161 ラクになる人間関係

聖書箇所 [マタイの福音書22章34節ー23章12節]

 私のあかしですが、信仰を持って大きく変えられたことの一つは人間関係です。信仰を持つ以前は人前で話そうとするとしどろもどろ、容量を得ないことはなはだしい私でした。また友人たちが楽しく話していてもその中に入ることができませんでした。でも今は違います。なぜか?と私は考えますが、聖書を学んで来たことが一番の理由であると言えます。聖書は正しく読むとたくさんのすばらしい知恵に満たされていますから、それらをいくらでも吸収して祝福を受けることができます。今回の聖書箇所では登場しているパリサイ人や律法主義者たちの正しくない読み方が目立っています。たとえば34、35節をみてください。偉い方を試すなんてなんと失礼なことでしょうか。正しくない読み方をしているともはや質問をすることなどできなくなります(46)。聖書を正しく読む、これが人間関係で優れた知恵を得る鍵です。

自分にリーダーシップを取り戻す

 これは選択の自由を指しています。「これは良いことだ、したがってそうすることに決めた。さあ、それを実行するぞ!」。こういう一連の流れを実現することを言います。反対に、こうも言えます。「これは良くない習慣だ、したがってやめることにした。もう二度とそれをしないぞ!」。これは自分の人生において自分を主人公にすることを意味します。こんなこと当り前じゃあないかって?そうではないでしょう。多くの人が悪習慣から解放されない自分に悩んでいるのではありませんか。これ以上不規則な生活を続けていたら、からだを壊す……でもなかなかそう簡単にはやめられない、などなど。自分の人生において自分を主人公にしたいのであれば自分が自分のリーダーであるようにしなければなりません。そうすることによって自分の中に安定感を持つことができます。この安定感こそがあなたが相対する相手に安心感を与え良好な関係を生まれさせます。パリサイ人や律法主義者たちの心の中にはこういった安心感がありません。だから偉い方を試すような失礼なことを平気でするのです。自分の中にあるいらいらを自ら証明しています。23章1節以下ではパリサイ人や律法主義者たちの話すことはすばらしいが、彼らの行動は良くないとイエスさまはおっしゃっています。彼らは人をさばきます。あら探しをします。決して精神的に健全とは言えません。 次のような人生相談の記事を目にしました。

 中学三年の女子。中学一年の時に父とけんかし、「おまえは自殺しろ」と言われ、浅くですが手首を切りました。それからというもの、怒られたりむしゃくしゃしたりすると、カッターで腕を切るようになってしまいました。自分の体を切ると、怒りは静まり、落ち着きます。こんなことをする自分をなんとかしたいと、カッターを引き出しの奥にしまうのですが、いやなことがあると、また自分の気持ちがコントロールできなくなり、ついカッターを出してしまうのです。父は、とても厳しい神経質な性格で、少しでも機嫌を損ねると嫌みをいい、殴ります。父に怒られないようにしなければという思いでいっぱいです。体を傷つけてしまう自分をどうしたらよいでしょうか。だれにも相談できずに、悩んでいます。(滋賀・K子)(『読売新聞』2002.1.18)

 いったいどうしたら私たちは自分に自分の人生のリーダーシップを取り戻す事ができるのでしょうか。それはカウンセラーとしてのイエスさまを知ることです。カウンセラーはありのままあなたを受け入れてくれます。そうです。ありのままあなたは受け入れられるときに、その中にはあなたが過去においてしてしまった失敗など苦いものが含まれています。でもあなたは責められません。十字架があるからです。私たちはこう考えるのです。ありのまま受けいれてもらうのはいい、でも悪い部分をいったいどうしてくれる?と。心配要りません。十字架という焼却炉ですべて焼いてくれました。これを信じるのが、イエスさまを信じる信仰です。なんとすばらしいカウンセラーでしょうか。あなたの中に少しずつ自信が戻ってきます。それは聖霊さまのみわざです。パリサイ人や律法主義者たちは聖霊さまが理解できません(43)。でもイエスさまを信じる者の心の中には聖霊さまが力強く働いて、少しずつですが、着実にあなたにリーダーシップを取り戻す手伝いをしてくださいます。

