129.放蕩息子の真相
聖書箇所 [ルカの福音書15章11−32節]
善良な夫婦がいました。若い頃から苦労をして来たので使用人にも思いやりのある人たちでした。彼らに2人の息子がいました。この家庭に起きた一つの出来ごとを中心に展開される、通常放蕩息子の話と言われるものを学んで参りましょう。
人間の中に影がある
できの良い兄と悪い弟、こう聞いただけで何かが起こりそうと予想させますね。カインコンプレックスと言われるものをご存知でしょうか。創世記4章1−16節で展開されている事件に因んで名付けられました。できの悪い兄カインができの良い弟アベルを妬んで殺してしまった、あの一件です。親しい間柄における葛藤を指します。一般に兄は両親が子育てが初体験なのでおそるおそる育てる関係でおっとり育つと言われていますね。それに対して弟は親としても多少なれて来て、子供の側からするとわりと自由に動き回れ、発想も奔放的になれる環境です。
さてできの良い兄と悪い弟、こういう関係は比較的安定性はありますが、反対だった場合には葛藤が先鋭化がしやすいと言われています。今回学ぶケースでは前者ではありますが、話の展開はほとんど弟息子単独に焦点が当てられております。それでも危険な関係が生じていることには違いがありません。
何が原因でしょうか。ある学者たちは「黒い羊の仮説」を唱えています。親は「無意識のうちに片方を白い羊、黒い羊に分けている」と言うのです。これは本当でしょうか。それなら親が悪いと言えます。私たちは犯人捜しが得意です。困難に陥った時に、「誰が悪い?」と目をさらのようにして、捜すのです。でも少なくともこの話からはこのような思いを正しいこととと導き出すことは出来ません。なぜならばここで父と言われる者は私たちの神さまであるから。神さまに育児の失敗などあろうはずがないから。でも、そうは言っても。そうですね。つい犯人を捜したくなります。
精神分析学者のユングが人間には光のみならず影があると言っています。光と陰、美と醜、生と死。確かに、美しい芸術を生み出すのが人間であるならば、砒素をカレーに入れるのも人間。ガラテヤ人への手紙5章22節に約束されているすばらしい実の数々、しかし一方では汚れたものも列挙されております。
投影という心理学の用語をご存じでしょうか。人が他者をさばくときに、自分の中の嫌いな部分をそのまま相手に投じることです。相手の人はそれゆえにさばかれます。実際の所、自分の罪を投影しています。
イエス・キリストはさばいてはいけないとおっしゃいました。それは「他者を」ではありますが、実は「自分を」さばくことから出発していると知らなければなりません。ともに神さまのみ心ではありません。でもキリスト教は禁欲主義ではありません。神さまは代わりの攻撃対象を用意してくださいました。それが御子でした。「あなたは私の御子キリストを傷つけてよろしい。ゆえにもはや自分を傷つけることはやめなさい」とおっしゃっておられます。
人間は自立を試みる
ある日、弟息子が生前にもかかわらず、財産を分けてほしいと父親に言い出しました。きっと律法の規定に従って父親は渡したのでしょう。弟は兄の2分の1でした(申命記21:15-17)。それでもこれが尋常の事ではないことは確かです。ではなぜ父親は許したのでしょうか。父親は大きな心で、上手ではないが、また非常識ではあるが、自立しようとしている弟息子を見ていたからです。ちなみに兄は自立をまだ考えていません。
中学生を過ぎますと、長電話をしたりし始めます。内緒話が多くなります。秘密を持つ、これは精神的自立の一歩です。親は気がきでないのですが、あたたかく見守らねばなりません。詮索してはいけません。「だれ?」、「何の話?」などなど、しつこく聞いてはいけません。自立しようとしています。でも親は詮索したい、そういう気持ちは私にも分かります。一つは自分の元から離れて行くことの怖さ、あるいは寂しさ。もう一つは非行に走る恐れ。ともに勇気と信頼をもって乗り越えなければなりません。
今の日本と言う状況を考えると自立がしにくいと言えるのではないでしょうか。少子化、いつまでも権力の座から降りようとしない老人たちなど。いったいこれからの日本を背負う者たちはどうやってリーダーシップを磨けばいいのでしょうか。私はいまこそキリスト教会がその存在をアピールすべきであると考えています。会員たちが自由な発想で、年功序列などさまざまなしがらみを破壊して、御霊に導かれて、教会という一つの社会を作り上げていくのです。そのような教会の中でこれからの日本を背負うリ−ダーは訓練されて行くでしょう。
