171 水を汲んで差し上げましょう

聖書箇所 [創世記24章]

 今日の話の中心登場人物はエリエゼルとリベカです。エリエゼルはアブラハムのしもべです。リベカはアブラハムの一人息子イサクのお嫁さんになる人です。分かりやすくするためにこのような構図をご紹介しましょう。アブラハムは父なる神、イサクは一人子イエス・キリスト、そしてエリエゼルとリベカは神の陣営(側)にいる人々を表しています。話の焦点は神の陣営(側)にいる人々の持つ美しさあるいは魅力。ではどんな美しさあるいは魅力なのでしょうか。それは従うこと。今回は3つの内容を彼らから見て行きましょう。

人(他者)の必要に従った

 しもべエリエゼルは年老いたアブラハムの真剣な願いに誠実に答えようとし、イサクのお嫁さん探しに旅に出ます(24:1-9)。さて向った先でリベカと運命的な出会いをします。ちなみに、大事な大事なご子息様のお嫁さんにふさわしい人物かどうかのテストを用意しています(同10-14)。そうしてリベカは見事合格。その様子はまことに感動的です。

 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま。」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」と言った。彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。(17-21)

 エリエゼルの希望に快く応じたばかりでなく、らくだにも飲ませてやりましょうと言い出すのです。当時は現代と異なり、つるべ井戸です。かなりの重労働です。しかもらくだは咽が乾いている場合、200リットルも飲むと言います。10頭ですから、2000リットル。自衛隊の給水車にでも頼みたいくらいです。ここにリベカの気立ての良さがいかんなく表現されています。お見合い結婚の好例です。聖書は恋愛結婚だけを奨励しているのではありません。聖書は幅の広い考えを私たちに示しています。ここで学びたいことは、愛すること。愛することの勧めです。もしあなたが他者を愛すると心がパアーっと明るくなります。なぜなら私たち人間は神のかたちを持ち、これが「愛したい欲求」を持っているからです。多少壊れてはいますが、壊れていても車は車、人間だって人間。愛したい思いがあなたにもありますよ。もしこの欲求が満たされないと欲求不満になります。いらいら、ぶつぶつと。さらにもう一つのすばらしい恵み。それは「私は必要とされている意識」を持つことができます。現代、リストラの嵐が吹き荒れています。ある朝、出勤したところ、「あなたは、もう、この会社には必要ありません」と言われます。なんという残酷なせりふでしょうか。経営者も同時に苦しいのですが、宣告される方も辛い。「あなたは必要ありません」という宣告。大きく、深ーく傷つきます。反対に言えば、「あなたは必要とされていますよ」という宣告ぐらい、ありがたいものはないと言えます。私は先の阪神大震災のときに、被災者たち一人一人を訪ねて、「今、困っていることはありませんか?」「今、必要なものは何ですか?」と物資の補給基地との間を何度も何度も往復していた青年の輝く顔を忘れることができません。それはテレビ画面にアップされていました。今、私たちにはおそらくつるべ井戸から2000リットルの水を汲む働きはないのです。でも身近に多くの、小さな親切は求められているのではないでしょうか。あなたの心は愛することを通して明るくなります。神の陣営(側)にいる人々は他者の必要に従おうと努めるのです。

調和に従った

 エリエゼルはアブラハム一族(家の子)郎党の中で立派に務めを果たしました。ちなみに一族(家の子)とは主人と血縁関係にあり、郎党にはありません。ちなみにイスラエル人の大家族制度は次のようになっています。
 
 イスラエル(全家、の民、人)ーー部族ーー氏族ーー家族(ヨシュア7:16-18が参考になるでしょう)。

 リベカもエリエゼルについて行くというそのセンスの良さで自分の立場をわきまえていることを証明しています。

 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」」と尋ねた。すると彼女は「はい。参ります」と答えた。(24:58)

 即断即決でした。いつも即断即決が良いとは言えませんが、ここではリベカの意志決定の優れたセンスが光ります。先に述べたようにこれはお見合い結婚の成功例ですが、謙虚さが生んだ美しい調和の世界が現出しています。エリエゼルはアブラハム一家の筆頭家老です(創世記15:1-4)。財産すべての管理を任されている、極めて強く信頼されている人です。それだけに危険な旅に出る行為は避けたいというのが本音とも言えます。でも出ました。尊敬する主人のためであったからです。これは自分の役目であると認識したからです。リベカの決断も同様です。私たちは互いに謙虚でありたいものです。年令や経験を多く重ねた人にはそれだけの知恵があります(すべての人に、ではありませんし、助言や意見にはエゴイズムを含んでいる場合もありますので、手放しで賛成できるとは言えないことは言うまでもありません)。また広い世界にはあなたよりも実力を持った人がいるものです。

 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。(ピリピ2:3)

 私たちはあまり肩書きや地位や年令というような外面的なものに目を奪われないようにすべきではないでしょうか。内面的な本質的なものが見えなくなる危険があります。私はあまり肩書きや地位や年令というようなものにこだわりを持たない方です。内面や真の実力・能力をその人の中に発見し、そこから学びたいからです。日本には昔から優れた思想があります。武士道です。その核となる部分に、相手に対する「尊敬」があります。相撲でも、空手でも、柔道でも、見ていると分かりますが、決してガッツポーズを取りません。勝者もおごらず、敗者もいじけず、互いに丁寧に礼をします。相手への尊敬の念を表現します。これは上に紹介したみことばが教えていることではありませんか。私たち人間が互いに尊敬する世界こそ神の世界、調和ある世界、であるはずです。しかし現実にはこの調和を実現することがほんとうに難しい!

