143 苦難から得られるもの


聖書箇所 [詩篇119篇65ー72節]

一人の子どもがひざの上に仰向けになって、「お母さん、なあーに、している?!」って聞いていました。「ちょっと待って、もうすぐよ!」って答えますが、子どもにはもどかしさがあるだけ。刺繍をしているのですが、子どもには裏から見るだけですから、何がなんだかよく分からないのも無理はありません。しばらくして「おまちどおさまッ」って、見せてもらったときには思わず顔がほころびました。かわいいパンダの絵でした。私たちが苦難を受けているときにはこんなふうです。「なぜ?」、「いつまで?」といったことばが私たちの心の中にはつきまといます。私たちにはしかし希望があります。私たちが住んでいる世界は神さまのお造りになった世界、善意と誠実とともにその御手により治めてくださってます。このように理解できるとこの詩人と同じことを言うことができます。

 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに良くしてくださいました。……苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。(65,71)今回は苦難から何を得る事ができるか、とどのようにして得られるかを学びましょう。

隠れた賜物の発見

 私の一番の売りはこれだ、と言える人は幸いですね。売りとはセールスポイントと言ってもいいでしょう。このような人は苦難に強い。先週の金曜日(2001.6.22)にはテレビに千住真理子が出演していました。私はクリスチャンであるとないとに関わらずいわゆる一流と言われる方々のことばにはいつも注目しています。彼女はこう言いました。「私には自分のしたい表現が十分にできなかったと思えることがあります」。彼女はヴァイオリニストですが、彼女にとってヴァイオリンは彼女の内面を表現する手段です。人はそれぞれ行動しますが、その一つ一つにはメッセージがあります、彼女にはヴァイオリンが与えられているというわけです。でもこの発言に正直私はほっとしました。このような一流の人でも不足やら不十分やらを感じているのだと知って。その後彼女はこう続けました。「でもこれが私には次の演奏をする上で励みになるのです。もっと良い演奏をしようと」。これは自分の得意を知っているからこそ言えるセリフです。もしそうでなかったら失望の中で押しつぶされてしまうでしょう。苦難はあなたの中のすばらしい賜物を認識させてくれます。「うん、これが私の良いところだ!」と。でもなかなか現実はこういう認識に到達できません。私には苦い思い出があります。私の父は警察官僚で今で言う情報関係のエキスパート。弟は小さい頃から電気に興味を示し、今は大手電気メーカーの技術者で出世頭。私は十代の頃、早く進路を決めなさいと言われ、悩み、父と弟が電気に関心のある者たちだから、自分もそうに違いないと思い(と言うよりも、無理に思い込んで、思い込ませて)、その道に進みました。でも一生懸命に自分に「好きだ!好きだ!」と言い聞かせても好きでないものは好きでないのです。好きでなければ賜物にはなりません。ついに私は別の道に進みました。今日、私は牧会、マネージメントに関して自分に賜物があるかなあと考えています。実際これが私の今の生活に限り無い恵みを与えてくれています。静かな自信と喜びが私の内にはあります。でも以前は苦しい日々でした。判断ミスがそこにはありましたから。詩人もそう言います。

 よい分別と知識を私に教えてください。……苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました(判断ミス、の事)。(66,67)
 
 聖書を読みますと、いわゆる信仰の偉人と言われる人々はことごとく挫折など多くの苦難を通って来ています。ノア、アブラハム、モーセ、ヤコブ、ダビデ、ペテロなどなど。

 ドイツの作曲家バッハ(1685-1750)は1748年から両眼の視力を失ってしまった。そのころライプチッヒに来ていた英国の名医の治療を受け、二度も手術を受けたが直らず、ついに全くの盲目となってしまった。それ以来、バッハの生活は、昼も夜も暗黒に包まれてしまいましたが……ついに彼は、その暗黒とされた日々の中から、カンタータ「神の時は最上の時なり」を作り上げた。音楽家としてもっとも大切な聴覚が不調になったとき、べ一トーベンの失望はいかかばかりだったか。彼は、筆舌に尽くしがたい苦悩をなめた。いっさいの社交を断り、家を転々と変え、全く孤独な生活にはいった。人々は彼を偏屈扱いし、彼と交わりを持たなくなった。1802年10月6日、ウィーン郊外のハイリンゲンシュタットで彼はついに意を決して遺書を書いた。しかし、全能の神は彼の生命を守りたもうた。青年時代からの最愛の友はアメンダ牧師であった。全聾になり、苦難の日々を送っていたべ一トーベンに、聖書を読むことをすすめたのも彼であった。聖書の励ましによって、べ一トーベンは新たに生き始めたのである。(CD-ROM版キリスト教例話集より)

 あなたはいま苦しみの中にありますか。どうか神さまがあなたに与えた良いものを発見して祝福の道を、あなたという一人の人間としてもっとも輝ける人生を生きてください。

愛する力

 ジョニー・エレクソンという人をあなたはご存じでしょうか。プールに飛び込んで頭を打ち、首から下が麻痺してしまった人です。今は絵筆を口にくわえた写真を表紙にした本を出版したり、日系人と結婚し元気に生活をしています。彼女はもともと活発な人でしたから、ベッドの上に縛り付けられる、いや自分の力では動けない生活には堪え難いものがありました。絶望の毎日でした。やがてリハビリ専門の病院に入りますが、そこでもう一度大きなショックを受けます。どんなショックかというと、そこにいる多くの人が退院しようとはしていないという現実でした。でも神さまは彼女を見捨てることをなさいません。「私ははやく元気になって彼らを助けたい!」と考えたのです。これが功を奏したのです。彼女自身がもっともはやくリハビリに成功しました。これは愛する力の働いた現場の報告であり、あかしです。苦難の中であなたは愛する者へと変えられて行きます。ところで愛とは何でしょうか。それは感受性の豊かさ。あなたは苦しい時に二種類の人を知りますね。前者はあなたを慰めようと近付いて来る人。後者は離れて行く人。それぞれの場合にあなたの中には感じるものがあるはずです。前者も二種類あるでしょう。慰めようとことばをかけて来る人。そしてことばをかけずにただそばにいるだけの人。これまた、それぞれの人にあなたは何かを感じています。慰めのためにことばを出せばいいというものでもありません。こうしてあなたはあなたの内側に感受性を養います。これがあなたが愛する時に使えるようにと、そのために蓄積されたエネルギーです。鈍感(70)であることとは対極の世界のできごとです。実は70節にある脂肪とは太っている、鈍感な、そして現代語では馬鹿な、の意味です。愛するからこそ神さまはあなたの良い事を当たり前のように施してくださいます。

