聖書箇所 [ヨハネの福音書5章39節
今、世界は渾沌としています。不幸な出来事を見聞きするたびに、私たちはなぜと考え込みます。だれが私たちの疑問に答え、正しく説明できるでしょうか。この世界をお造りになった神さまにしかできません。今回は聖書、特に旧約聖書について学びましょう。旧約聖書を学べば新約聖書についても理解できるからです。日本語の聖書の目次に従って四つに分類してお話しましょう。
律法
通常モーセ五書と呼ばれ、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つです。これらの書物には天地創造、人と罪のはじまり、アブラハム・イサク・ヤコブ・ヨセフの物語、出エジプトの事件、荒野の40年間、そしてモーセの告別メッセージなどの記事が収録されています。これらからはどのようなメッセージが発せられているのでしょうか。それは二つ。神がこの世界と世界を動かすための決まりをお造りになった、というものです。私たちが手に触れ目で見る世界はいわばハードです。自動車で言えば外見上の車そのもの。決まりとはソフト。運転技術です。パソコンで言えばそれぞれは、本体とMAC OS10・WindowsXPです。私たちがなぜ一生懸命に聖書を読むのかと問われれば、この美しい立派な世界に神さまが用意してくださった祝福をいかに効率良く自分のものにして行くことができるか、そのための決まりを深く知るためです。それは申命記5章10節に明示されています。
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す……
決まりには二種類あります。一つはいわゆる重力の法則など自然法則と呼ばれるものです。これがないと普通の生活は難しくなります。テレビなどに映る無重力の空間にいる宇宙飛行士の様子を思い出してください。単にジュースを飲むのにも一苦労ではありませんか。もう一つは狭い意味における律法です。内容の豊富な律法ですが、そのエッセンスはモーセの十戒です。出エジプト記20章1節以下をお読みください。ここで質問があるかも知れません。異邦人である私たちには与えられていないではないか、です。ローマ人への手紙2章15節を見てください。
彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。
異邦人である私たちには良心に律法が刻まれています。その証拠に人間のどの社会にも十戒の一つ「人を殺してはいけない」という法律があります。反論があるかも知れませんね。首狩り族は?彼らにだってこの法律はあります。だれかれなく殺していたら族を形成できないではありませんか。殺しても良い場合とそうでない場合とがあります。それは文明社会でも同様です。戦争で多くの敵を殺せば勲章ものです。合法的に人を殺すことを仕事にしている人がいます。死刑執行人です。――さて聖書を学ぶには、この場合、決まりを学ぶには、ですが、大切なことは謙虚さと自由な精神です。謙虚さがないと決して良いものを吸収することはできません。19世紀までは力学と言えばニュートン力学でした。私たちの実用的な生活の中ではこれで十分でしたが、ミクロの世界を説明しえない理論であることがやがて判明してきます。そこで登場して来たのが量子力学であり、相対性理論です。ではニュートン力学はもはやお払い箱かと言うとそうではありません。ある限られた条件下ではいまも有効です。つまり私たちはだれも自分はすべてを知っていると言ってはいけないのです。さらに律法と聞くとつい私たちはユダヤ人に同情して生活をがんじがらめにされているなあーと思うかも知れません。確かにうな丼も、お寿司の多くも食べられません。しかし彼らは縛られているわけではありません。もしそうなら歴史上これだけの多くの優秀な人を輩出するはずがないではありませんか。アインシュタイン、フロイト、ハイネなどなど、数えきれません。彼らには自由な精神があります。私もいつも自由な精神を持っていたいと願い、あまり年令、年功、学歴、肩書きなどを重視しません。そのようなものに捕われると、あるいは先入観などを持ってしまうと考えがアイディアが制約されてしまうからです。ただしこれらを重大なものと考える人々からは歓迎されませんが。聖書の世界は実際は柔軟です。たとえば長子相続の決まりがあります。そして現実は……カインに対してアベルは弟、ヤコブはエサウの弟、ヨセフはヤコブの11番目の子、初代王サウルはヤコブ一族の末っ子ベニヤミンの出です。こうして見るといわば序列には関係のない実質主義が聖書の秩序と分かります。そうです。自由なのです。謙虚さと自由の精神とであなたは律法から祝福を勝ち取ってください。
歴史書
