132.従順の実



聖書箇所 [詩篇19:7ー14節]


 もしあなたが親であるなら、あなたのお子さんが「すなお(従順)なお子さんですねえー」と言われれば、うれしいでしょう。それはほめことばであるから。ではもしあなたが「従順であれ!」と言われたら?「神さまのおことばはこうです。すなおに従って下さい」と言われたら?「ええ、分かります。でもちょっと待って……」。そうです。従順は全く正反対の評価を受ける徳であり、ことばです。聖書ははっきりと私たちに従順であるように求めています。そうすることはあなたをして豊かな実を結ばせるからです。7と8節の主語の部分、「主のみおしえ」「主のあかし」「主の戒め」「主の仰せ」はすべて「主のおっしゃること」と一言で言い換えることができます。そして「主のおっしゃること」を「守れば」、すなわち従順であれば、「報いは大きい」(11)のです。今回はこの詩の作者であるダビデの人生体験と照らし合わせながら「報い」、すなわち実の部分を学んで参りましょう。


たましいを生き返らせる

 ダビデはもともと羊飼いでした(。サムエル16:11、17:28)。羊飼いはなかなかの重労働です。羊は臆病でちょっとした物音で散らばり、おまけに方向音痴。草原で放さなければ草をはむことはできない、そのためにはあちらこちらへと移動させなければならない。これがとっても大変。野獣だって「こりゃあーおいしいごちそうだ!」と襲いかかろうとする。このように一日格闘し、疲れを癒せるのが夜、と思いきや、人間の泥棒が盗みにやって来る。そんな毎日です。愚痴をこぼすことも多かったでしょう。それでも空を見上げれば、満点に眩いばかりの星。たまにある安らぎの瞬間、彼は自然界の素晴らしさに感嘆の声を上げ、神さまに感謝をささげたでしょう。ほっとする瞬間。彼のこのような信仰を歌い上げたのが詩篇23篇です。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

 精神的にも肉体的にも辛い、大変な重労働の中、「主は私のたましいを生き返らせ」ると言います。彼はしっかりと従順の徳を自らに養っています。さてその主はその間、何をなさっていらっしゃるのでしょうか。サウル王が主のみこころを拒んだために、主によって、いままさに退かされる、といった事件が起き上がっていました。ダビデは知りません。預言者サムエルはさっそく次の王を探しにかかります。なんと羊飼いをしていたダビデに白羽の矢を立てました。いわば内輪の儀式でありましたが。神さまのなさることはやがて衆人監視の中の出来事となります。ダビデにはたて琴を弾くという特技がありましたが、芸は身を助ける、のごとく王の側近に召しかかえられました。さらに兵士の道具持ちにもなれ、ついにペリシテ人の大男ゴリアテを倒します。とうとうサウル王の軍最高司令官になります。彼にとってどれ一つをとってもわくわくさせられる、そして「たましいを生き返らせ」られる出来事であったでしょう。あなたが主のおこころに従順である間、主のお仕事は前進しています。その一つ一つが明らかになるたびごとにあなたは「たましいが生き返る」のを経験なさるでしょう。

