162 主と同じ姿に
聖書箇所 [マルコの福音書1章14節ー20節、コリント人への手紙第二3章17ー18節]
父なる神が私たちの住む地上に御子イエスを遣わしてくださったのはもちろん救い主として、私たちに救いを提供するためでした。これで100パーセント正解なのですが、別の角度からもう一つのことが指摘できます。それは人間の理想像を見せることです。私の造った人間は本来こんなにもすばらしいものだよと見てほしかったのです。コリント人への手紙第二などを書いたパウロはこういうことを言います。
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。(ピリピ3:17。他に。コリント11:1、「テサロニケ3:7)
でもパウロはイエスを見ています。イエスこそ私たち人間が目指すべき目標です。今回の説教題は、主と同じ姿に、です。そうです。私たちはイエスさまに似て行くことができます。この過程をメタモルフォーシス(名詞)と言います。ギリシア語で、その動詞はコリント人への手紙第二3章18節に登場します。「変えられる」と日本語で訳されます。意味はこうです。目に見えない内面的なすばらしいものが外面に、すなわち外側に目に見えるようにされて行くことです。さあ、私たちの目標とするイエスさまのご性質がどんなに魅力的かを見て、私たちがメタモルフォーシスされるための学びをしましょう。
哲学、またはメッセージを持っている
ちょっと難しく言うと魅力的な情報を発信していることです。聞いた人が「うーん、なるほど。こういう考えがあったのかあー」とうなるような、そんな感動させるような哲学あるいはメッセージです。聞いている人には希望が生まれるでしょう。
2002年1月、東京でアフガニスタン復興支援会議が21日と22日の二日間に開催され大成功を収めました。その中で一番輝いていたのはなんと言っても緒方貞子議長です。22日の記者会見でこう言いました。「物事は直線には進まない。忍耐と時間をかければ物事は動く。これが私の哲学だ」。彼女のこういう発言には伏線がありました。彼女は上智大学の教授を経て91年から10年間国連難民弁務官を務め世界の難民キャンプをその足で視察、つぶさに見て来ました。その間世界に向けてアフガニスタンを支援するように訴えて来ました。でも国際社会はそれを無視して来ました。そうしてテロが起きてようやく目が開かれ、国際社会は真剣になったのです。先を見ることのできる彼女の、彼女の持つ哲学は、またそれから発せられるメッセージは希望を与えてくれます。ではイエスさまの発せられるメッセージはどのようなものでしょうか。まずはバプテスマのヨハネのメッセージから見てみましょう。1章15節です。
時が満ち、神の国は近くなった
そしてイエスさまのメッセージは、神の国はもう来ている、というものです。というのはイエスさまご自身が神の国を運んで来てくださったからです。十字架と復活の福音を指しています。その中身は「あなたは新しくなる!」です。イエスさまはあなたに「あなたは新しくされる!」と情報を発信しておられます。ここに私たちの希望があります。そういう魅力的なメッセージをあなたが持つようになるためにはどうしたらいいでしょうか。それは聖霊さまとの交流によって可能です。コリント人への手紙第二3章17ー18節には御霊のわざである旨記されています。御霊は主であられるイエスさまの霊です。目の前に人がいて、あなたは話しかけますね。そのように話してください。あなたの思いの中にそれと分かるようになるでしょう。
豊かな感受性を持っている
これはイエスさまのことばでは「幼子のように」です。幼子は極めて単純に物事に感動するものです。「これあげる!」と言うと「わッ、うれしい!」と叫んでもう自分の手の中に収めてしまっています。でも大人はどうでしょう。「ただより高いものはない、うーん!!!?どうしよう、受取ろうか、やめようかッ」。いろいろと考え込んでしまいますね。でも注意してください。幼子の良いところに注目しているのであって、幼子には罪がないとかエゴイズムがないとかを言っているのではありません。罪もあり、エゴイズムもあります。子どもを観察していればよく分かります。ただ幼子の良いところは創造性の豊かさです。なんの先入観もありません。固定観念もありません。ほんとうに自由な発想ができます。感受性の豊かさはそのまま私たちの人生の豊かさです。神さまご自身がそうです。「光りあれ!」と叫び?そこには光が生まれました。まったくの自由がそこにはあります。
