聖書箇所 [ピリピ人への手紙3章12ー16節]
私たちは生きています。生きていることのあかしは何でしょうか。成長であり、その先にある成熟です。私の教会にはかわいい子どもたちがたくさんいます。跳ねたり、飛んだり、叫んだり、泣いたり、なんと元気のいいこと!私はうれしくなります。彼らも、もちろんですが、教会も生きている!成長している!と感じるから。では年輩者は?と問われそうですが、20歳を過ぎたら肉体はすでに老化現象が始まっているそうです。30歳からは毎年0.8ミリメートルずつ身長が縮んでいるそうです。しかし身体は私たち人間の本質ではありません。霊魂こそ本質。ある女性たちは結婚して家庭に入り、空しさを感じます。なぜなのでしょう。霊魂が、私は成長から取り残されたと訴えているからです。今回は聖書の教える成長および成熟について考えましょう。
権威との出会い[14]
真の権威者とそれに従う者との関係はとても美しいものです。そして真の権威者はあなたを育てる親です。三ケ所からイエスさまの模範を見て行きましょう。マタイの福音書20章20ー23節。ここでは他の10人の仲間の弟子たちを無視して抜け駆けをしようとした二人の姿があります。彼らに対してイエスさまの答えは23節。だれが特別の椅子に座れるかは父がお決めになること、です。24章36節では世の終わりに関して、それは父の専権事項であるとおっしゃっています。26章39節では十字架の苦しみに関して、それが父の願いであるなら私は甘んじて受けると決意しておられます。それぞれのテーマはエゴイズム、傲慢、欲望であり、それらへの勝利は正当な権威に従うことによって可能であると示唆しています。こうしてイエスさまは私たちに対して模範を見せておられます。しかし権威との正しい関係は私たちが思う以上に難しいのが現状です。それは生育環境が影響を与えているからです。たとえばわがままに育った場合、とは親が子に対して権威ある者として責任を果たさなかった場合です。従う訓練がされていない者にとって従うことは拷問にも似たことです。それともう一つは、以前尊敬していた権威者によって裏切られた経験を持っている場合。それにより心に傷が残っているとすれば、その可能性は高いのですが、新たに出会った権威に対して懐疑的になるのは避けられません。さらにはこのようなことも言えるかも知れません。今の時代は特に若い人々には不幸かも。と言うのはテレビを見れば中年の男性が謝罪する姿、新聞を開けばハレンチなことをする警察官、というふうに通常権威を帯びているはずの年代の人々が悪いことばかりするのですから。私の世代はそういう意味では幸せでした。おじさん、おばさんと言えば、両親と同様の権威と尊敬を集めていました。決して軽蔑の意味を含めてはいませんでした。時代は変わり行くものです。今こそ私たちは正当な権威を知らなければなりません。正当な権威だけが私たちを成長に導いてくれます。しかしここで忘れてはいけない決定的な一つの事は罪に人類が堕ちて以降、正当な権威であろうとも従うことが困難になった事実です。生まれながらにして私たちは権威が嫌いなのです。ところがそのような状況を放置したままでは決して私たちは成長できないということも分かっています。幸いなことに、教会に来られる人々、このような聖書のメッセージに関心のある方々は実は少なくとも無意識のうちに私にとって真の権威者は誰なのだろうと探し求める思いがあることに気がついています。それはすばらしいことです。あなたを造られた天地の造り主である神さまは、真の権威あるお方として目を細めてあなたを今見つめていらっしゃいます。それをあなたが意識するとき、あなたは真の権威との出会いを果たしています。
成熟のためのエンジン[12-14]
成熟へ向かうためのエンジンはすでに存在しています。どこに?あなたの中に。あなたの霊魂の中に。そのエンジンが12ー14節の状況を現出させています。相当馬力がありそうですね。そうして成熟へとあなたを導きます。15節に「成人である」という語がありますが、これはギリシア語ではテレイオスと言います。十分に発達しているとか、努力を重ねてある一定のレベルを確保しているとかといった意味です。コンツエルマンという神学者は「信者の到達したある一定の高いレベル」と言います。エンジンがしっかりと動いてくれればそういうレベルを得られるでしょう。しかし忘れてならないのはエンジンは故障していることです。どんなに立派な車体でもエンジンが故障していれば車としての役目を果たすことはできません。