人生に飢饉はある
「湯水のように」(13)と弟息子のお金の使い方が表現されています。これは本来は羊を散らすときに使われました。羊は臆病でちょっとした、物音で散ってします。そして一度散ってしまいますと集めるのが大変。私たち人間のようですね。一度傷つけられるともう近づかない。近付けない。羊は人間を指しています。
さて弟息子は新しい世界に浸りきっています。彼にとってすべてが新しかった。出会う人々も旅人として彼を歓迎をしてくれました。律法の規定にもそうあります。旅人は歓迎されなければならないのです。でも彼はいつまでも働かないのです。これは人々の軽蔑の対象になるまで余り多くの時間がかからなかったことを意味しています。人々は彼からだんだん離れて行きます。運悪く飢饉がやって来ました。泣きっ面に蜂とはこのこと。一番助けて欲しいときに、もはや彼のそばにはだれもいません。悪銭身に着かず。悪友たちは金の切れ目が縁の切れ目とばかりに去って行きました。彼は豚の食料で生きなければならない窮地に陥りました。豚は当時は汚れた動物で、彼はこう嘆いたでしょう。「俺は軽蔑され、何の期待もされない動物の食料で生きるのか!」。彼は自分の存在に疑問を持ちました。「自分が生きることは誰からも期待されていない!」と考えました。「もう死にそう!」(17)と言っています。精神的飢饉がここにはあります。あなたにはありませんか。きっとおありだったでしょう、あるいは今。でもこのような事は父親は先刻承知だったのです。彼には豊富な人生経験がありました。父親とは神さま。
あなたは試練に感謝しなければなりません。それは良いものです。そう思えない?!きっとそうでしょう。でも良いものなのです。なぜなら神さまの御手の中で起きていることだから。ではその間、あなたの中に何が起きている?あなたの中にはエネルギーが貯えられています。生のエネルギーが。さあ、このエネルギーはどこへ向かう?
父は帰って来るのを待っている
彼は我に帰った。不思議です。同時に彼は父親を思い出しました(17、18)。いや、不思議でも何でもない。私たち人間には「神のかたち」(創世記1:26、27)が本来備えられているのだから。ただし壊れています。故障しています。私たちは神さまを信じない者たちであっても、人生に少なくとも2度は神さまに話しかけると言われています。一つは苦しいときの神頼み、もう一つはとってもうれしい時、考えられるだけの人に話してしまい、もはや嬉しさを伝える相手がいなくなってしまった時。これは当然。
私たちの中に存在するものは、壊れていると言っても「神のかたち」は「神のかたち」。でも、神と呼ばれるお方がほんとうの所、天のお父さまであるとは中々認識できないもどかしさはあります。しかし神さまによる干渉があれば話は変わって来ます。悔い改めが起きるからです。
弟息子に悔い改めが起きました(18、19)。19節から24節は非常に感動的な場面ですね。涙が止まりません。履物も無かったでしょう。ぼろぼろの衣服で、体は臭くて、のみとシラミだらけ。でもお父さんはそんなことお構いなし。大宴会の始まり、始まりーっ。最高の衣服も用意されました。なんと寛大なお父さんでしょうか。これがあなたの神さま。
でも一つ残念なことがあります。兄は不満です。25節以下をお読み下さい。彼は真面目な人です。でも真面目であることはそれほど高く評価される徳ではありません。ボスから言われた通りに真面目に仕事をこなす銀行強盗もいます。何に向かって真面目であるかが重要です。彼は真面目な人間です。でも相変わらず罪をそのままに(ここではねたみなどが観察されるでしょう)、つまり悔い改めがありません。天のお父さまの無条件の赦しを体験して下さい。あなたの心の中にことばにはならないほどの喜びが溢れるでしょう。天のお父さまはあなたをしっかりと抱き締めてくださいます。そのぬくもりを味わってください。
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