聖書箇所 [民数記13ー27章]
先日(2001.7.11)ロスアンゼルス郊外にあるサドルバック教会を訪問しました。水曜日で、賛美集会のようなものでしたが、霊的にとてもすばらしい雰囲気と流れがそこにはありました。その中でお勧めがあり、「もっと神さまに近付くためにはどうしたら良いでしょうか?」というテーマを提出していました。あなたはどう思いますか。神さまに近い、それは上からの力にみなぎることであり、平安に満たされることであり、喜びで心も生活もいっぱいになることを意味していますね。さて、その答えですが、こういうものでした。「そのような願いを持っていること」。「あーそれなら、私だって持ってる!」。そうでしょうか。ここが実は大変に重要なところです。口で言うことと、心で願っていることとは必ずしも一致していません。口では「もっと神さまの近くにいたい!」と言っても、心の中まで同様であるとは必ずしも言えません。ここが私たち人間の持っている悲しさです。本来神さまに創造されたときの人間性はもちろん何の問題もなく、理想そのものでした。これを修理し改造しようと神さまはイスラエルを学生として選び、荒野をそのキャンパスとされました。それが民数記の出来事です。実際には非常に難しいテーマなので高等教育です。したがってこれは大学コースです。歴史とは何か?大きく出ましたね。さて、何でしょうか?それは神さまを知ろうとする者においては、人間性の修理改造の歩み、です。私たちの人間性は罪によって汚染され、いわば霊的病気にかかっています。今回は改造の目標はどのようなものか、そしてどのようにしてそれは達成できるかを考えましょう。
1 先に行く者を尊敬できる者に
人を評価できる者に、の意味です。「ヘエー、あの人、こういうことができるんだーッ」、「上手じゃなーいッ!」。心から素直にこのように表現できるなら、なんとすばらしいことでしょう。こうするあなたはどのような恵みにあずかることができるでしょうか。それはあなたも同じように評価される、ということ。評価されるとだれでもうれしい。それは評価をしてくれた人を好きになるし、好きになれば、相手はさらにあなたを好きになってくれる。良循環の人間関係です。
何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)
しかし人間性の病気はこのようにはスムーズには人を評価させません。コラの反乱がモーセとアロンを体制派と見て、襲い掛かりました。コラの主張にはもっともな面があります。聞かされれば、確かにその通りだとついうなづいてしまいそうです。見てみましょうか。
彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」モーセはこれを聞いてひれ伏した。(16:3、4)
モーセがひれ伏した、とは彼に動揺が走った意です。コラが言ったことは、あなたがた会衆は現在すでに「聖なる者である」であり、モーセが従来言って来た、これから「聖なる者になるであろう」(16:40)とは断然インパクトの異なるものでした。
こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。(16:40)
お分かりのように両者には大きな違いがあります。「すでに聖い者である」のと「これから聖い者になるであろう」とでは差があり過ぎます。イスラエル人には動揺が走りました。「すでに聖い」のであれば、なぜモーセやアロンという人間が我々の上に、すなわち神との間に存在する必要があるのか、疑問になって来ました。ここで冷静に考えてほしいのはコラの真の動機は何か、です。実は個人的な欲求不満がそうさせたのです。モーセがレビ族のコハテ族のリーダーとして、よりによっていとこのエリツアファンを任命したからです。彼は大いにプライドを傷つけられました(3:30)。しかしこのクーデター騒ぎはかなりの影響をイスラエル内部にもたらしました。確かにモーセには欠点がいろいろとあります。岩に命じれば良いものを、打ってしまうとか、神さまに背いたことが幾度もあります。(20:7-13)。
しかし神さまは良い点をご覧になるのです。だれにもある良い点に注目されます。特に彼は後継者選びにはすばらしい能力を発揮しました。27章18節をご覧ください。