他の人を歓迎する

 他の人を歓迎しましょう。なぜ?神さまがあなたの近くに置くのが必要と判断なさったから、その人はいるのです。これも神さまを信じることです。ある人は二週間入院しました。直ったので、退院しましたが、不摂生のためか三日で病院に戻って来ました。彼女はバツが悪かったのですが、知り合いになった看護婦さんに「ちょうどいいから、のんびりしたらいいですよ」と言われ、ホッとしたという話を聞きました。確かにレストランでもこういったことがあるでしょう。料理を運んで来たウエイトレスさんが料理をテーブルに置くなり、「食べ終わったら、さっさと帰ってください!」なんて言われようものなら、二度とここには来るまいと思うのではないでしょうか。「おはよう!」とあなたが挨拶して、「おはよう!」と返事があれば、あなたは歓迎されていますね(少なくともそのように受けとめますね)。逆に「おはよう!」と挨拶しても、何の返事もなければあなたは歓迎されていません。無視されています。もしあなたが他の人を歓迎するとあなたは歓迎されますよ。そして良い関係が生まれます。
 一人の男性が嬉しそうにしていました。新婚さんです。友人が尋ねました。「なぜ彼女と結婚したの?」。さあ、どんな返事が返って来たと思います?返事はこう。「だって彼女、ぼくを好きになってくれたッ」。そうです。ある意味で人間関係って単純なものです。好きになれば好きになってくれます。歓迎すれば歓迎してもらえます。そこで好きになる方法を伝授しましょう。良いところ探しゲームです。周囲の人々の良いところを探すようにしましょう。これを意識的にやってください。というのは罪のある私たちはつい無意識のうちに他者のあら探しをしてしまうものだから。パリサイ人や律法主義者たちのように。
 アインシュタインは20世紀最大の学者の一人です。でもなかなかことばが話せるようにはならず、両親は知恵遅れと判断していました。でも愛情いっぱいに育てました。学校からは悪い成績表を持って帰ります。担任の先生でさえ「知性的なものは何にも感じられない」と判断しています。彼にとって両親は力強い味方でした。いつも良いところを見てほめて抱き締めました。
 フロイトも親が破産してチェコスロバキアからウイーンに逃げて来たのですが、さんざんユダヤ人としていじわるや迫害を受けて辛い思いをしましたが、両親からは愛されました。家庭は彼がのびのびする場所でした。あなたには良いところが当然ですが、種々あります。どうかそのことに気がついてください。そうしてあなたの周囲にいる人も良いところを持っています。良いところさがしをしているとだんだんと人を好きになって行くものです。好きになれればしめたもの、相手もあなたを好きになってくれます。なんと楽しい事ではありませんか。

人を解放する

 私たちは心の中で何を考えているのでしょうか。多くの部分を占めるものはいったい何でしょうか?それは自分のこと!では自分の中の何にでしょうか?それは自分の気持ち。「私の気持ちを分かってーッ」です。いかがでしょうか、あたっているでしょうか。私たちは事実として「私の気持ちを分かって!」といつもいつも叫んでいます。このことのゆえに他者に対していろいろと期待が膨らみます。「ああしてほしいなー、こうしてほしいなー、あの人、こういう人だったらいいのになあー」などなど。しかしよーく考えてください。期待が強くなればなるほど裏切られるものです。こうして人間関係が破壊される可能性が出て来ます。それは一言で言って、人を縛ることをしているからです。私たちは罪深い。というのは私たちは他の人を縛りたがるのですが、自分が縛られるのは嫌いです。ゆえに他者の立場に立って、解放してあげると良い人間関係になります。反対の立場で考えてみてください。あれもして、これもして、と言われたら、あなたはだんだん辛くなるでしょう。
 心理学者パールズの『最高の祈り』をご紹介しましょう。

 「私は私のことをする。あなたはあなたのことをする。
 私は、あなたの期待に応えるために生きているのではない。
 あなたも私の期待に応えるために生きているのではない。
 私は私。あなたはあなた。
 この二人が、もしお互いに願いに応え合えたら、それはすばらしいことだ。
 でも、それができなかったとしても、二人がすばらしい友達であることに変わりはない」

 これを読んでほっとしましたか?そういうあなたは人の期待に答えようと苦しんで来た人ですね。「ちょっと冷たいんじゃーない」と感じた人は「私の期待に応えて−」といつもいつも求めて来た人ですね。愛とは何でしょうか。すべてに期待し、すべてを信じる、です。でもそれは神さまに向けられるべきです。もしあなたがそうなさるなら、それほどあなたは人に期待しなくても済むのではないでしょうか。神さまって良いお方ですから。良いお方があなたに良いことをしてくださらないなんてありえませんから。
  あなたの人間関係に神さまの祝福をお祈りいたします。