147 ほんとうの私


聖書箇所 [創世記25-34章]

 私たちは少なくとも心の片隅に、こんな私って、ほんとうの私じゃないッ!これが私の人生だなんて、そんなはずないッ!、というふうな思いがあるのではないでしょうか。これはどのように考えたらいいのでしょうか。異常なことなのでしょうか。いいえ、異常でないばかりか、このような思いを持つのは当然のことです。今の私たちは実際ほんとうの私ではないのですから。それはアダムが罪に落ちてから始まったことですし、その時アダムの中に私たちはいました。さて一番大切な間柄であるのに、すなわち夫婦の間に喧嘩が始まりました。そればかりか兄弟喧嘩も起き、ついには兄が弟を殺してしまいました。こういうアダムはほんとうのアダムではありません。今回はどのようにしたらほんとうの私を見出せるかを学びましょう。題材としてヤコブを取り上げましょう。彼は「押し退ける者」と呼ばれました。このような名前を付けられ生きて行く者の気持ちはどのようなものでしょうか。これはほんものの俺じゃあーない、と自問自答を繰り返していたのではないでしょうか。しかし後にはイスラエル、すなわち神の人と呼ばれるようになりました。彼はほんとうの私に出会いました。

神さまと触れあう時を活用する

 生活の中には大なり小なり、気付いても気がつかなくても、神さまと触れあう時が用意されています。以前新潟で集会を持とうと出かけた時のことです。雪道を私は走っていました。なんと急に前の車が止まろうとする(と私は判断しました)ではありませんか。大変驚きました。信号もないところで、まさか、の出来事でした。衝突の瞬間を私は覚悟しました。するとその車はすうーっと左に曲がりガソリンスタンドに入って行きました。私は神さまに深ーく感謝しました。これは車間距離を十分に取らなかった私のミスであり、追突してもまったく弁明のしようのないことでした。でも、私たち人間の思いは、たとえ自分に非があっても、自分の犯した失敗であっても、神さま、助けてーッ!と願うものではないでしょうか。後に記します「はじめのベテルの危機」と呼ばれている事件ですが、ヤコブは兄であるエサウをだましました。怒りにふるえるエサウから逃げる途中、彼の心の中はどんなふうだったでしょう。「だいたい、騙される方が悪いッ!」、「いや、いや、俺の方が悪かったかなあー」などと葛藤があったでしょう。しかし彼の中にずるさがあったことは疑いのないことです。そのような彼に神さまが触れてくださいます(創世記28:10〜22)。たとえ悪いことをしても、なお神さまは私のそばを離れず、声をかけてくださる、そういう私。彼はここでほんとうの私を経験します。どのようにして私たちは神さまとの触れあいを、ヤコブのように上手に活用することができるでしょうか。素朴な信仰を持つことです。エサウとヤコブは双児だけあってよく似ています。たとえば素朴さ。しかしその種類が異なります。25章29ー34節をお読みください。エサウが外出先から帰って来ました。お腹をすかして、もう我慢ができません。ヤコブの煮物が欲しくてたまらない。そこでヤコブは長子の権利と交換するならという条件を出します。いったいどのような違いがここにはあるのでしょう。エサウは目先のことに目がくらみ、ヤコブは目の前のものよりも、家系を欲しがります。家系とは神さまの祝福を運ぶパイプであると彼は知っています。途上国援助において水を即座に上げるよりも井戸の掘り方を教えてあげた方がいい、お金を上げるよりはお金の稼ぎ方を教えて上げた方がいいのと同じです。今、煮物を確保しているよりは祝福を生み出す家系を自分のものにした方が得策であると彼は知っています。これは信仰です。

 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。(ヘブル11:1-3)

 煮物は目に見えるものですが、家系は目に見えません。まだ見えていない、しかしやがて大きな祝福にあずかると信じるのが信仰です。ヤコブにはこのような素朴さがありました。あなたにもお勧めします。

