130.考える聖書

聖書箇所 [出エジプト記1−10章]

 私が中学校で初めて英語を学び始めた頃、疑問に思ったことを一つ教師にぶつけました。荒川をArakawaRiverと訳してあるので、「これでは荒川川ではありませんか?」と言いました。先生の答えは「昔からそう決まっている」というものでした。私としては納得できなかったのです。他にも疑問を感じることはいろいろありましたが、多くの場合、このような答えか、あるいは余計なことを考えないで勉強しろというものでした。
 しかし疑問を持つことはすばらしいことではないでしょうか。もちろんそうすることによって不安定を生じるきらいはあります。私たちは常に安定を望んでいます。ですから困ったことではあります。でもむしろ不思議な神さまは不安定な中に余計働いてくださるのではないでしょうか。
 今回は有名な出エジプトの事件の一場面を題材に疑問をいくつかぶつけてみましょう。考えてほしいのです。聖書は神さまのおことば、したがって全く間違いはありません。その通り。でもあえて疑問を持つことによって聖書しいては神さまの世界が広がるに違いありません。

なぜ、どのようにイスラエル人は厳しく取り扱われたのか?

 映画の『十戒』をご覧になったでしょうか。モーセに率いられて紅海を渡るさまは感動的でした。さて出エジプト記はエジプトにおいてイスラエル人が奴隷状態になっている場面からスタートします。

 疑問その1。1章8節です。「新しい王が起こった」とありますが、これは従来の王とは別人の王が即位したことを意味するのでしょうか。きっとあなたはそのように理解して来られたでしょうね。もちろんそう理解して何の問題もありません。でも文脈を見るともう一つの解釈も可能ではありませんか。おびただしい数のイスラエル人、すなわち外国人が自分の国にいるのにそのいきさつを全く知らない王が果たして存在しうるのでしょうか。9節ではイスラエル人を迫害しようと彼は言い出しています。それが民衆に非常に受けています。リーダーシップとはたとえ30秒でも先に発言し、行動することです。とすれば世論の動向を観察していた王がいままでとは全く違った政策を、しかも世論に迎合した政策を打ち出した可能性は否定できません。「手のひらを返したように、新しい政策を掲げた王が起こった」という解釈は成り立つでしょうか。

 疑問その2。厳しい取扱いを受けた(1:11-14)イスラエル人ですが、どのような内容であったのでしょうか。14節では肉体労働において大変厳しかったことは分かります。では精神的には。こういう言い伝えがあります。「男には針仕事を、女にはレンガ運びをさせた」。男女の役割を逆にさせられることは誇りやプライドを傷つけられることです。これは精神的な虐待と言えます。さあ、あなたはどのようなことを想像しますか。10節には「賢く」とあります。文脈からして「ずる賢く」と理解できるでしょう。
 エジプト人がイスラエル人を慰問しました。「急に政策が変更されて大変ですね。レンガ作りをお手伝いしますよ」と言いました。気持ちを良くしたイスラエル人はうれしくなって一生懸命に労働し、いままでで最高に品質の良い、かつ数の多いできでした。一日が終わった途端に、エジプト人の態度は急変して、「あしたからこのペースでレンガを作れ!」と言いました。
 いずれにしてもこの部分から学べることは、私たちの外界が私たちを迫害することがあるということでしょう。あなたにも経験がお有りと思います。一方的に襲ってくる災難や難しい問題。6章6ー7節にはイスラエル人がヤーウェによって救い出された、その順序が見られます。
 わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し(ステップ1)、労役から救い出す(ステップ2)。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う(ステップ3)。わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる(ステップ4)。
 ステップ2から説明しましょう。これは具体的な日常的な苦役からの解放です。ステップ3は奴隷から解放されることです。あがないとはそのことを指しています。奴隷にはプライドも誇りも自尊心も自由意志もありません。でもこれらを回復できるのです。あなたがイエス・キリストを信じるときに与えられるものです。それはステップ1ばかりでなく、4でも同様です。神の子としての立場を回復できます。
 さて、注目したいのはステップ1です。苦役とは我慢を意味しており、我慢に我慢を重ねてきたがもう耐えられないという時にヤーウェは助けてくださる、の意味です。決してあなたの我慢の限度を越えて試練が続くことはありません。

