133 死後のツアー



聖書箇所 [ルカの福音書16章19ー31節]


  多くの人が死後の世界の存在を信じています。しかし不安もあるようです。不安の理由はなんと言っても未知との遭遇であるからでしょう。いままでの経験が通用しないかも知れないからです。そこで今回はそのような不安を解消するために、いわば楽しみにできるべく死後のツアーをご紹介しましょう。


死の時に、霊魂と肉体は分離する

 ダ臨死体験をご存じでしょうか。一度死後の世界に行った人の話です。以前はまゆつば物と言われておりましたが、現在では研究が進んで信ぴょう性の高いものと言われております(もちろん偽物の報告も少なくありません)。どのようなものか、典型的な例をご紹介しましょう。
 「ベッドの手すりから私は抜け出て、病室の天井の一隅にいました。眼下に、お医者さんや看護婦さんたちが慌ただしく病室に入ってくるのが見えました。私の心臓に電気ショックを当てていました」 多くの報告は共通点を持っていて、だいたい以上のようなものです。果たしてこれは真実でしょうか。創世記2章7節と8節とを見てみましょう。「息」を吹き込まれて人間は人間となったと分かります。それまでは、土を原材料とした動物であったのです(ですから動いていました)。「息」は「霊」とも訳せる言葉です。創世記35章18節を見てみましょう。ヤコブの妻ラケルが死ぬときのことが書かれてあります。死とは「魂」が肉体を離れる時であると理解できます。
ところで旧約聖書(ヘブル語)でも新約聖書(ギリシア語)でも「魂」、「霊」と訳される言葉は相互に交換可能な言葉でもあります。18節で「魂」とは「霊」の部分をも含めた表現と思われます。結論を言いましょう。人間には「霊魂」がありますが、動物には「魂」しかありません。犬などと気持ちが通じ合うといった感じがありますが、それはこのためです。「魂」を共有しているからです。でも「霊」を持っていない動物は「霊」である神とは交流できないので、礼拝をすることができません。私たち人間は死の時に霊魂が肉体から離れて行く経験をします。

天使が死の世界を案内する

  臨死体験者は死んだ後に、「光の精」あるいは「光の生命体」に出会ったと言います。これも共通した経験です。二つの性質が同様にして報告されています。一つは温かさ、もう一つは人格性。心の中が温まるような感じ、そしていままでの人生がまるで映画を見せられるように、映し出されます。さて何者でしょうか。ルカの福音書16章22節によると天使です。ラザロは天使に連れられて死後の世界へ案内されています。コリント人への手紙第二11章14節と使徒の働き12章7節を見ると「光の天使」が存在することが分かります。ヤコブの経験がこれを証明しています。有名なペヌエルの経験と呼ばれる箇所です。創世記32章24節から32節をお読み下さい。ヤコブは「神」と戦った意識を持っていますが、ホセア書12章4節を見ると天使が相手であったことが分かります。ヤコブの経験は自我との戦いですから、私たちの天使との出会いは自我との戦いの時であると言えるでしょう。あなたは神さまのみこころと自分の考えとを戦わせたことがあると思います。いや今も戦っておられるのでしょう。クリスチャン生活とは自我との戦いと言えます。しかしこれが良いのです。あなたを聖めます。

二種類の死後の世界


  人は死んで後、どこへ行くのでしょうか。天国か地獄。正しくお伝えしたいと思います。即、天国や地獄に行くことはありません。16世紀まで多くの人々に誤解がありました。それはルカの福音書16章23節のハデスを地獄(英語でhell。17世紀の欽定訳King Jamesも.比較的新しいNew Internatinal Versionも未だに)と訳してしまったからです。地獄でなくてハデス、ここに人は行きます。別名「苦しみの場所」、「よみ」、「陰府」、「黄泉」。もう一箇所はパラダイス(ルカ23:43)。別名「アブラハムのふところ」、「慰めの場所」。私たちはだれもこれらのどちらかに行きます。これらはそれぞれ地獄と天国への待合室です。行き先が交差することはありません(16:26)。ところで旧約聖書ではまだこのあたりのことが明らかではありませんでした。死者はみなシェオールに行きました。創世記37章35節や詩篇88篇3節を参照してください。このシェオールを「よみ」と訳すと、イスラエル人はみな地獄へ行くことになり、おかしなことになります。正しくは人は死んだ後にみなシェオールに行く、そしてこのシェオールは少なくとも二つの部分に別れていることが新約聖書で明らかになったことです。ところで金持ちはなぜハデスに行き(地獄へ行ける約束を得)、ラザロはパラダイスに行け(天獄へ行ける約束を得)たのでしょうか。お金の多い少ないの問題ではありません。彼はエゴイストであったのです。ラザロは私たちには分からなくても確かに神さまの目にはパラダイスに行くにふさわしいと写ったのです。私たち人間の目には判断は限界があります。


シェオールの様子


 シェオールで人はどのように過ごすのでしょうか。ここでの状態は次に行くべき場所を生活を予想させるものです。ハデスに行った人は苦しくてたまりません。やがて地獄ではさらに苦しい状態に置かれます。ヨハネの黙示録20章12ー15節をお読み下さい。パラダイスでは暖かい気持ちで神さまから御褒美を待つ状態です。天国でそれをいただけます。ルカの福音書から少なくとも4つのことがシェオールのことが浮かび上がってきます。
 1)人間はある種の霊の形を持っている。というのは金持ちもアブラハムも互いを認識できているからです。
 2)互いに会話が成立している。これはテレパシーの類いでしょう。
 3)もはや新たに善行は不可能(24-25)。
 4)最終的な精算所。善悪の言動及びその結果について変更不可。

 このように学んで来てみますと、いま私たちには死への二つの準備が考えられます。一つはイエス・キリストをしっかりと信じて罪の悔い改めを確認すること。もう一つは良い行いに励んでおくこと。神さまに捧げ、神さまを愛し、人に仕えること。
私たちはいつか死にます。そしてそれがいつであるかだれにも分かりません。あなたにも分かりません。いつ死を迎えても、「ほんとうに良い人生だった!」と満足しながら逝けるように備えましょう。死に際して不安のないように備えていましょう。 

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。


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