劣等感を活用する

  保守政界の大御所と言えば吉田茂。彼はあるとき「変わった男がいる」と叫んだことがありました。田中角栄のことです。いつも六法全書を小わきに抱え歩く姿を目にしていたためです。きっと見栄を張っているんだろうと、ちょっといたずらの心が沸き上がって来て、法律の質問をしてみました。するとまるで機関銃のように答えが間髪を入れずに返って来るではありませんか。これをきっかけに吉田首相にかわいがられ最年少で大臣になったり、異例の出世をします。彼には劣等感がありました。家柄もよくない、学歴もない。ないないづくし。おまけにどもり。どもりを直すために彼は六法全書の条文を発声していました。そうしている間に暗記までしていまいました。劣等感はエネルギーです。
 先日テレビで多動症の子どもを特集していました。一時もじっとしていられない子どもです。親御さんの苦労は並み大抵のものではありません。周囲の目も誤解と偏見に満ちています。彼らが集まっているクラブの名をエジソンクラブというのだそうです。なぜ?エジソンは多動症だったそうです。彼については教師はこう言っています。「頭が悪くて、何一つ学ばない」。見る目のない教師ではありませんか。アインシュタインも同様に教師から言われました。「頭は悪いし、友だちとも遊べないし、馬鹿げた空想の世界にいつまでも浸っている」。これまたなんと見る目のないことか。ほんとうの彼らに気がついていませんね。ヤコブも劣等感のかたまりでした。エサウが生まれたとき、「人々はエサウと呼んだ」とあります(原文25:25)。エサウとはアスイから来ていて「成熟している」という意味です。そして「その後に出て来たのがヤコブ」(25:26)です。どういうことかと言いますと、長島一茂は可哀想だと言っているのです。「あの長島茂雄の息子さん」と、いつもいつも紹介される場合に一茂はどんな気持ちであったのでしょう。自分の存在は二次的な存在、彼がそう思っても仕方がないと言えるのではないでしょうか。劣等感がここに生まれます。私の場合、父も弟も優秀で私はその間に挟まれ、劣等感を持って育ちました。なにしろ成績が良くないものですから。もう一つ私にとって問題であったのは、さまざまなアイディアを思い付くのですが、「そんなくだらないことを考えている暇があったら一分でも長く勉強をしろ!」という父の怒鳴り声でした。いつのまにか、自分は普通の人間とは違うんじゃあないかという思いになって行きました。そういう私には素朴な疑問がありました。自分がまともな人間ではないなんてとても受け入れられない!と。やがて決定的なことが私の人生に起きました。イエスさまとの出会いです。イエスさまのあがないの愛を確信した私は、このままでは終わらないぞ!という気持ちになっていったのです。その気持ちを馬力のあるものにしたのが劣等感エネルギーでした。マグマのように私の中に存在していました。ただそれが吹き出す時ときっかけだけが必要でした。イエスさまの愛がきっかけであり、引き金になりました。やがて牧師の召命を受けますが、その頃私の母教会はなくなっていました。私をバックアップする教会はありませんでした。開拓だけが唯一の道でした。大宮の駅前で路傍伝道をしました。私は分かりました。教会を開拓をしている私がほんとうの私だ!と。以来いくつかの教会を開拓して来ました。そのつど私の中に燃えるものがあります。私は教会の中では常にこう言います。みなさん、どうかアイディアを提案してください。それを応援させてください。少なくともお祈りはさせてください、と。そのアイディアを実行している時、その人はほんとうの自分を経験するはずだから。劣等感を活用してほんとうの私を実現する方法は?それは実に簡単。イエスさまのおことばである、「あとの者が先になることが多いのです。」(マルコの福音書10:31)を信じることです。ただし後から抜いて行くことが気持ちがいいからといって高慢になってはいけません。高慢になると「先の者があとになり、あとの者が先になります」。お互いに謙虚でありたいものです。