なぜ、どのように男の子たちは死から免れえたのか

 王の命令は男の子を殺せでした(1:15、22)。理屈の上では効果的な民族弱化策です。でもこれが効果をあげなかったことは明らかです。というのは70人(1:5)で移住したイスラエル人が430年の間に男だけで60万人(12:37、40、41)と言われ、全体で2、300万人と推定できるからです。イスラエル人の家を一人のエジプト人が訪問しました。隠している男の子を捜し出すためでした。彼の腕には赤ちゃんが抱かれています。彼はその赤ちゃんのももをつねりました。その泣き声に誘引されて地下室に隠れていた男の子は発見されました。と、こういう話も伝わっています。
 さて1章15節に登場する勇気ある2人の女性に注目しましょう。王の命令には従いませんでした。ヘブル人の命名には、そして文脈にはその意味も生きて来ます。シフラとは「改善する」の意味です。彼女はどのようにしたら男の子たちを生き延びさせられるだろうかとつねにその対策を改善しつづけたのです。プアとは「声を張り上げる」意味です。彼女は理不尽な命令に声を張り上げ、抵抗しました。これを市民的不服従と言います。税金の使い道に納得が行かなければ反対の声をあげることは良いことです。
 それにしても彼女たちは勇気があります。歴史は勇気ある人たちにより作られます。彼女たちの存在と勇気ある行動とがなかったら出エジプトの事件は無かったと言えるでしょう。神さまはそのつど勇気ある人をその状況に送られます。今、それはあなたかも知れません。
 勇気はどのようにして得られるのでしょうか。宗教的アイデンティティーがその答えです。1章9節にはパロによって初めてイスラエル人たちが民(アム)と呼ばれていることは印象的です。エジプトの社会において他とは異なった性質を有した一群の存在をパロは認識していたことがこれで分かります。
 こういう話が伝わっています。生まれたばかりの自分の子に割礼を施そうとしているイスラエル人の親に向かって、エジプト人が言いました。「あした殺されるのになぜそんな無駄なことを」。こう彼は応答しました。「例えそうでも、私たちはすべきことをします」。
 私たちもそうです。神さまに選ばれた意識をもって、神の子としての誇りをもって常に神の家族に集い、主を礼拝し、互いに励まし合い、学び合うべきです。このような中で養われた宗教的アイデンティティーがあなたにいつも勇気を与えます。神さまはいま勇気のある人を求めておられます。どんな問題にもめげないで前進する人を。

どのように出国のための外交交渉はなされたのか

 6章10、11節をお読みください。もちろん、パロはイスラエル人を去らせようとはしません。7章10−13節をお読みください。この後、神さまはエジプトに6つの災害を罰としてお与えになります。7つ目の後、ついに自己保身に限界を感じたパロの側近たちが助言します。国の運命を心配しているように見えますが、実際は自分たちにとっての不都合を心配しているだけです。10章7節をお読み下さい。彼らは精一杯の抵抗、すなわちプライドを保とうとしています。決してモーセという名を口にしようとはしません。「この者」と呼びます。このときに出国にOKのサインが出されます。でも条件付きでした。8節をお読み下さい。「だれとだれが行くのか」とパロは気にしています。3Kをエジプト国内でする人がいなくなり、経済的に大打撃であるからです。モーセの答えはどうでしょう。10章9節です。「若い者・・・」というふうに、表現していることからも分かりますように、彼はすぐれたリーダーであることが分かります。若い者たちの存在や活力を大切にしないとどんな社会にも未来がありません。彼はそれをよく知っていました。パロもねばります。「壮年だけではどうか』(11)。この場はこれで交渉は中断しました。
 それにしても両者ともに強気です。なぜでしょうか。さあ、なぜでしょうか。軍事力が背景にあるからです。日本は政治力や外交交渉力が弱いと言われますが、その理由は軍事力が弱いからです。抑止力も十分ではありません。パロには当時最強の戦車軍団がありました。モーセにはヤーウェの力がありました。あなたはヤーウェの軍事力を信じますか。いまも働くヤーウェの力を信じますか。信じるならあなたは常に確信を持って進むことができます。
 パロはさらに2つの災害をすなわち軍事力をヤーウェによって行使され、妥協せざるを得なくさせられています。出て行っていいが「財産だけは残せ」(24)と言っています。でもモーセは納得しません。断固撥ね付け、「すべてとともに出て行く」(26)と宣言します。この「すべて」には重要な神学的真理があります。あなたは主を礼拝するときにすべてを持って来ておられますか。「この私の考えは、神さまのお考えとは違うけれども、神さまにも手を付けさせない!」とか、「給料は全部私のものだ!私の全くの自由だ!」とか。タブーがあるとき私たちは重荷を降ろすことが出来ません。礼拝の時にすべてを私たちは主の前に持参すべきです。「どのようなことについても主に決定をお任せします」というニュートラルの姿勢で礼拝をすれば、あなたの生活においてヤーウェの現実的な力があなたのために行使されるでしょう。主の前に於て柔軟性が大切です。主の前に出る前にすでに自分で決定しているとすれば、硬直しているとすれば、もはやヤーウェの出番はないのです。ヤーウェはそのつど最高の知恵と力であなたに答えることのできるお方です。

 先生と3人の弟子との間に次のような問答がありました。
 「安息日にはお金に触れてはいけないという律法があることは知っているだろう。
 さて安息日に道を歩いていてお金が落ちていた。さあ、どうする?」。一人目の弟子は「拾いません」と答え、先生は「君は愚かだ」と言いました。このやり取りを見ていた2人目の弟子は「拾います」と答えた所、先生は「それは罪だ」と言いました。3人目はこう応えました。「私には今は解答できません。でもそのときに適切な解答が主から与えられると信じています」。先生はこの答えを大変喜びました。
  適切な答えと有効な力とをいただくために主の前に出ましょう。すべてを持参しつつ。


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