 オックスフォード大学教授リチャード・ドーキンスは、人間はなぜ人間同士で戦うのかというインタビューに答えてこう言います。

 「自分の所属する集団に一体感を感じ、他の集団に敵意を抱くという人間の生物学的な傾向が戦争を可能にさせていると言える。こういう実験がある。同じ学校の学生を適当に二つの集団に分け、例えば緑と青のユニホームを着せてゲームをさせると、集団間に激しい敵意が生まれる。カトリックとプロテスタントが対立している北アイルランド問題も、神学的相違ではなく、異なる集団であること自体が敵意を引き起こしている。(対立の原因とされる)宗教、言語、地域なども、結局、『色の違うユニフォーム』と一緒だ」(『読売新聞2002.1.12』)

 こう言って、彼は戦闘的無神論者と知られます。残念な事に、彼は皮相的な見方しかしていません。人間の中にある罪に気がつこうとはしません。罪こそが私たち人間社会の調和を壊し、それを実現させなくさせています。その罪はエゴイズムという罪です。それは、「私こそがナンバー1だ!」という意識です。「私の意見こそがいつも正しい!」と叫ぶ心です。決して自らをして他者にへりくだることをさせません。相手の中に決して良いものを認めません。いや、口では認めると表明しますが、心の中では認めてはいません。もう結論をお分かりでしょう。人間のわざでは実現不可能な世界が調和の世界です。聖霊さまに期待するしかありません。一人一人が聖霊さまに聖められてこそ、私たちは謙虚に自分の役割をわきまえることができ、他者の役割をも尊敬心とともに承認することができます。神の陣営(側)にいる人々は、調和ある世界の実現に努めます。

一つの目標または目的に従った

 エリエゼルはひたすら良いお嫁さんを探そうとします。リベカもひたすらラクダに水を汲み続けます。物事に集中している姿には美しいものがあります。

 フランスで実際に起きたことです。一人の年輩者が炎天下、道路に這いつくばっていました。そこを通りかかったあまわりさんは「法律に従ってお前を拘束する」と言いました。「なぜですか?」「挙動不審だ」。彼は蠅をただ観察していただけでした。彼こそ『昆虫記』で有名なジャン・アンリ・ファーブルでした。おまわりさんも恐縮していました。別に有名人になる必要もないのですが、私たちの幸せは日常の一こま一こまの中にあると言えるのではないでしょうか。

 幕末の越前藩(今の福井県)に橘曙覧(たちばなあけみ)という武士がいました。彼は国学者、歌人でもありました。彼の作品に短歌の連作『独楽吟五十二首』があります。全部で52首あり、長いので3つだけを紹介しましょう。すべては「たのしみは……」で始まっています。なにやら「幸いなるかな……」の山上の垂訓に似ています。

 「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべてものを食ふとき」

 「たのしみは三人の子どもすくすくと大きくなれる姿見るとき」

 「たのしみはまれに魚煮て子らみながうましうましといひて食ふとき」

 すべてこんな調子です。生活振りが目に見えるようですが、確かに貧しかった。でも幸せだった、のです。私たちにはそれぞれ目の前に置かれた課題、あるいは使命、あるいは仕事があります。もし神さまを中心にしていたとすれば、知らず知らずのうちに一つの目標に、あるいは目的に向っているということが起きます。それは同時に私たち、神の陣営(側)にいる者にはほんとうの心嬉しさを味わわせてもらえることでもあります。私たちは日常の生活でさまざまな事態と出会い、迷います。でもすべては神の御手の中でことは進み、最後は神の栄光が表されます。

 1994年9月26日、北欧の海で客船エストニア号が遭難し、800以上の犠牲者を出しました。フィンランド人宣教師ピヒカラさんがこう言います。「フィンランド人、スウエーデン人、エストニア人が罪深い生活をしています。客船の中はその縮図でした。泥酔とフリーセックスがそこにはありました。しかしこの船には20人の神学生が乗っていました。デッキにいた彼らはパニックに陥っている階下へ降りて行って乗客たちに福音を伝えました。そのため多くの学生たちが帰らぬ人となりました。

 この事件を機に北欧の教会では人生の最後をどう生きるか、そして人生において何が一番大切かというテーマが話し合われたと言います。人生において永遠のいのちこそがもっとも大切、と理解する、神の陣営(側)にいる私たちには、彼ら学生たちが知らず知らずの内に、神に用意された価値ある一つの目標または目的に従っていたことを理解することができます。エリエゼルとリベカは知らず知らずの内にアブラハムが神から受けた祝福をしっかりと子孫に継承していたのです。この子孫にはもちろんあなたも含まれています。愛の神さまを信じて生活する者には、神さまがしっかりとその人生が祝福されるように、神さまご自身が導いてくださいます。あなたは信じますか?