賢くする

 なぜ賢くなるのでしょうか。よく学ぶからです。学ぶと言いましても、机の上に広げた知識を暗記する類いのものではありません。知恵を学ぶのです。12と13節を見ますと、三つの罪が見られます。1)あやまち。人はあやまちを犯すものです。人間関係の困難さの90%はこのことをわきまえることによって解消できます。多くの人が間違った前提で人とつきあっています。「人は過ちを犯さない」という間違った前提です。このような態度ですと、人が間違えたときには赦すことも許すこともできません。はじめから、「人は過ちを犯すものだ」、さらに自分も過ちを犯すものだという前提でつきあってください。そして十字架の精神は赦し、許すこと。2)隠れた罪。これには三つあります。イ)自分も他者も認識していない罪(ともに罪であるという認識に欠けている場合)。ロ)他者には認識されないが、自分は認識している罪(心の中で密かに考えた悪い考えなど)。ハ)他者は認識しているが、自分は認識していない罪(ねたみや高慢。他者に対して厳しい口調で迫る場合の多くはこれに関与)。さてサムエル記第一15章19節以下に注目してください。それ以前に何があったのかを簡単に説明しましょう。一言で言えば、神さまへささげるべきものを横領したのです。預言者サムエルが問責しました。一回目は19節。彼は「私は従順でしたのに……」とグチをこぼしています。二回目は24節「確かに従順ではありませんでした。それは認めます。でも部下がしたのです」。聞いたことがあるせりふではありませんか。「秘書がやった!」。責任転稼をしています。第三回目は30節。「従順ではありませんでした。確かにそれは認めます。でも私には私の王としての立場があるのです」と言いました。こうしてサウルは決定的に王から退けられるきっかけを自ら作ってしまいました。ダビデはこの事件から三つのことを学びました。1)人は過ちを犯すものである。2)でも赦される。3)チャンスは少なくとも三回は与えられる。
 やがてダビデにも失敗をする時がやって来ました。大きな失敗でした。預言者ナタンが問責し、彼は悔い改めました(「サムエル11、12章)。彼は獲得した従順さのゆえに賢かったのです。私たちは主が用意してくださった祝福の道を踏み外す事があります。でも戻ることができると知ること、そして戻ることが大切です。主が許してくださるのだから。

み心を喜ばせる


 ほんとうの喜びって何でしょうか。きっと苦労した末に得られるものでしょう。しかも物やお金や目に見えるものではないのでしょう。ダビデは苦労しました。試練の中を通りました。ゴリアテを倒して以来、人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と叫ぶようになりました。サウルの心は尋常ではありませんでした。ねたみの炎が燃え上がる一方でした。槍を投げ付け(。サムエル18:10-11)、宿敵ペリシテ人を利用し(。サムエル18:17-29)、自ら軍隊を率い、殺そうとしました。あるときダビデは洞穴に逃げ込んでいました。そこへなんとサウルが用を足そうと入って来たのです。目と鼻の先にサウルはいました。このあたりの事情は。サムエル24章1ー7節、26章9ー10節、16と23節、「サムエル1章14節をお読み下さい。特に部下に向かってのダビデと部下との間で交わされた会話は印象的です。

 「ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、主があなたに、『見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ。』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。(。サムエル24:4ー7節)
 
 ここにダビデの誠実さがあります。もちろん主への従順からきたものです。さてこのようなダビデが得たものは何であったでしょうか。それは信頼。この信頼を獲得することこそ私たちにとってほんとうの喜びを獲得していると言えるのではないでしょうか。信頼は宝。信頼される人々の元には多くの人々が集まってきます。(例。サムエル22:2→23:13)。


目を明るくする


 目は心の窓と言いますが、心が明るいと目も明るいのです。その心は信仰によって明るくされます。ダビデの目は明るかったのです。信仰が生きていたからです。彼の信仰は表に現れています。信仰とはそのような性質を持っています。ダビデは平和な大きな国を建設しました。あなたも信仰によってあなたの国、すなわちあなたの身近な世界である家庭や友人関係などを平和なものに築いてください。ダビデは経済的にも物質的にも祝福されました。あなたも同様に求めてください。私たちは霞を食べて生きることはできません。ダビデは神殿建設のために高価な材料をささげました。立派な礼拝のために彼の優れた経営能力も用いられました。彼はこれら一つ一つが主に用いられる度に心にときめきを感じたでしょう。目は輝いていたでしょう。結局従順とは信仰であり、従順の実とは信仰の実なのです。どうかあなたの信仰を深めてください。信仰から信仰へと進んで行って下さい。ますます豊かな実をあなたは得られるでしょう。 

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。


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