ヨシュア記からエステル記までの12書です。主にサムエルとエズラが書きました。モーセの後継者としてヨシュアが立ち、イスラエル人をカナンに導き入れます。そこには王国が建設されたことと、その歴史が記録されています。どんなメッセージが内包されているのでしょうか。その答えを言う前に大切な理解のためのヒントを差し上げましょう。イスラエル人やイスラエルという単語の代わりにあなたの名前を挿入してください。そうです。彼らはあなた自身でもあるのです。彼らはあなたに代わって失敗をしてくれたし、これからのあなたは事前に自分の人生に何が起きるかを予測することができます。私たちの人生には、そして社会には実に説明困難なことが多いか、ありがたいことです。 ヨブは義人と言われています。義人がなぜこんなに厳しい目に会わなければならないのでしょうか。ローマ人への手紙3章23節には、義人はいない、と書かれてあります。意味が違います。後者の意味でヨブが義人とは言われてはいません。つまり立派な人ではありましたが、それでも罪がないとは言うことはできません。では何の罪があったのでしょうか。高慢の罪です。今回米国は、そして米国民は大変傷付きました。私たち日本に住む者ならば無差別攻撃がどんなに悲惨な結果をもたらすものであるかを知っています。米国による東京大空襲と二度の原爆、少し遡っては朝鮮人による対馬ホロコースト。いずれも一般住民が多く殺害されました。心の中に消しがたい傷を残しました。私たちは米国民に同情できます。それでもなお言わなければならないのは、これは神による米国への罰であると。聖書の歴史観を私たちは知らなければなりません。神が愛し、選ばれたイスラエルをその罪の故に罰します。そのときに用いられた国は、エジプト、アッシリア、バビロン、そしてローマでした。では彼らは正しいのでしょうか。いいえ、正しくはありません。彼らはイスラエルを罰するために用いられた道具でしかありません。テロリストたちも悪です。では苦難の中にあるとき私たちは何をすべきでしょうか。悔い改めなければなりません。悲しみつつも、被害者やその家族たちに慰めを祈りつつも、私たち自身が悔い改めなければなりません。そのときに必要なのは神の悲しみを悲しむことです。このようなことを裏付けることばはエレミヤ書25章8ー12節にあります。
それゆえ、万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたがわたしのことばに聞き従わなかったために、見よ、わたしは北のすべての種族を呼び寄せる。――主の御告げ。――すなわち、わたしのしもべバビロンの王ネブカデレザルを呼び寄せて、この国と、その住民と、その回りのすべての国々とを攻めさせ、これを聖絶して、恐怖とし、あざけりとし、永遠の廃墟とする。わたしは彼らの楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声、ひき臼の音と、ともし火の光を消し去る。この国は全部、廃墟となって荒れ果て、これらの国々はバビロンの王に七十年仕える。七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民、――主の御告げ。――またカルデヤ人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。
文学書
ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書、雅歌の5つです。これらは宗教文学です。そこに表現されてあるものは人間の、罪人の、そして信仰者の持つ正直なかつ赤裸々な内面です。詩篇を見てみましょう。139篇19、22節と25篇11、18節とを比較してみてください。人には厳しく自分には甘い。そういう人間の持つ現実の姿が見えて来るではありませんか。しかもこう言うのはあのダビデです。信仰者の鏡と言ってもいいダビデ。ここに神さまの愛の深さがあります。神さまの前に隠せるものはありません。汚い私たちはそれを神さまに知られています。でも神さまは私たちを受け入れてくださいます。なんという懐の深さ。愛の美しさとその力を記した恋愛の書物が雅歌です。ヨブ記はなぜ義人が苦しむのかに解答を与えようとしています。伝道者の書は知恵を教えてくれます。私はよく子どもに「よーく考えなさい」と教え続けて来ました。カッとすることもある、でもそれで関係を切ってしまっていいのか、よーく考えなさい。自分を成長させてくれるものがそこにはあるかも知れない!と。神さまは私たちにすばらしい直感という能力をくださいました。それだけではありません。もう一つ。知性や理性による思索の能力。無駄にしてはいけません。今や知識量の多さを誇る時代ではありません。昔は熊さん、八つあんと言う物知りがいたものです。今はMO、JIP、CD-ROW、CD-RAMなどたくさんの記憶媒体があります。大切なのは欲しい情報をいかに適格にかつ敏速に得ることができるか、すなわち知恵の時代です。
