聖書箇所 [申命記8章17、18節]
二年前、中学三年だった娘のクラス三年七組が作り上げたみごとな『ドラマ』は、忘れることができない。中三の三学期、子どもたちは一種の極限状態にある。そんな中で十五歳の選択の決断が迫られていた。中でもA君は『今のままでは合格出来る高校はないのではないか』といわれていた。さらに彼のウィークポイントは面と向かってしゃべるのが苦手ということ。ほとんど聞きとれない声で一言二言いうのがやっと、というありさまだった。この状態では面接試験を受けることは不可能に近い。そんな彼に、クラスの仲間の取った行動は、A君の受験の手助けをするプロジェクトチームを組んだことだった。女子はグループに分かれ、数学や英語の間題作りにいそしんだ。当時、自分の勉強はそっちのけで問題作りに熱中する娘を見て、正直いって私は複雑な思いになったものだった。作られた問題を使い、一対一の指導が昼休みや放課後に展開されていった。一方、男子が受け持ったのは面接の特訓、まず自分の住所、氏名を大きな声ではっきりと言う練習から始めた。予想される質問に答えをいっしょに考えるなど、短い休憩時間が練習に充てられた。その結果、必死の思いで受けた高校に、A君はみごと合格。先生も信じられないくらいうれしかったのだろう。学校に届いた合格電報を持って授業中の教室に飛び込んでVサイン。A君は、にっこりしてVサインをかえした。クラス中が『ワーツ』という歓声に包まれたという。……なお、このドラマの進行はひそかに行われ、担任がすべてを知ったのは卒業式の数日前だった。(朝日新聞1994年2月4日)
私はこの話にはとても感動しました。そしてなぜだろうかと考えました。謙虚さではないでしょうか。ここには一人としてだれもえばるものはいません。おれのやったことだ!と自慢するものはいません。申命記8章17、18節、これはイスラエル人ならだれでも子どもの頃から聞かされて来たことばです。いただいた祝福はあなたの手柄ではなくて、神さまがその契約に基づいて与えてくださる恵みでありプレゼントですよ、と戒めています。今回はこのことばを聞いて育った二人のイスラエル人が、学んで来た、本来私たちが自慢すべきもの、すなわち誇るべきものについて学びましょう。本来誇るべきものを誇る、これが真の謙虚さと言えます。そして謙虚な者は神さまに祝福されます。
貧しさ[ヤコブの手紙1章9、10節]
なぜ?でしょうか。それは、あなたは豊かにされるから。二つの面で豊かさをあなたは得るでしょう。1つは天国。私たちは誠実に生きようとします。正直に、そしてコツコツ努力して。これらがしっかりと神さまの目には見えていて、天国ですばらしい酬いを受けることができます。あなたはこれを信じますか。それから、他にはこういうことがあるのではないでしょうか。悪いことをしている人が得をしているとか、真面目な人が損をしているとか。もしそれが世界のそして人生の結論であるなら、この世界に神はいないと言ってもいいのではないでしょうか。でも神はいるのです。そのお方は必ず正確に精密に精算されます。あなたには失敗や罪があっても心配いりません。十字架のあがないがすでに帳消しにしてくれています。あなたには功績だけが評価されます。しかし、そうは言っても地上の生活でも祝福されたいのが私たちですね。それも心配しないでください。
私は結婚式の披露宴で証人の方がこのように挨拶されたのを忘れることができません。「井上さんは牧師になる人です。1つ確実なことは、井上さんは貧乏になることです!」。
伝道者であった彼は事実貧乏だったのですが、私と家内は驚きました。あかしとして言いますが、私たち夫婦は牧師になって21年、貧乏ではありません。むしろたくさん与えられて豊かです。なぜかって。これこそが豊かになる秘訣なのですが、神さまにささげるから。そうすると一旦貧乏になるのですが、これがいいこと!!神さまは改めて与えてくださいます。これの連続でした。豊かでなければ与えることはできません。ささげることはできません。多くささげればささげるほど、神さまは新たに私たち夫婦に多くを与えてくださいました。私たちは正直であるべきです。もし貧乏であるなら、神さまの前でそれを恥じる必要はありません。神の子であるあなたを神さまは貧乏のままでほおって置くことはなさいません。と言うのはこれは神さまのご性質です。次のことばを見てください。正しい者は、情け深くて人に施す。(詩篇37:21b)
もしあなたが貧しさを正直に認めるなら、いろいろな貧しさがあると思いますが、あなたは義の神さまに、あるいは神の義に会います。義の神は与える神です。一人の日本人がイスラエルを訪問しました。通りを歩いている時に一人の少年が近付いて来ていいました。「おじさん、そのポケットにあるボールペン、一本、ぼくに頂戴!」。とまどっていると、彼は続けてこう言いました。「そうすることがジャスティス(正義、義)じゃないかッ!」。お分かりでしょうか。二本持っている者が一本も持っていない者と分かち合う、それこそが正しいことだ!と言っています。これが聖書の世界の理屈です。しかし勘違いしないでください。友人や見知らぬ者に欲しいものを求めよと言っているのではありません。神さまは義のお方だから、あなたが貧乏であるときに、座視してはおられないと言っているのです。座視していては神の義がすたるのです。こういう神を信じるのはなんと言う祝福でしょう!