 主よ。あなたは、みことばのとおりに、あなたのしもべに[良く]してくださいました。[よい]分別と知識を私に教えてください。……[いつくしみ深く]あられ、いつくしみを施されます。苦しみに会ったことは、私にとって[しあわせ]でした。……あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀に[まさる]ものです。(65-72)

 ちなみに[ ]内はすべてトーブという同一の語です。ここに良いことが種々の内容を持っていることが示唆されています。
 そうです。あなたを愛する神さまはあなたに種々の恵みを苦難を通して与えてくださいます。苦難とはいわばハングリーな状態と言えます。現代は飽食の時代と言えますが、それは逆に温室育ちへと鈍感な者へと私たちを導くのではないでしょうか。ハングリー精神こそがあなたをして世界に愛を溢れさせると信じます。

心の自由

  あなたには心の自由はありますか。同志社大学の創立者である新島襄がある朝、庭掃除をしていると戸口から目の見えないあんまさんが入って来て、「先生、おはようございます」とあいさつを受けました。すると先生は大急ぎで首に巻いた手ぬぐいをはずし、まくりあげたズボンのすそを下ろし、みなりを整えてていねいにあいさつを交わしました。あんまさんはいつも言います。「先生はどんな人にも分け隔てなく同じようにていねいに挨拶されます」。環境に影響されず、常に自分の決めた通りにできる人を自由の人と言います。ある人はこう言います。「昨夜ずうーっと眠れなかった。あの人の言ったことが私の心に傷となって」。もしこういう状況があるとすればこの人は自由な人とは言えません。言った人に、あるいはそのことばにコントロールされていますから。

 コルベ神父を例にとりましょう。……アウシュビッツのキャンプに収容されている人々……人問のボロのように扱われ、飢えで死に、失望のどん底にある人々の姿……!しかし、生きている限り彼らはまだ希望しつづけます。さて、ある日そこの責任者が彼らを集め、この中から、今選ぶ十人は飢死室の刑を受けなければならないと宣告します。この処刑のために選ばれ、もう家庭に帰ることも子どもたちにも会うことができなくなるのではないかと、一瞬、全員が覚悟させられました。そして、ついに十人が選ばれたとき、ほかの人々は恥じることもなく安堵の吐息をつきます。選ばれた十人には、もうなんの希望もないのです。突然コルベ神父が列を離れて進み出ました。責任者は彼をしげしげと眺めて、「いったい、このポーランドの豚は何を望むのか?」と叫びました。「私はこの人々のひとりの代わりに死にたいのです。」さあ、それはたいへんなことでした。だれも決して考えなかったことでした。将校は負けました。ひとりの人が、彼の前で彼よりもずっと高いところに立ったのです。将校は低いところにいる自分を見つけ、負けたことを感じます。彼は、この偉大さの前で恥じ入ったのでした。「じゃあ、いったい、だれの代わりに死にたいのだ?」「あそこにいる、家庭の父親のためです。妻と子どもたちのことを思って泣いている、あの下士官のためです」コルべ神父は連れていかれます。……ナチスの党員たちでさえ、「われわれは、こんなことをかつて見たことはなかった!」と叫ばずにはいられなかったのです。(『日常を神とともに』女子パウロ会)

 何が私たちを感動させるのでしょうか。答えは、自由。苦しみの中で私たちは真の自由を得て行きます。あなたにいま、苦しみがありますか。辛くて涙を流していますか。しかしあなたの中に確かに自由が育ちつつあります。どんな境遇にも負けない、どんな環境の奴隷にもならない、どんな人にも同様の接し方ができる自由。あなたには選ぶ自由があります。あなたの人生の主人公はあなただから、それは当たり前のこと。でもなかなか得る事のできなかった自由がいまあなたの手に戻って来ています。イエスさまは自由なお方として父なる神さまからの提案を拒否することも可能でした。人の代わりに死ぬと言うことです。でも自由な心は苦しい道ではあるけれども死を選びました。そして想像を絶する歓喜が彼には後に臨みました。自由、それは人としての誇り。

 さて苦難からどれほど多くの祝福を得る事ができるかを考えましょう。それは愛の神さまへの素朴な信頼感。素朴な信頼はことばへの敏感さとなって現れます。詩人は敏感です。たとえば65節にある「みことば」はダバール。これは「人に対する神の御旨」。66節の「仰せ」はミツバーで「権威ある明確な命令」で、母親を全面的に信頼している子どもが従順なさまです。他にも67節のイムラー(ことば)、ホーク(掟)、69節のピクード(戒め)、そしてお馴染みのトーラーは70節と72節にあります。それぞれみおしえ、おしえと訳されています。こういう、同じ神さまの仰せであり、ことばが使いわけられているところに詩人のみことばへのこだわりがあります。それはそのまま神さまへの素朴な信頼感を表しています、しっかり聞かなくっちゃあー、という。神さまってそれほど大切な方なのです。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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