主はモーセに仰せられた。「あなたは神の霊の宿っている人、ヌンの子ヨシュアを取り、あなたの手を彼の上に置け。主はモーセに仰せられた。
「神の霊の宿っている人」とは人の気持ちがよく分かる人の意味です。これはリーダーが持っているべきとても大切な資質です。そして17節にはこうあります。
彼が、彼らに先立って出て行き、彼らに先立ってはいり、また彼らを連れ出し、彼らをはいらせるようにしてください。主の会衆を、飼う者のいない羊のようにしないでください。」
つまりリーダーはフォロアー(従う者)よりも一歩あるいは半歩先立ち、目指した事柄は成功させなければならない、と言っています。こういうことができる者として彼はヨシュアを見つけました。これは祈りの中で神さまに願い求めたことでしたが、モーセの人を見る目の非凡さを表しています。あなたにも長所がありますよ。それをそれとして認識してください。決して他の人を妬んではいけません。妬むには莫大なエネルギーが必要です。しかも浪費です。夜も眠れず、朝、ふとんから出るときにはふらふらです。ねたみを十字架につけてください。有名なヴァイオリニスト千住真理子がこう言っています。「以前一流演奏家の演奏を徹底して聞いたことがありました。結局自分の音を出すしかないと分かった」。そうです。あなたはあなたの音を出すしかないのです。それにはあなたは自分の長所を認識することが必要です。そこに神さまの注目があります。神さまはあなたを評価してくださるお方です。
2 前向きに物事を解釈できる者に
あなたに質問をさせてください。ここに半分水のはいったコップがあります。あなたはこれを「半分しかない」と表現しますか、それとも「半分もある」と言いますか?少なくない人々が前者の見方を採用しています。もう一つ。(昔の話です)一人の靴のセールスマンがアフリカに派遣されました。電報にはこう書きました。「社長、何の希望もありません。だれも靴をはいていません」。次に派遣されたセールスマンは「社長、希望がいっぱいあります。だれも靴をはいていません」。まったく同じ現実を見ながら、主張がまったく正反対です。どちらに真の希望があるかお分かりでしょう。物事は常に前向きに解釈して行かなければなりません。13章1節以降にはモーセが約束の地を前に調査隊を派遣する場面があります。27ー29節では派遣された人々の一方の意見が述べられていますが、極めて否定的です。14章1節を見ると分かりますが、このような否定的な情報は伝染しやすくイスラエル人はパニックになっています。13章28節と14章6ー9節では肯定的意見が登場しています。前向きな人々がいます。どうかどんな場合でも前向きであってください。前向きである事は成功を保証します。実際前向き派であったエフンネの子カレブとヌンの子ヨシュアだけが約束の地に入っています。私たちは自分の運命を自分で選べることを知らなければなりません。決してだれかのせいで人生が悪化するわけではありません。自分で自分の運命を選ぶ事ができるのです。前向き信仰があなたの人生を祝福します。特に困難に直面したときにはこの真理は重要です。私たち人間は弱く、つい自暴自棄になります。そうなりやすいのです。私の人生はのろわれている、とか思いやすいのです。でもここで負けてはいけません。イエスさまを見習いましょう。彼は私たちを愛するためにこの世界に来て下さいました。でも罵られ、むち打たれ、最後は十字架という残酷な刑につけられました。でも決して否定的にはなられませんでした。それが今日多くの人に希望を与えてくれています。罪に汚染された世界を救うのはこのお方以外にはいません。そして多くの人々が彼から救いを受取り、新しい人生を始めています。困難から逃げてはいけません。逃げるとは、たとえば、そのような困難はないと自分に思い込ませることなどです。問題を抱えたときこそ前向きに考えてください。それが信仰です。14章22ー24節をご覧ください。前向きであることが主に従う、すなわち信仰、です。
エジプトとこの荒野で、わたしの栄光とわたしの行なったしるしを見ながら、このように十度もわたしを試みて、わたしの声に聞き従わなかった者たちは、みな、わたしが彼らの先祖たちに誓った地を見ることがない。わたしを侮った者も、みなそれを見ることがない。ただし、わたしのしもべカレブは、ほかの者と違った心を持っていて、わたしに従い通したので、わたしは彼が行って来た地に彼を導き入れる。彼の子孫はその地を所有するようになる。
