがあなたを祝福し」てくださっていると信じてください。あなたの生活において受けたすべてがヤーウェから与えられたものです。給料、職場、家庭などすべてです。あなたはあなたの人生において主人公になれるでしょう。物や金銭に使われないでそれらを使う者であり続けるでしょう。
知性的祝福[25]
ヤーウェの御顔は太陽のようですから、照らされた者の外面は明るく輝きます。ところで私たちは信仰の世界で学ぶこととして内面的な世界の充実を考えているでしょう(第1ペテロ3:1-などを参照-)。
するとこの外面の輝きはどんな意味があるのでしょうか。外面と内面とは無関係ではないと言っておきますが、出エジプト記28章2節以降をお読みいただきますと、ヤーウェに仕える祭司たちの衣服がなんともきらびやかなこと。宝石類もたっぷり。
もう一つ忘れてならないのは世界初の衣服家さんはなんとヤーウェであられたことです。創世記3章20節をご覧下さい。衣服はレブーシュとヘブル語では言いますが、一説にはロー・ブーシュが起源と言われます。ローは「〜でない」の意味ですから、全体では「恥のない」の意味です。ヤーウェは罪を犯し恥ずかしく思っている(創世記3:7)アダムとエバを衣服で包んでくださったのです。なんとやさしいヤーウェでしょうか。
しかしここにヤーウェのもう一つのお心を知らなければなりません。それは「私が外面をきれいにする、あなたがたは自らの内面を磨かなければならない」というメッセージです。内面の働きは2つです。一つは、正しいものを正しいとし、正しくないものを正しくないとする、もう一つは感謝すべきことを感謝する。以上は知性的な働きです。あなたにはこの知性的な祝福がより一層豊かに与えられるというのがヤーウェのお約束です。ちなみに不平を言ってはいけないと言っているのではありません。
旧ソ連から自由の国に亡命した人のやり取りをご紹介しましょう。「ソ連における生活についてはどうでしたか?」「なんの不平も言いませんでした」。「教育面ではいかがでしたか?」「なんの不平も言いませんでした」。「何か日常生活で困っていたことは?」「なんの不平も言いませんでした」。「それなら、なぜ亡命したのですか?」「不平が自由に言えるからです」
不平が言えることは大切なことです。もし不平を言ってはいけないというなら私たちは祈ることができないでしょう。民数記11章1節にイスラエル人が不平を言い、ヤーウェがお怒りになった事件があります。正確には不平を言ったからではなく、不平家であり扇動家であった彼らに向って怒られたのです。現に人々が食べ物がない(出エジプト記16:3、4)、水がない、飲める水ではない(出エジプト記15:23-25)と不平を言ったときにはその希望にすぐに応えてくださいました。常にぶつぶつ言っているのはよくありません。でも意見を言い、願い事を言うのは良いことです(マタイ7:7-11)。ヤーウェがあなたの外面を輝かせてくださっています。感謝してヤーウェの期待に応えて内面を磨きましょう。聖霊さまがあなたを助けてくださいます。今日ヤーウェは私たちの救い主イエス・キリストとともに聖霊さまをあなたに送り、正しくないことをやめさせ、罪を悔い改めさせ、正しいことをするように励まし、力を与え、感謝する心を常に持つことを導いてくださいます。
精神的霊的祝福[26]
出エジプト記32章1節以下に記されている事件、イスラエル人が金の子牛を拝んだことは彼らの歴史において最大の汚点と言えるでしょう。これは同時に彼らの、そして私たち人間の恩知らずという性質を教えてもいます。ヤーウェは激しくお怒りになりました。しかしここでモーセが命をかけての助命嘆願をします。11ー14節をお読みください。感動的な場面です。ヤーウェはあわれみを示してくださいます。このあわれみこそが精神的霊的祝福です。あなたにも与えられます。
旧約聖書では少なくとも36回は「外国人に親切にしなさい」とあります。出エジプト記23章9節や申命記10章18節などを参照してみてください。外国人は他人の畑に入って摘んで食べてもいいし、畑に残された実を持ち帰ってもいいのです。私たちは外国人に対して親切でしょうか。ヤーウェがおっしゃるには「あなたがたもかつてはエジプトで外国人であったでしょう。その弱かったときのことを辛かったときのことを思い出しなさい」です。今日私たちは自らの弱さを思い起こさなければなりません。
一人の青年がスーパーへ買い物に出かけました。着いてみるとなんと出入り口の真ん前に車を停めてあるではありませんか。彼は激しい憤りを感じました。「なんと非常識な人だ!」と。近づくと一人の女性が松葉づえをついて出て来ました。彼の思いはいかばかりであったでしょうか。
バスには一人の美しい女性が座っていました。だんだんと込み合ってきて座席はすべて埋まりました。彼女の前にはお年を召した女性がつり革に掴まり、バスが揺れる度に周囲の乗客たちは目の前の美しい女性に目が行きました。でも彼女は一向に立ち上げる気配を示しません。やがて彼女が降りる停車場に車は停まりました。すると隣に座っていた人がやおら立ち上がり彼女を抱きかかえ、そして降りて行きました。乗客たちはだれもが恥ずかしい思いをしました。
これが私たちの弱さです。背後にある事情をなかなか想像できないとか。弱さは罪ではありません。でも弱さは大抵罪に繋がります。森光子という女優をあなたはご存じでしょう。彼女は芸能界で成功するための3つの条件を、才能、運、忍耐と教えています。特にこの中で運が最も重要だそうです。タレントを養成する種々機関がありますが、タレントにチャンスが与えられた時にすぐに応答できるか、だそうです。風をひいていたとか、けがをしていたとか、どんな理由でもいいからそれを生かすことができないといかに才能があっても2度目のチャンスは与えないそうです。「運がない人」と見られることはこの世界では決定的なことのようです。ところが彼女はこの「運のない人」でした。ちょうど運が向いて来た時に2年間も肺結核で入院を余儀なくされました。でもあなたがご存じの通り、彼女は押しも押されぬ大女優。彼女はもう一度のチャンスをものにしました。これは十字架の精神、福音の精神です。あなたに罪があります。でもイエス・キリストはそれを私に渡しなさい。あなたはもう一度生きてみなさい。もう一度試みてみなさいとメッセージを送っています。あなたはそれを受け取りますか。もし受け取るなら、すなわちあなたがまずあなた自身に寛容でありあわれみ深いなら、他の人にも同様にできるでしょう。ヤーウェから3つの祝福を受け取ってください。
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