弱さ[コリント人への手紙第二12章9、10節]
先はヤコブのものでしたが、これと次はともにパウロの学んだものです。さてなぜ弱さを誇るべきなのでしょうか?答え、神があなたを強くしてくださるから。ところでパウロはどのようなことについて弱さを悩んでいるのでしょう。
次のことばを見てください。
私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。(ローマ7:15)
あなたにもこのような悩みがありますか。ありますか、ではないですね。人間ならだれでも悩みますね。赦せない人を前に、「私は赦さなければならない、でもそうできないッ!」。なぜ正しいことができない?弱さがあるから。そうです。これは人間だけが持つ悩み。ネコも犬もこのようなことに悩むことはありません。パウロは叫びました。
私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(24)
ある日曜学校の教師の話。教会の玄関の床が痛んでひびが入り、コンクリートがはがれていたので、セメントを買って来て修理をしました。周囲には柵をし、注意書きも添えました。夕方、少しずつ乾いて来ているなあーとうなずきながら帰宅しました。そして次の朝。気になって教会を覗いて見ると、なんと明らかに子どもの足跡がきれいにハッキリと。彼は烈火のごとく怒り、妻に当たりました。妻はそういう彼に言いました。いつも教師として愛をあなたは説いているのではないんですか?言うは易く行いは難し、です。弱さはことほどさように私たちを苦しめます。でも安心してください。あなたは強くされます。どうやって?まずあなたはあなたの弱さを認めなければなりません。お医者さんの前で、具合の悪いところを隠してどんな意味があるでしょう。正直に症状を知らせてこそ医者さんにも出番があるというものです。神さまはお医者さんです。救い主はお医者さんです。あなたを癒してくださいます。弱さは人間である私たちに罪を犯させるかぎりそれは治療されなければならないものです。どうやってそれは可能でしょうか。礼拝において、です。礼拝の中で聖霊さまが働きます。オロナイン軟膏のように塗っているうちに少しずつ、でも確実に癒しは進みます。実は私たちの持っている弱さは心の傷(トラウマ)に発します。心の傷が心の癖を作ります。私は本来、人に近づくのが苦手です。なぜかと言いますと、恐怖心があるからです。この人は私に何か悪いことをするに違いないとつい思ってしまいます。だから人にはやたら近づけません。人に容易に近づけない私は周囲からは冷たい人間だと見られることもしばしばでした。でしたと言うのは、今はもう癒されたからです。だれにも心の癖はあります。それはまただれにもあるトラウマから来ています。これを聖霊さまは礼拝の中で癒します。そして癒された者は正しいことができるようにされ、正しくないことを避けることができるようになります。ハレルヤ!
十字架[ガラテヤ人への手紙6章14、15節]
十字架の意味は何でしょうか。本来暗いものですね。みじめなものです。さばき、呪い、傷つける、罵る、殺すなどなど。決して明るいものではありません。なのにパウロはこれを誇ると言います。理由はこの後に復活があるからです。あなたは新しくされるからです。新しい創造とパウロは言います。この新しさとはどのような中身を持ったものでしょうか。それは自尊心を持ったあなたです。
オー・ヘンリーの作品にじゃがいもと牛肉と玉ねぎがあれば一文無しでも幸せという女性が登場します。そうです。幸福って心の問題で本質的に環境とは無関係です。本人が私は幸せと言ったら、その人は幸せです。では幸せの条件とは?ある研究者は、正常人と精神異常者との違いは自分の人生に意義を見い出しているかいないかだ、と言います。自分の人生に意義を見い出していられるのは自尊心があるからです。自分を尊ぶ心。自分を大切に思う心。私はかけがえのない存在だ、世界でたった一人、代替品はない、と思う心。十字架はあなたがいかに重要な存在であるかの証明です。存在の大きさは払われた犠牲の大きさや多さで分かるものです。もし私たちが親であるなら自分の子どものためには大きな犠牲を払うでしょう。たくさんのお金を費うでしょう。あなたは神さまの大切な子どもです。だから大きな犠牲が払われました、イエスさまという。
『おば捨て山』は古くから長野県に伝わる話です。殿様が、役に立たなくなった年寄りは山に捨てるようにと命令を発しました。一組の親子が重い足取りで山に向かっていました。息子がふと気がつくには、ポキッ、ポキッと音が聞こえます。背中の母親が言いました。「お前が帰り道、迷わないようにねッ」。
自分が捨てられてもなお息子を思う、これが親というです。あなたの真の親はだれですか?あなたは真の親から深ーく深ーく愛されています。その証拠が十字架です。あなたが誇るべきは十字架です。十字架こそあなたを新しくします。十字架はあなたの中のすべての否定的なものを釘づけにしてくれました。もはやあなたはあなた自身を傷つけてはいけません。罵ってはいけません。自分を否定したり、みくびったり、いいかげんに扱ったりしてはいけません。厳密に言えばそのようにすることは罪です。罪は十字架につけられました。どうか自分を大切に思う心、尊重する心を養ってください。
今回は三つの、あなたが誇るべきものを紹介しました。自分を誇らず、これらを誇るときあなたは真の謙虚さを得ます。謙虚な者を主はいつまでもいつまでも愛し、たくさん祝福してくださいます。
高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。(詩篇16:18)
謙遜は栄誉に先立つ。(詩篇15:33)
メッセージ集のページへ戻る