故障、それは罪の結果です。しかしたとえそうであっても多くの真面目な人は成長をすることを諦めません。そこで採用するのが律法主義です。〜〜をしなければならない、〜〜をしてはいけない、を羅列します。これがやがて大きな苦しみを私たちに与えます。会社で縛られ、地域社会で縛られ、家族に縛られ、さらには律法主義に縛られるのです。がんじがらめです。どこに解放があるのでしょう。私たちは叫びます。ガラテヤ人への手紙ではこういう状態にある私たちをネピオスと呼びます。4章1節には子どもと訳されています。ルカの福音書15章11節以下に放蕩息子の話があります。親が死ぬ前に財産を渡してくれとは、まさに子どもの言うことでしょう。イスラエル社会では弟は父親の財産の三分の一が取り分でした。さらに当時イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、ローマ法に従い、14才まで後見人または養育係の管理下にありました。4章2節をお読みください。養育係という語で思い出される方は聖書を読んでいる方です。これは律法を指しています。3章24節をご覧ください。子どもには養育係が必要なのは分かります。でも大人になってからも必要とするのは問題です。大人になってからもなお羅列された箇条書きに頼ることを律法主義と言います。真面目な人ほど陥りやすい穴です。しかも抜け出しにくい。だれがここから私を救い出してくれるのかーと叫んだのがあのパウロです。ローマ人への手紙7章24節の叫びを聞いてください。非常に大きな重荷です。しかも降ろすことができない。ここで大切なことはこの困難を肯定的に捕らえることです。私の中には成熟を求める思いが、しかも強ーい思いがある!と。感謝!
限りない燃料補給[12]
ではどのようにしてこの迷路から私たちは抜け出ることができるのでしょうか。参考になることをお話しましょう。12節の、キリストが(そのために)私を捕らえてくださった、が鍵になります。まず、ヨハネの福音書4章13、14節をお開きください。サマリヤの女が水を求める有名な場面です。
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」
はじめの飲むは現在形です。後者は第二不定過去形です。意味が違います。前者は継続を現し、後者は一回性を現します。前者が飲むのはH2Oですから、何度も飲む必要があります。だってのどが乾きますもの。でも後者は一度飲めば、ずうーっと後々まで有効です。そんな水があるのでしょうか。あります。永遠のいのちです。キリストです。あなたがキリストを救い主として受け入れなさるとき、あなたの中に一生涯乾くことのない水が備わりました。さて次にガラテヤ人への手紙4章19節をお開きください。
私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。
形造られる、とはモルフォルマイ。これは中のものが表に現される場合に使われます。つまりあなたの中のキリストが表に現れることです。なんとすばらしいことでしょう。ところでこの動詞は受動態です。受け身です。自ら動きません。外部の何者かによって動かされることを期待しています。では何者とはだれ?栄光をお受けになり、天に帰られた御子と父とから送られる聖霊です。聖霊があなたに向けて、あなたの中のキリストに働きかけるとき、あなたは律法主義によらず、律法を満足させるべく活動を始めます。そうです。聖霊こそが成長のための、成熟に至るための鍵です。そのために二つのことをお知らせしましょう。 一つはみことばを霊魂の耳で聞くこと。聖書を読んでいるときに決してより好みをしないこと。このみことばは受け入れることはできない!などとは言わないこと。もう一つは聖められていること。私はクリスチャンになってからも心の中に一つのわだかまりを持っていました。それは父への憎しみ。生活のすべてに暗い影を落としていました。あるとき、それを悔い改めました。感謝に変わりました。私はいままで決して経験したことのない開放感に浸っている自分に気がつきました。以来、聖霊の運んで来てくださる、平安、知恵、力などにいつも励まされています。成熟へのあこがれは十分に満たされています。あなたにも同じことが起きることをお祈りしています。
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