13.神さまの教えは魅力的

 今回はマルコの福音書7章1節から23節までを学びましょう。まずはお読みください。簡単になぞってみましょうか。登場人物はパリサイ人たちと幾人かの律法学者、イエスさまの弟子たちおよびイエスさまご本人です(1、2)。
 さてパリサイ人たちと幾人かの律法学者は弟子たちが「手を洗わずに」食事をしたことについて非難しました。この行為は彼らにとって昔からの「言い伝え」(5)であり(宗教的儀式という意味です。)、決してないがしろにされてはならないものでした。
 イエスさまは具体的に例を挙けて反論なさいました(10節〜13節)。ユダヤ人にとって昔からの「言い伝え」の本来の出発点はモーセ(神さまから直接おことばを受け取り、聖書の最初の5冊を書いた人。それゆえユダヤ人にとっては最高に権威のある人。)の教えです。その中に『あなたの父母を敬え。』(出エジプト20:12という戒めがあるが、あなたがたはそれを守っているのかというものでした。
 イエスさまの説明を要約しますとこういうふうになります。あなたがたは神さまに従うことが大事だと言って、この戒めを根拠に「お父さん、お母さん、いつも感謝しています。」つきましてはこの気持ちを一生懸命に働いて100万円をプレゼントして表わしたいと思います。」と言う。ところが舌の根も乾かないうちにこう言う。「すいません。お父さん、お母さん。あげようと思って用意しておいたのですが、すっかり忘れていました。実はこのお金は神さまに捧げる(これをコルバンと表現します。)と約束してしまっていたものでした。あーあ、せっかく親孝行をしようと思ったのに大変残念です.本当に残念です。」しかしその実(ジツ)、自分の欲しいものを買うために使ってしまっていたのです。人の教え(「云い伝え」)と比較して神さまの教えがどのように魅力的かを学びましょう。              

人の教えは人をさばきますが、神さまのは人を愛し、受け入れます

 裁くとは自分の定規で相手を測ることです。自分はいつも100点ですが、相手は30点、20点、時に0点です。こう言ったりします。「ねえ、あの人と付き合わないようにしないよ。とってもひどい人なんだから!」
 『森の学校』というお話があります。森に住む動物たちが今度学校を作ることにしました。早速開設準備委員会を聞きました。どんな科目を作ろうか。鳥は言いました。「空を飛ぶ科は絶対に必要だ。」魚は言いました。「水泳科が要る。」もぐらが言いました。「穴堀り科がなくっちゃあ−。これは必須科目だ。」 それぞれ自分の基準を持ち出しています。そして人を裁くために使われる・・・これが人の教えです。
 神さまの教えは人をありのまま受け入れます。「あなたにはこれができるんですね。歓迎します。あ、あなたはあの人とは違う、これができるんですね。」違いが分かるのが神さまです。あなたは短気ですか。それはいいことです。あなたは気が良いですか。それもまたいいことですね。神さまはあなたを愛しています。愛とは無条件で交際をすることです。自分の求める標準に達したら付き合うというのは愛ではありません。

人の教えは形式的すぎますが、神さまのは内容重視です

 私たちはとかく外側で人を判断します。男の人ならネクタイをして、背広を着て、学歴がある・・・とかで、「うん、この人は立派な人だ。」これがマイナスに働くと・・・?外側だけを見て、「くだらない人だ!」「イヤなタイプ!」。
 神さまはまず内側をご覧になります。内側から良いものも悪いものも出てきます。14節から23節までをもう一度お読みください。人は外側でなく、中身です。外見上の親切ではなく、心底からのものが大切であり、それこそ本物の大切さです。
 中身重視という考えを受け入れると、私たちはお互いに成長を期待することができるようになります。成熟した人格は魅力的です。当然表に現れます。強くなっていく信仰はあなたにとっては今まで考えられなかった恵みをあなたにもたらすでしょう。その原動力はあなたの中に住まわれる神さまです。その神さまはあなたを天国にまで導きます。

人の教えには本当のきよさがありませんが、神さまのにはあります

 あなたは人にものをあげるときにどのようなやり方でしますか。きっとルールがあるでしょう。もしかしたら気が付いていないかもしれませんが。実は自分にとってはご用済のものを上げます。ところが余計な枕詞が付きます。「ほんとうは私、とっても必要なんだけれど・・・」
 もうひとつの質問は、何を期待してものを上げたり、親切にしますか?というものです。多くの人はお返しをばっちり期待しています。せめて同額は回収しなくっちゃ−、できれば2倍3倍・・・と。ならば商売であって親切とは言えないのではないでしょうか。
 理想論でしょうか。実際のところ人にとっては理想論であることは本当です。私たちは立派な道徳を提唱しますが、現実はそれを行なうことができません。愛を行なっているとは言いますが、ただ商売をしているのに過ぎません。ならば正直に、「お父さん、お母さん。私は何の恩返しもできません。」と正直に言った方が良さそうです。「コルバンです。」と見え透いた弁明をしなくても良いではありませんか。でもそうだとするとあまりにも私たち人間は惨めです。
 ここに神さまの実力を表わすひとつの事実があります。イエスさまは神のひとり子でありますが、真実にあなたを愛されました。何のお返しも期待せずにただ黙々と十字架に進まれました。自分の命があなたへのプレゼントでした。私たちには罪があります。ですから私たちは罰を受けねばなりません。この世界は神の世界であり、神の法律が生きています。違反すれば罰せられます。「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)と聖書にはあります。
 あなたには罪がありますか?いやあることが分かりますか?あなたの心の中は汚い計算で一杯ではありませんか?ならば罰を受けなけれはなりません。彼はあなたを助けます。身代りに死に、3日目にご復活されたこのお方を心に受け入れるときあなたの中に力ある、魅力あふれる神さまの教えが生まれます。


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