試練を活用する

 人生には試練があります。ヤコブの場合を見てみましょう。
 第1は「はじめのベテルの危機」と呼ばれています。エサクをだましたときのことです。怒りにふるえるエサウから逃げる途中、神さまに会う経験をします(創世記28:10〜22)。どこへ逃げても、あいかわらず御手の中にいるということを彼は学びました。神さまの愛はひとりの人をどこまでも追いかけます。一生懸命に弁明をする自分、自分を責める自分、そうして自己嫌悪感に陥いる自分。
 第2は伯父ラバンにだまされる事件です。一旦自我が砕かれたかのようだったのですが、再び高慢になり、鼻をへし折られるようにしてラバンに何度もだまされます。自分がしたことを今度は自分がされるんだと悟ります。が、辛いことには変わりはありません。さらに嫌悪感をもよおすような人、つまりラバンのことですが、とともにいなくてはならない辛さも経験させられます。
 第3は「ペヌエルの危機」と呼ばれています。「押しのける」ヤコブはなおも肉の知恵によつて問題を解決する態度をくずしません。ラバンのもとをようやく離れた彼は好意的に迎えようとするエサウを信じることができず、恐れてさまざまな工作をします。でもそんな小手先のことで騙そうとする自分を見て、自分はこの程度の人間か、と思います。
 第4は「第2のベテルの危機」と呼ばれます。ヤコブは家に直行せずにシケムに寄り道をしました。そこでは彼の息子たちによる残虐な行為に顔色を変えました。息子たちがしていることの中に自分を見てがくぜんとなりました(創世記34)。
 試練の意味は何でしょうか。それは試練に会う者を裸にしてしまうこと。それにしても私たちは裸にされることがなんと嫌いなことでしょう。お金、財産、地位、名誉、人の目などなど。人の目を気にする人は少なくありませんね。そんなに重要なのでしょうか。そんなに人の目は確かなものなのでしょうか。
 1989年に強制わいせつ罪で捕まった宮崎勤を三人の専門科が精神鑑定をしました。性格的な偏りはあるが正常、精神分裂病、多重人格というふうに三者三様でした。時間をたっぷりかけたにもかかわらず。裸になることの重要性をお知らせしましょう。創世記2章7節をご覧ください。裸のアダムに対して神の息はすなわち霊は吹き掛けられています。逆に言えば裸に対してのみ神の霊は、すなわち聖霊は吹き掛けられるのです。そして人は生きたものとなるのです。ほんとうの私になるのです。虫けらとまで言われる(イザヤ41:14)ヤコブは、なんとすばらしい名前でしょうか、イスラエル(神の王子)と呼ばれます。ついにほんとうのヤコブが姿を見せました。二つのことを知ってください。裸、それは霊魂であり、霊魂こそほんとうのあなたであること。二つ目はそういうあなたに対して神さまは計画をお持ちであること。
 ロバート・ブラウニング(イギリス1812-1889)の詩を紹介しましょう。何がすばらしいか。聖書は欧米の書物ではありません。まして日本の書物でもありません。根底にはヘブライズムが流れています。神さまのメッセージはそれに乗せられて私たちのもとに届けられるのです。これに気がついた人です。

 年を取りなさい、私たちとともに。人生の最後、そのためにこそ最初は造られた。私たちの時は、御手の中にあり、その神は言われる。「すべては私が計画した。青年はただ、その半ばを知るのみ。神に委ねつつ、すべてを見るようにしなさい。ただし恐れないこと。(井上典威訳)

 年を取りなさいとは粋なせりふではありませんか。体力も記憶力も年々衰えます。しかし霊魂は衰えない、ばかりか成長するのです。成長しつつある霊魂は「もうダメだ!」とは結論づけない、青年は、しかし成功して高慢になり、失敗してそれを最終的な人生の結論と誤解する。青年は半ばを知るのみです。だから、年を取る、それは良いことだと彼は言うのです。霊魂を成長させ、そしてピークに達した時に次のステージ、つまり天国です、に案内しようと言うのがヘブライズムです。地上を充実して生きる者は次の世界でも充実して生きることができます。こういうあなたがほんとうのあなたです。

神さまの豊かな祝福があなたの上にありますように。



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