預言者(書)
イザヤ書、エレミヤ書、哀歌、エゼキエル書、ダニエル書までを大預言書、ホセア書以下12書を小預言書と呼びます。単に分量の大小で分類しています。預言者たちは紀元前8世紀以降、イスラエルの危機に際して神さまを代弁しました。今は説教者が預言者です。現代でも預言が語られると言いますが、少なくとも「主は言われる」と言いながら、もしそれが事実でなかったら、それはそれは大変なことになります。旧約聖書の規定では死刑です。今は新約聖書の時代だというのは言い逃れです。さて、預言者たちは何を語ったのでしょうか。簡単に言いましょう。生活を不道徳なものにしてはいけません、人の目ではなく神の目を意識して生きなさい、神を伝えよ、です。彼らの伝えたことの中でもっとも重要だったのは何かと言いますと、回復のメッセージです。イスラエルはバビロンにより滅ぼされましたが、やがて回復するというものです。エゼキエル書37章1ー14節を見ましょう。
主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。そこには骨が満ちていた。主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」主は私に仰せられた。「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」私は、命じられたように預言した。私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。すると、骨と骨とが互いにつながった。私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。しかし、その中に息はなかった。そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
ことばと息(霊)が来てイスラエルは回復すると主張しています。ローマ人への手紙11章26ー29節を見てください。
こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」彼らは、福音によれば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びによれば、先祖たちのゆえに、愛されている者なのです。神の賜物と召命とは変わることがありません。
ことばと息(霊)とはメシアであり、イエスさまです。イエスさまが来られる時、すべての困難は克服され、問題は解決されます。イエスさまは愛であるから。
駐在さんが机を挟んでふて腐れた非行少年に向かって話していました。母親から悪いことばっかりする私の子どもに注意してくださいと頼まれたのです。そんな事情ですから、真面目に話を聞こうと言う気持ちもありません。ガラス戸一つ隔てて奥の部屋には妻と五歳の子がいました。子どもは言いました。「お母さん、どうしてお兄ちゃんを叱っているの?」。何も分からない彼には不思議な光景でした。やがて夕方になり、食事の時間になりました、すると「お母さん、お兄ちゃんにもご飯あげて!」と言います。貧しい食事を分けて、差し出すと「これがメシかッ!」と毒づきます。でもすきっ腹は嘘をつくことができません。お茶碗とお箸を手にすると思いきってお腹に流し込みます。それと同時に少年の目からは涙が溢れ出て止まらなくなるのです。やがて少年は五歳の子とたびたび遊ぶようになり、働くようになってからお米を持ってお礼にやってくるのです。ある人がこの話を聞いて「やさしさだけが人を変えることができる」。やさしさの究極、それがイエスさま。このイエスさまとの出会い、これこそ旧約聖書の私たちに向けてのメッセージです。
あなたがたは、聖書(これは当然、旧約聖書のこと!)の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書(同)を調べています。その聖書が、わたし(イエスさま)について証言しているのです。(ヨハネ5:39)
多くの人が聖書を教会を誤解しています。何か良い教えを教えてくれると。そうではありません。良い教えで人が変われるわけではありません。イエスさまを紹介しているのです。旧約聖書はあなたが救い主・あがない主イエスさまに出会うことを期待しているのです。
旧約聖書についてお分かりいただけたでしょうか。
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