3 常に感謝できる者に
あなたはいつも感謝していますか。
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(。テサロニケ5:18)
しかしこれがなかなか大変!大変難しいことです。ついブツブツ。エジプトを出て、まもなく、肉がない、水がないなどイスラエルの歩みはブツブツの歩みです。これは霊の病気です。加わっていた異邦人にもその影響は大きいものでした。この病気は伝染力が大きいのです。一人がブツと言うと、近くにいる人がブツ。こうしてブツブツは限りなく広がります。感謝をするとたくさん恵みがあると知ってください。
『獄中からの賛美』(マーリン・キャロザース)にこのようなあかしが載っていました。夏休みが終って、登校しようとした女性教師は突然解雇を言い渡されました。ひどく落ち込んだ彼女はついブツブツ。隣人がこう助言しました。「あなたはクリスチャンなのだから、ミッションスクールで働いたら。それの方がずうーっといいわよ!」。「そうだ!」と思い直し、さっそく感謝を言い始めました。「神さま、首になったことを感謝します!」……(途中省略)……まもなくミッションスクールの教師になっていました。神さまはあなたに良いものをくださっていることを知ってください。
アブラハムにまつわるお話を紹介しましょう。
砂漠の中を進むアブラハム一行は厳しい日ざしの続く中、体力は奪われ、ついに宿営をしました。人や家畜の渇きをいやすために、アブラハムは召使いたちに向かって井戸を掘るように言いました。アブラハムは同時に砂漢を旅するどの人々も疲れ、飢え、のどが渇いていることをも気づかっていた。やがて来るであろう旅人たちのために、食べ物と水を用意しました。幕屋には、東西南北に、四つの出入口を作った。疲れている旅人が入り口を探して幕屋を一周する手間を省くためでした。旅人たちがやって来ました。アプラハムはうれしそうに出迎え、「さあさあ、どうぞお入りください。お疲れでしょう。足を洗ってください。今家内のサラが食事を用意致します」。アブラハムはみずから井戸から冷たい水を汲んできた。食卓には、パン肉にプドウ酒、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどごちそうだった。旅人たちはうれしそうにお腹いっぱいになるまで食べたり飲んだりした。食後旅人たちはお礼をアブラハムに言おうとした。するとアブラハムはさえぎって言った。「わたしに感謝なさるのですか。なぜでしょう?私のものを食べたからだとおっしゃるのでしょうか?そうではありません。造り主のものをみなさんは召し上がったのです。神さまにのみ感謝をささげるべきです。旅人たちはおどろいた。今まで、こんな話は聞いたこともなかったから。 中にはこれを理解しない旅人たちもいた。「お味はいかがでしたか。そうですか。おいしかったですか。では神さまに感謝をささげましょう」とアブラハムが言うと、「神さまに感謝ですって。あなたのもてなしを受けたのだから、あなたに感謝したい」と言った。アブラハムはおだやかにこう答えた。「あなたがたは、わたしのものを召しあがったとおっしゃるのですね。そして私に感謝を表したいとおっしゃるのですね。いいでしょう。お代をちょうだいしましょう」。「いくら、お支払いしたらよろしいでしょう?」と、旅人がたずねました。アプラハムは言った、「ブドウ酒五万円、肉料理一〇万円、パン二万円、そうそう、果物も……」。「エッ、そんなに高いのですか?とてもとても払えません」と、旅人たちはおどろき、あきれた。「砂漢のど真ん中で、誰がこれだけの料理をただでふるまいますか?」と、アブラハムは言った。慌てた旅人たちは「でも先ほど食べものも飲みものも、あなたのものではない、すべては神のものだとおっしゃったはずです」。アブラハムは言った、「そうお分かりなら、神に感謝なさってください」。やっと旅人たちは、アブラハムの言ったことを理解した。
常に感謝をする者でありたいものです。すべては神さまからいただいているこ
とを知るならばそれは可能です。
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