聖書箇所 [レビ記8章、出エジプト記28章]
愛しあう者同士がいつもそばにいたいと思うのは当然です。またそばにいることがさらに愛を深めることにもなります。今回はあなたを愛する神さまと、神さまが愛してくださるあなたとの距離を縮める方法を考えましょう。題材は大祭司のきよめの儀式です。ちなみに旧約聖書は実物教育、あるいは視聴覚教育と言ってもいいのですが、目に見える事物、出来事、あるいは歴史はそれぞれ目に見えない重要な真理を表現しています。私たちにはそれを悟ることが求められています。その基準は新約聖書の持つ考え方です。こうしてこの学びは、よく難しいと言われる旧約聖書を理解するてがかりともなります。さて祭司はいわばお仲人さん、神さまと私たち人間の間を取り持ってくれます。そういう祭司たちの中の祭司が大祭司です。一時期に一人しかしません。大祭司は人間としてはもっとも神さまの近くに行ける立場です。
清い水による洗い[レビ記8章6節]
清めの儀式は4つの部分に別れますが、まず、水洗いです。アロンは初代大祭司です。人々はこれを見て、一つの事を考えなければなりませんでした。それは、真の洗いは内面的なものでなければいけないということ。 私は結婚式の司式をするのが大好きです。出席者のだれもが満面に笑みを浮かべています。私も嬉しくなります。ところで印象深いのがプログラムの中にある誓約です。司式者が新郎新婦に尋ねます。「あなたはこの姉妹(兄弟)と結婚し、神の定めに従って夫婦になろうとしています。あなたはその健やかな時も、病む時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、そのいのちのかぎり、堅く節操を守ることを約束しますか」。なんと重みのあることばでしょうか。それでもみなさん、よどみなく「はい、約束します」と答えます。ちょっといじわるながら、「そんなこと、約束して、本当に大丈夫?」とつい思いたくなります。ところで役所に婚姻届を出せば、それで夫婦だ、とは事実でしょう。でもそれだけでしょうか。互いに信頼や誠実さがなければいけません。真の夫婦とは、に限りませんが、すべてのことに内面的なものが問われるはずです。私たちは内面に、すなわち心の中に聖さが必要です。聖さこそが信頼や誠実さを保証します。どのようにそれは可能でしょうか。イエスさまをあなたの内面に迎えてください。イエスさまは現代の、そして永遠の大祭司です(ヘブル5:14)。実物教育の時代に人々は大祭司の胸元に注目しました。12ケの石がそこには見えました。それは全イスラエルを、すなわち12部族を現しています(出エジプト28:21)。大祭司はイスラエル全体を代表してもっとも神さまに近くいるのです。あなたがイエスさまを心に迎えているとき、あなたは永遠の大祭司イエスさまによってとりなしをされています。すなわちイエスさまの十字架の上でなされたあがないのゆえにあなたは聖められており(レビ21:8)、その証拠にあなたの名が「いのちの書」に記されています。(黙示20:12)。
着衣[レビ記8章7ー9節]
祭司の服は制服です。神さまによって細部にわたって定められたものでなければなりません。その衣装は非常にきらびやかで、美しいものでした。特に長い青服の上に着たチョッキのようなエポデはそうでした(出エジプト28:5、6)。編むために使われる糸の色は青、紫、緋、金の4種類でした。それぞれ意味があります。青はへりくだり、紫は偉大さ、緋は血、すなわちもっとも大事なもの、金は純粋さ。これらは一つのメッセージです。それは純粋にへりくだること、すなわち神に向けて自分のもっとも大事なものをさえささげてしまうということ、これがもっとも偉大であるというものです。イエスさまはあなたを救うためにご自分のいのちをささげられました。真にへりくだるとき、そこには奇跡が起こります。
インド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーは非暴力無抵抗主義者です。立派な人です。聖書の影響を受けてはいますが。クリスチャンではありません。彼は若い頃、南アフリカのプレトリアで教会に通っていたことがあります。でもクリスチャンにはなりませんでした。彼はこう言いました。「教会は社交場のようだ。単に習慣として彼らは集まっているに過ぎない」。中国共産党の毛沢東も若い頃、激しい政治闘争の時代、慰めと希望を教会に求めて通ったことがありました。でも彼はこう言って留まることはしませんでした。「教会は、キリスト教は中国に希望を与えない」。教会が100パーセント悪かったとは言えないことは間違いがありません。この二人も神さまの前に謙虚でなければなりません。しかし教会がつまづきを与えてしまったことは残念なことです。では教会がへりくだればいいのでしょうか。教会とはだれ?教会とはあなたです。あなたがへりくだってください。ここでちょっと日本文化について考えましょうか。
