146 三つのふれあい


聖書箇所 [マタイの福音書20章20ー28節]

 うれしいなあーって思う瞬間ってありますね。実はこれがとても大切。なぜって、生きる力になるから。生きるには喜びが必要なんです。アイスクリームを食べて、あーおいしかった、でいいのです。あのお店でした食事、良かったあー。これでいいのです。しかし、しかしです。いくつもアイスクリームを食べ続けるわけにはいきませんねえ。そこでもっと深いレベルの喜びをご紹介しましょう。それには三つのものとのふれあいが必要です。順に見て行きましょう。

母性

 お母さんの持っている性質のことです。イメージには万国共通のものがあるでしょう。暖かい、やさしい、ほんわかなどなど。こういう雰囲気を持っている人ってとても人気があります。困った時に限らず、普段から人々を引き付けます。中には厳しさこそが必要なんだと主張される方もいらっしゃいます。確かに必要ではありますが、多くの場合、そのように主張する人はかつて甘えることができなかったとか、いわゆるやさしさを経験できなかった人です。自分が持っていないものを他の人が持っていることには抵抗があるものです。それでつい厳しさを主張するというわけです。でもほんとうはそのような人もやさしさを求めています。
 ハーロウの実験をご存じでしょうか。アカゲザルを使った実験です。針金で二体の母猿を作ります。それぞれに哺乳びんをつけて。片方には毛布を巻きつけます。子猿を放ちますとどちらの母親と過ごす時間が多いかを見るものです。もちろんあなたの想像通り、毛布で包まれた方です。単にミルクが飲めればいいのではありません。あたたかい肌触りが必要です。さて母性はあなたの中にとても重要なものを育ててくれます。それは基本的信頼。アメリカの心理学者E・エリクソンが言いました。生まれて三ヶ月くらいの赤ちゃんがお母さんの胸に抱かれている時、もっとも基本的信頼が現出している、と。確かにそうでしょう。
 フロム・ライヒマンという女性の精神科医が精神病を作る母親という問題を研究していますが、一言で言えば不安になりやすい母親です。だいたい不安の原因は、1、嫁姑の確執。2、夫がひどくわがままであったり、浮気をしたりする場合。3、生活の破たん。事業の失敗であったり、リストラされたり。4、戦争や災害など。ちなみに最新の見解では精神分裂病はいわゆる精神の病気ではなくて、からだの病気と言われていますが、いずれにしても幼少の頃に不安に襲われてばかりいると大人になってから困難を覚えやすいのです。その困難を引き起こす理由と言うのが、基本的信頼が自分の中に十分に育っていないことです。無意識のうちについ社会を敵視してしまいます。これを基本的不信感が強いと言い、そのような人はこのように表現します。私が何かしようとすると意地悪をされる、私の人生が祝福されないのは社会が悪い、と。それに反して基本的信頼が十分に育っている人はこう考えます。私は生きていていいのだ、私は私のままでいいのだ、私は周囲の人々から歓迎されている、多くの人から愛されている。あなたの心の中にはこのような思いがありますか。このような思いのある人はほんとうに幸せな人です。健全な内面的な強さを持っています。基本的信頼感こそ生きる力とお分かりでしょうか。母性はこれをあなたに与えることができます。あなたはこの母性とのふれあいをするべきです。それには必要な手続きがあります。自分の中にある罪を認めてください。というのは母性の中には罪があって、つまり罪に汚染されていて、子孫に伝染させるからです。今回の聖書箇所に登場する二人の息子はヤコブとヨハネです。他の十人の弟子たちを出し抜いて自分たちだけが特別扱いを受けようと言うのです。マルコの福音書10章35ー45節の平行記事をお読みください。さらに臨場感たっぷりに味わえるでしょう。けしかけたのはお母さんです。お母さんは愛情が深い、でも自分の子どものことになるとむきになります。我を忘れるきらいがあります。というよりも他者の都合なんかどうでもよくなるのです。これが罪です。そして子どもたちに伝染してしまっています。私たちはみな罪人です。これを認める必要があります。でも心配しないでください。あなたはイエスさまの母性に期待できます。十字架であなたのすべての汚れを焼き捨ててくださいました。あなたにもはやそれを問うことをしません。あなたをありのままに包み込み、やさしく扱ってくださいます。あなたは心の奥底から憩うでしょう。喜びがあなたを包むでしょう。