私は30数年前に救われました。その頃新潟県方面へ、あるキリスト教団体がスキーキャンプを催しました。私も参加し、とっても恵まれ、楽しい時間を過ごしいました。そのときにスキー場でこの団体と関係のない一人の学生と知り合いになりました。私は救われて嬉しかったものですから、話のはずみでイエスさまについて彼に話しました。そうして思わず、「イエスさまを信じませんか?」って聞いてしまったのです。なんと、彼は「信じます!」と言うではありませんか。驚いたのは私です。まさかこういう答えが返って来るとは予想もしていなかったので、心の中では「ほんとうにあなたは信じるんですか。本心ですか。後悔しませんか?私の質問の意味が分かっていますか」などなどの思いが駆け巡っていました。そうして私がいまでも思い出す事ですが、彼が「信じます!」と発言したので、あとは私にはしゃべることばがまったくありませんでした。話せなくなってしまったのです。そのあとどのように話を続けたらいいのかが分かりませんでした。後になって悔やむことになるのですが、ただ一つはっきり分かったことは感動は伝わる、ということ。あなたは何に感動しますか。感動していますか。最大の感動はイエスさまにより救われたことではないでしょうか。豊かな感受性の中に神さまは生きて働かれます。どうしたらこのような感受性を私たちは持てるのでしょうか。それは小さなことに忠実であること。イエスさまご自身の教えです。礼拝する、祈る、人に親切にするなどなど。しかし反対に私たちの心の中では一つ一つは繰り返されるたびに小さくなります。それと同時に感動も薄れて行きます。どうか覚えてください。小さなことの中に大きな感動は生まれます。イエスさまは弟子たちをリクルートしておられるのが今回のマルコの福音書の箇所です。彼ら4人とも決してオピニオンリーダーではありません。シモン・ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという彼らは「無学のただ人」(使徒4:13)と言われます。いわば小さい人です。この小さい人にイエスさまは丁寧に接しておられます。やがて彼らはメタモルフォーシスされて実に立派なリーダーに成長して行きます。神さまのわざがなされました。
夢を共有している
イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。(マルコ1:17、18)
彼らはイエスさまと夢を共有しました。とっても大きな感動が彼らにはありました。そうでなければ漁師、そうです。彼らは漁師です。捨てた網は漁師のいのちではありませんか。よほど大きな魅力的な動機がなければ網を捨てるなんて考えられません。さて感動がすなおに沸き上がるには秘密がありました。イエスさまはこうはおっしゃていません。「あなたがたを伝道師にしよう」と。もしこうおっしゃったとするなら、彼らは考え込んだでしょう。なぜかって。未知との遭遇だから。人間はだれでも未知との出会いに恐怖心を覚えるものです。何が起きるか分からない、したがって、もし起きた場合に対処の仕方が不明です。これは恐怖です。イエスさまのアプローチは見事です。専門的にはイエスイエスアプローチと呼ばれるものです。イエスと答えられる質問を繰り返して行くのです。そうしてもっとも大切に質問にイエスと言ってもらうのです。「あなたは漁師ですね?」「イエス」。「あなたは漁場はガリラヤ湖ですね?」「イエス」。「あなたは魚を釣るんですね?」「イエス」。「もっと魅力的な漁場があったらいいですね?」「イエス」。「あなたは魚の他にもっと魅力的なものが釣れたらいいですね?」「イエス」。「人を釣ってみませんか」「イエス」。これはテクニックです。でもイエスさまにはなんと言っても愛情があります。人の可能性をつぶすことは親切ではありません。彼らは伝道者としてその能力を発揮して行きますが、その出発点においてイエスさまによる愛ある配慮がここには見られます。ほんとうの愛情は相手に理解しやすいようにすることです。突然大きなものを見せておどかしても決して喜んでくれるものでもありません。
私は開拓以来いくつもの教会(チャペルと呼んでいます)を建設して来ています。なぜかと言いますと、100人の人がいれば100の理想があるでしょう。でも一つの教会しかなければ一つの理想しか実現できません。数が多ければ多いほど実現できる数も多くなるはず、そう考えました。さらに私たちは一人一人が個性的なので、そういう私たちが集まる教会も個性的であるはず、とも考えました。教会にも個性があるはずです。人格があるはずです。私はなんとかして多様な教会を建てて行きたいのです。個性的なという意味で多種多様な教会を建てて行きたいのです。そうして人々に奉仕をしたいのです。これは神さまが私にくださった夢であり理想です。だれとでも共有できると信じます。なぜならはじめ私は教会を開設しますが、やがてリーダーシップを現地の教会員のみなさんに渡して行きます。彼ら自身が理想を追求します。私はあくまで補佐役で、主役は現地の(文化や種々の土地の事情を知っている)教会員でなければなりません。あなたも他の人と夢を共有することができます。あなたの心の中に与えられたアイディアの中に必ず他の人と共有できる部分があります。それを育んでください。他の人と一緒に大きくして行ってください。神さまは人間を一人で生きるようには造ってはおられません。
神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。……」(創世記2:18)
芸術家は一人で生きているように見えますが、偉大な芸術家ほど時代を超えて、国境を超えて愛されます。感動と夢を多くの人と共有しています。あなたも他の人と夢を追い掛ける愉しみを生きてみませんか。魅力的な人はそうしています。