『古事記』『日本書紀』など日本の神話の世界では多くの神々が登場します。さて、その神々の中でトップはだれですか。ご存じ、天照大御神。なんと彼女は、そう、この人は女性。ところで彼女が神にささげる衣を織っている場面があります。ということは?彼女は真のトップではない、のです。では真のトップはだれ?これが分からない!日本ではだれが一番偉いのかが不明なのです。偉い者が最終的な意思決定をするのですが、だれが意思決定をしたのかが不明です。そしてもう一つ、悪や災いや罪はすべて外からやって来るものと考えられています。たとえば戦争は外からやって来るものであり、私たち人間にとっては常に巻き込まれるものです。だから、ニュースなどでも、もちろん日常会話でも「こうすることになった」と表現します。「戦争になった」のです。「なった」のでは仕方がありません。そこにはただただ情緒的な表現がひたすら使用されるだけです。戦争は「悲惨だ!むごいものだ!」などなど。例年、8月になると「なった」(常時使用されていますが)、および今のような情緒的な表現が日本中を覆い、かつ充満し、9月にはそれが終わることに「なります」。「なってしまった」ものは人間がどうしようにも何もできません。ここには決断する主体としての人間が不在なのです。だれが、が不在です。さて、話を戻しましょう。へりくだる主体が不在ではいけません。では、だれが?みんなで、ですか?いやいや、そうではありません。あなたが、です。あなたがへりくだらなければなりません。そうするときあなたはもっとも神に近い、そして人々はあなたを見ないで神を直接見ます。あなたがへりくだらないとき、人々は高慢なあなたを見ることはあっても神を見ることはありません。
油注ぎ[レビ記8章10ー12節]
モーセはアロンの頭に油を注ぎました。油は聖霊。祭壇にも、しかも7回も。礼拝の器具にも。これは自然界にもあがないの必要があるとのメッセージです。先日火星移住計画についてテレビで放送していました。温暖化により、地球は住めなくなるそうです。自然界も罪の結果、汚染され、あがないを必要としています。油が注がれるとあがなわれます。すなわち本来の姿を取り戻します。聖霊によりあなたは本来のあなたを取り戻します。新しい人になれます。でも私たちは聖霊さまに触れられることをどうやって実現できるのでしょうか。そのメッセージをいかにしてそれとして自分の人生に役立てることができるのでしょうか。もしできないとすると私たちの毎日の生活は不平不満の連続になりかねません。
教師が生徒たちから苦情を言われていました。「なぜ、こんなことを勉強しなければいけないんですか?」。
私にも同じような思いになった記憶があります。もしかするとあなたにも。私の場合、数学の時間、微分積分には苦労しました。「いったいこんなこ難しい勉強、何の役に立つんだろうか」と思いました。確かに、少なくとも私の人生に限っては微分積分が生活の中で必要だったことは皆無。さて、話を続けましょう。
教師はこういう話を生徒たちにしました。遊牧民がある晩、野宿していると、神々しい光に照らされました。いったい何だろう、といぶかっていると、ついに声が聞こえて来ました。「小石を拾って袋に入れなさい。一晩歩いて、袋の中を覗いてみなさい。あなたがたは喜び、その後すぐに後悔するであろう」。不思議な話だなあーと思いつつ、神々しさに促され、そのようにしました。一晩経って、袋の中を覗いてみました。なんと小石がダイヤモンドに変わっているではありませんか。人々はとっても喜び、かつ残念がったのでした。
事の前に何が大切なことなのか、分かるとなんとすばらしいでしょう。聖霊さまがあなたに、へりくだるあなたに語ってくださいます。時に試練があっても、その理由が分かるなら耐えることができます。つまらないことをしているなと思うことがあっても、じつはつまらないことではないと分かるならば、価値ある時間を過ごすことができます。聖霊さまの油注ぎを受けてください。そのときあなたは聖霊さまという神さまと一体化します。なんとすばらしいことでしょう。
いけにえの食事[レビ記8章23ー31節]
犠牲の雄羊を殺して、その血をアロンの耳と手足に塗りました。その後、煮て食べました。マトン、こんなにおいしいものはありませんが、食べました。耳は神さまに従順であること、従順さを証明するものが手足。真に聞くとは行動に現されるものです。祈りはまさにそのようなものです。真の祈りは行動を実際に招きます。行動は結果を生じさせます。そのようにして祝福はあなたのもとに届けられます。コツは、あなたの胃袋がいっぱいになっていること。霊の胃袋です。何で一杯に?マトンです。霊のマトン、羊、それはイエスさま。あなたの中にイエスさまはおられますか?心のまん中に。そのイエスさまはあなたの中でニコニコしていらっしゃいますか。あなたがニコニコしていないとイエスさまもニコニコなさいません。イエスさまがあなたの中にいらっしゃるということは、あなたの胃袋に神さまの愛がいっぱいになっているという意味です。「私は神さまに深ーく深ーく愛されている」という思い、意識。いかがでしょう。
1950年代、アウカインディアンに福音を伝えるために5人の宣教師が南アフリカに向かいました。でも無惨にも殺されてしまいました。やがて彼らの妻たちが同じ宣教地に向かいました。エリザベスはそういう一人でした。娘ともに伝道し、ついに自分の夫を殺した人を受洗に導き、祝福しました。憎しみでは応えず、愛で報いたのです。私たちは、どうでしょうか、赦すことはできるのでしょうか?私たちは執念深くていつまでもいつまでも「あのこと!」と言って忘れることはできないのではないでしょうか。「あの人が私にしたあのこと、あれは決して忘れることはできない!」と。でも神にはできるのです。愛が胃袋にいっぱいになったときにできるのです。このときあなたは神にもっとも近いのです。
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