父性

 父性と母性の違いは何でしょうか。もちろん字が異なっていますが、そのようなことではありません。子どもがころびました。お母さんはすぐに駆け寄って来て、「○○ちゃん、大丈夫!?痛かったねー、おーよしよしッ」といったところでしょうか。父親はどうしますか。「痛み、それも人生の一部!その痛みがお前を育てるッ!」。ことほどさように違いがあります。
 フランスの思想家ルソーはこう言っています。「この時期(子ども時代ー井上注)においてこそ、人は勇気を持つことを最初に学びとり、少しばかりの苦しみを恐れずに耐え忍んで、やがてはもっと大きな苦しみに耐えることを学び取る」(『エミール』岩波文庫)
 父性は何の役目を果たすのでしょうか。三つあります。コンセプト、ルール、生活技術を教えること。コンセプトとは理想と言い換えてもいいでしょう。たとえば家族とはこうあるべきだ、教会とはこうあるべきだ、とか。明確に示してくれないと成員はとまどいます。不安になります。これはトップリーダーの任務といってもいいでしょう。ルール、それは社会で生きて行くために必要な常識です。私は車を運転する時には右側を走りたい、と主張することはいけません。少なくとも日本においては。事故を起こすか、おまわりさんに捕まるかのどちらかです。決して利口なことではありません。どの社会にも決まりはあります。それを守るように父性は権威をもって教えます。さらに生活をするための技術。あいさつの仕方。買い物の仕方などなど。聖書では十戒(出エジプト記20章)がそのもっとも象徴的なものです。コンセプトでもあり、ルールでもあります。非常に強い権威が感じられます。ところでこういう反論もあります。このようなことは母性にだってあるじゃあーないかって。その通りです。でも少し違います。心理学者のユングは男性の中の女性性をアニマ、女性の中の男性性をアニムスと言いました。これは聖書的にはうなずけるものです。男性のあばら骨から女性は造られました。女性の材料は男性です。違いはそれぞれの中のパーセンテージです。男性的な女性もいれば女性的な男性もいます。さきの三つを提供するのが得意な女性もあれば、不得意な男性もいます。いずれにしても父性は私たちには与えられなければならないものです。父性こそが私たちの長い人生を安定したものにしてくれます。小さなことに一喜一憂しないで先も見越した人生を導きます。ヤコブもヨハネもここで一度失敗しました。人々に仕えるのではなく、仕えさせようと、つまりえばろうとしたことがイエスさまによって見抜かれました。他にも彼らの失敗は記録されています。イエスさまは彼らを叱りました。父性が発揮された瞬間でした。でも父性は彼らをしっかりと育て、それぞれ初代教会を担う立派な指導者になりました。権威に従うことを私たちは学ばなければなりません。イエスさまも従われました。

 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)

 現代は権威に従いにくい時代かも知れません。権威を持つ世代が次々に悪いことをするからです。でも私たちは権威に従うことを学ぶべきです。自らの幸せのために。

人性

 いわゆる人とのふれあい。人は人とのふれあいの中で人となります。狼少女の話をお聞きになったことがあると思います。カルカッタ近郊で狼に育てられた二人の少女が発見されました。シング牧師が引き取って育てましたが、夜になると目はランランと輝き、四つ足で走り回り、鶏を引きちぎりました。多少ことばを覚えましたが、狼のような人生を終えました。人は人々の中で人となります。とするとできるだけ良い環境を私たちは用意しなければなりません。質の良い人々に囲まれる必要があります。すると、そうか、そうだったのか、おれの今がこんな状態なのは環境が悪かったんだッ!とつい口走る人も。確かに一理あります。現実に人間が育つには良くない環境があります。それは認めます。しかし考え方として環境のせいにしても何の解決にもなりません。あえてこのように言いたいのです。環境は自分で作るもの。どのようにして?

 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。(ピリピ4:8)

 人と接する時に、その人の良いところに目を留めてください。この人は愛することがほんとうにじょうずだなあー、とか。するとすばらしいことが起きます。その長所があなたのものになります。伝染して来ます。いじわるな人はいつまでたっもいじわるなのはこの理由によります。人の悪いところばかり見ているからです。しかしあなたは良質の環境を手に入れることができます。そのためにこのような思いに無理なくなれるべく次の二つのことに注意してください。一つは人は互いに異なること。感じ方、受け止め方、表現の仕方などなど。お花を見て、多くの人はきれいと思うでしょう。でもきれいにも個性があります。きれいもさまざま。私はパソコンが趣味ですから、どのようにしたらこの色合いを実現できるだろうかと考えます。でもお花の先生は流派の主張するかたちにこだわるかも知れません。お互いに違いを尊重するときに私たちは人とのふれあいを楽しむことができます。うれしくなって来るでしょう。反対に違いを認めないとつい押し付けがましくなり、いやーな雰囲気になります。私はこう思うのに、なぜあなたは同じように思わないの!?というふうに。フランス料理が好きな人もいれば、イタリア料理が好きな人もいます。人それぞれです。もう一つは挨拶の仕方です。マタイの福音書28章9節と10節を見てください。復活さなったイエスさまが女性たちに出会う場面です。

 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」

 おはよう、とは平凡な挨拶です。私たちは突飛な、通じもしないことばを使っても意味がないのでこれは当然のことです。しかし、これに自分なりのユニークな挨拶を付加するといいのです。この場合は、「恐れてはいけません」。今、ちょうど、恐れととまどいを感じていたていた女性たちの心の琴線に触れたのは間違いがありません。喜びが彼女たちの中に沸き起こりました。これがふれあいというものです。あなたも友人に会うときに何か気のきいた一言を付け加えてみませんか。お互いの間にいままでとは違った関係が生まれること請け合い。
 三つのふれあいがあなたの心に生活に深いレベルの喜びをもたらすことをお話ししました。神さまの祝福を祈ります。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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